第23話 皮肉屋の隊長と、盤上の遊戯と、最初の火種と
孤児院からの帰り道、フィンはどこか上の空だった。
時折自分の手のひらを見つめては、何かを確かめるようにそっと握りしめている。彼の心の中で何かが変わり始めたのは間違いなかった。
「マスター。フィンさんの心の傷を癒やすために、あえて聖域であるこの場所をお選びになったのですね。そして子供たちの純粋な魂に触れさせることで、彼が失っていた自己肯定感を取り戻させる……。なんと計算され尽くした心理療法なのでしょう」
隣を歩く聖女セレスティアがまたしても壮大な勘違いを披露している。
……だから、ただサブクエの場所だっただけなんだが。
俺はもはや訂正するのも億劫になり、曖昧に頷いておいた。
兵舎に戻るとアッシュは相変わらず鞘鳴りを響かせており、クロエは壁際で短剣の手入れをしていた。俺たちが戻ってきたことに気づくと、クロエはちらりとこちらに視線を向け、フィンの顔を見て少しだけ意外そうな顔をした。
「……おい、弱虫くん。なんだか顔つきが変わったじゃねえか」
「え、あ、そ、そうですか」
クロエの言葉にフィンは戸惑いながらも、どこか嬉しそうに頬を掻いた。
昨日までならクロエに話しかけられただけで卒倒していたかもしれない。これも一つの成果だろう。
さて。
残るは最後の一人だ。
俺は兵舎の中央で、腕を組んで壁に寄りかかっている男へと向き直った。
「リアム・ヘイワード」
俺がその名を呼ぶと彼は億劫そうに片目を開けた。
「……なんだよ。俺にはあんな退屈な反復練習も、お守りも必要ねえぜ」
「わかっている。貴様に必要なのはそれらとは違うものだ」
俺は兵舎の隅にあった埃をかぶった古い作戦机を部屋の中央へと引きずり出す。そして懐から一枚の大きな羊皮紙を取り出し、その上に広げた。
それは騎士団の演習で使われる森と丘陵地帯を模した、詳細な戦術マップだった。
「……地図? 何のつもりだ」
リアムが訝しげに眉をひそめる。
俺はさらに懐から、色分けされた数個の駒を取り出しマップの上に置いていった。
赤い駒が四つ。そして青い駒が十個。
「赤い駒が貴様ら第三特務分隊だ。そして青い駒がゴブリンの小隊。数で言えば倍以上の戦力差だな」
俺はそれぞれの駒に簡易的な性能を設定していく。
「アッシュは単独での突破力は高いが連携行動は取れない。クロエは攻撃力は高いが防御を疎かにしすぐに突出する。フィンは後方からの強力な魔術支援が可能だが、一度接近されると無力化する。そして貴様だ、リアム。貴様は平均的な能力しか持たない」
俺の言葉にリアムの眉がぴくりと動いた。
「……それがどうした」
「この盤上で貴様の部隊を指揮し、ゴブリン共を殲滅してみせろ」
俺は静かに告げた。
「これが貴様への課題だ」
リアムは俺の言葉を聞いて、心の底から馬鹿にしたように鼻で笑った。
「……はっ。なんだ、お遊びか。兵棋演習の真似事とはな。そんなもので俺たちの何がわかるってんだ」
「わかるさ」
俺は彼の言葉を遮る。
「貴様が口先だけの臆病者だということが、よくわかる」
「……なんだと?」
リアムの瞳に怒りの色が宿った。
俺は構わずに続ける。
「貴様は騎士団に絶望していると言ったな。だがそれは言い訳だ。貴様はただ自分の無力さから目を逸らしているに過ぎん」
俺は盤上の赤い駒を指差す。
「このどうしようもないガラクタ共を率いることからすら逃げている。そんな貴様に騎士団の腐敗を嘆く資格などあるものか」
「……黙れ」
リアムの声が低く唸る。
「あんたに俺たちの何がわかる。こいつらは俺がどうにかできるような、そんな生易しい連中じゃねえんだよ」
「ほう。ならば証明してみせろ。この盤上で貴様の言う通り、この部隊がどうしようもないガラクタの集まりで、貴様が無力な隊長でしかないということをな」
俺の挑発にリアムはぐっと言葉に詰まった。
彼のプライドがこのまま引き下がることを許さない。
彼はしばらくの間、忌々しげに盤上を睨みつけていたが、やがて覚悟を決めたように作戦机の前に立った。
「……いいだろう。やってやるよ。あんたの言う通り、こいつらがどうしようもないガラクタで俺がどうしようもない隊長だってことを、証明してやらあ」
彼はそう言うと駒に手を伸ばした。
最初は投げやりだった。
アッシュの駒を単独で突撃させ、クロエの駒を無謀に突っ込ませる。当然それらは数の暴力の前に、あっという間に青い駒に包囲され盤上から取り除かれていく。
「ほらな。言った通りだ。こいつらはこうなる運命なんだよ」
リアムが自嘲気味に呟く。
だが俺は何も言わない。ただ黙って彼の次の手を見つめている。
リアムは再び駒を初期位置に戻し、もう一度同じことを繰り返した。
そして三度目、四度目……。
何度やっても結果は同じだった。
彼の顔に次第に焦りの色が浮かび始める。
(そうだ。気づけ。貴様のやっていることはただの現実逃避だということに)
そして十数回目が過ぎた頃だった。
リアムの動きがふと止まった。
彼は盤上を睨みつけたまま動かない。
その頭の中で何かが変わり始めていた。
彼は初めてアッシュの駒を単独で突撃させるのではなく、森の中に潜ませた。
クロエの駒を囮として前面に押し出した。
そしてフィンの駒を丘の上の、敵の死角になる位置へと動かした。
それはもはやただの自暴自棄な突撃ではなかった。
それぞれの駒の特性をほんの少しだけ考慮に入れた、拙い、しかし確かな「戦術」の萌芽だった。
皮肉屋の隊長の心に最初の火種が灯った、その瞬間。
俺はその変化を見逃さなかった。
そしてアッシュとクロエもまた、今まで見たことのない真剣な表情で盤上を睨みつけるリアムの姿を、ただ黙って見つめていた。




