月下に響く、かりそめの寵愛
帝、魏影は、手すりに腰掛ける少女をじっと見つめた。
そして、静かに、しかし切実な声を漏らした。
「願い、か……。ならば、余、俺をこの静寂から連れ出してくれ」
その言葉は、帝という座の重みに耐えかねた、一人の男の悲鳴であった。
「この広い宮中で、俺は常に一人だ。家臣は跪き、妃たちは余の影に怯えるか、あるいは家門の利益しか見ておらぬ。俺の歌が届く相手など、この世にはおらぬと思っていた」
少女ー翠玉の森の主であり、天珠という名を持つその神は、目を細める。
この男の歌がどこか寂しげだった理由が、ようやく分かった気がした。
「ふむ、孤独からの解放か。存外、神に願うには安い対価よ。……よい。ならば、妾がそなたの側に居てやろう」
「……側に?」
「左様。ただし、妾が神であると知られれば、世俗の者共が騒ぎ立てて興醒めよ。妾は今日から、そなたが最も愛でる『妃』のふりをしてやろう。これならば、誰に気兼ねすることなく、妾と語らえよう?」
翌朝、宮中に激震が走った。
昨夜まで誰も知らなかった謎の美女が、帝の寝殿から現れ、そのまま「貴妃」の位を授けられたというのだ。
神の御業で人の記憶を塗り替え、天珠は王宮の一角に居を構えた。
使い魔のウサギたちは、袖の中に隠れて菓子を盗み食いし、キツネは宮廷の屋根の上で、不届きな家臣がいないか目を光らせる。
「……そなた、またそんな難しい顔をして」
ある日の午後。政務に疲れ果てた魏影の背後に、天珠は音もなく降り立った。
魏影は、その姿を見るなり、険しかった表情をふっと緩める。
「……この山のような奏上文を読んでいると、人の欲望の深さに眩暈がする。だが、其方の顔を見ると、不思議と耳の奥にあの調べが戻ってくるのだ。」
「妾はただの気まぐれな神よ。そなたが美しい歌を忘れたら、いつでも森へ帰ってしまうぞ。」
天珠が冗談めかして言うと、魏影は珍しく狼狽えたようにその手を取った。
その掌は恐ろしいまでに熱く、少しだけ震えている。
「ならぬ!」
魏影はさらに力を込め、その手を離さない。
「行かせぬ。其方が来てから、俺の夜はもう暗くないのだ。」
魏影の瞳に宿る熱。それは、単なる信仰心でも、一時の情欲でもなかった。
「其方は、俺が帝としてではなく、ただの男として語れる唯一の者なのだから」
握られた手の温もりに、天珠は神としての永い一生で初めて、胸の奥がざわつくのを感じた。
だが、それは恋心などという甘いものではない。
自分を絡め取ろうとする、この男の底知れない「執着」への本能的な危機感であった。
自分は妃のふりをしているに過ぎぬ。
けれど、この男が紡ぐ歌が、次第に自分だけを閉じ込める檻のような旋律へと変わっていく。
天珠は、その歪な響きに警戒を覚えながらも、これまでにない未知の刺激に、抗いがたく惹きつけられてしまうのであった。
魏影の願いが歪んでいくその福音にさえ、神として天珠は惹かれるままに微笑をこぼした。




