第六十五話 疑われる身
法皇の御所から屋敷までさほど遠くはない。いったん帰ることにした牛若に三郎が馴れ馴れしく話しかける。
「牛若さま、よかったですね! 検非違使だけじゃなくて二つ目の官職までもらっちゃって。イヨの国まで行かされなくてさらによかったです!」
「……ああ」
牛若の表情は明るく見えて、ほんの少し影があった。
「ここにいられるのは、うれしいな――」
静かに歩みを進めながら、唇をそっと閉じる。
「イヨって遠いんですよね? どのへんでしたっけ?」
「三郎」
弁慶はその言葉を遮った。この無教養な男の軽薄な話は牛若を元気付けるかも知れないが、傷つける刃にもなり得る。
「伊予は俺たちが行った屋島の少し近くだ」
「へえ……あんな田舎に飛ばされたらたまんねえな。あのじいさんの機転で助かったわけだ」
「……そうだ」
その通りだ。あの老人のおかげで、牛若は今度こそ、「これから」助かるにちがいない。
三郎は牛若の背に付いていきながら弁慶につぶやく。
「新しい任務に推挙してくれるなら、なんで鎌倉のお兄さまはあの手紙を無視して会うことを拒みやがったんだ? ……いや、牛若さまも遠い場所に飛ばされるのを悲しんでいたか……。うーん、わけが分からねえ」
「……とりあえずうまく行ったからよいではないか」
弁慶の答えは静かだった。三郎の頭でも、鎌倉の不潔な化け物の「褒美」の異常さはうっすら分かるにちがいない。
「なるほど、うまく行ったんだな……!」
三郎は単純に喜ぶことにしたようだった。
うまく行くのは、これからのことだ。
屋敷に戻ると、三郎がこのめでたい知らせを皆に早口で何もかもまくし立てて報告した。牛若が縁側に座ると、鷲尾が「よかったですね、義経さま!」と元気よく言ってくる。
牛若は、膝の上で指を重ねた。少しだけ嬉しそうには見える。だが、これは鎌倉の汚物の陰湿な策謀に喜んだのではなく、代わりにねっとりとした抱擁を押し付ける法皇の狂った決断で気が晴れたにすぎない。
「鎌倉殿が御推挙なさったのなら……義経さまのお働きは、認められているのではないでしょうか」
忠信が静かに頭を下げる。継信が死んでからだいぶ経つが、最近は継信のような落ち着きが見えてきた。かなり言葉を選んでいるのが分かる。あの腰越での陰湿な仕打ちを思い出せば、手放しで喜べはしまい。
「伊予国は……」
駿河は庭の端で腕を組んでいた。
「遠い国とはいえ、目代を送るなら、九郎さまが豊かになるだけですから、よかったですね。これは法皇さまのご英断かと」
牛若は少しだけ微笑みつつも、目は伏せがちだ。
確かに英断ではある。
(目代、か)
もともと頼朝から送り込まれた、武士の理の世界からやってきたはずの駿河が、「目代」という朝廷や貴族の言葉を使うのが奇妙ではあった。
静御前は白湯を持って、そっと近づいてきた。
「判官さま、おめでとうございます。静もうれしいですわ」
「静……」
牛若はぱっと表情を明るくして顔を上げた。
静御前は牛若の顔を見つめる。
「されど……」
言葉を選ぶように視線を落とす。
「お喜びのお顔が、少し遠くに見えますわ。お疲れですのね。どうか、あまりお考え込みになりませぬよう」
牛若は困ったように微笑んだ。
「いや……私は喜んでいるのだ」
静御前は深く頷いた。
「それなら、静もうれしゅうございますわ」
温かい声だが、牛若の言葉を完全に信じてはいないようだった。
胸の奥で微かな昂りを感じる。牛若は人間の心を持たない鎌倉の汚物の褒美には怯え、父親気取りの滑稽な王者の狂気にだけ喜んだのだ。
「義経さま」
郷御前が牛若から少しだけ離れたところにそっと立つ。その目はじっと牛若の顔を見ている。
「伊予国――ええ、めでたいですわ……」
奇妙な間があった。なるほど、この女は平家追討の一番の功労者が、妙に遠い地の国守に推挙されたことの異常さに気付いたのだろう。
「――鎌倉殿の推挙であることは、確かに大きな意味がございますわね」
その声は妙に温かみがあった。
三郎が「ほら、帳面女さんも喜んでる」と笑うと、郷御前は「誰が帳面女ですの」と睨みつける。
(――この女も、随分丸くなったものよ)
郷御前は一見厳しそうでいて、牛若に対しては優しい言葉しかかけられないようだ。
そんなにめでたい任官が用意されていたなら、なぜ腰越で一度も会わず、労いの言葉もなく、くだらない任務だけよこして追い返したのか。そのことを、その場の誰も言わなかった。
この屋敷の者は誰も、伊予守と検非違使を兼ねることの異常さは知らないようだ。三郎や鷲尾は無学だし、忠信は奥州のこと以外はさほど詳しくなさそうであるし、駿河も武士の慣例しか知らないのだろう。静御前は牛若の心だけを見ているし、郷御前も、さすがに官職の慣例までは知らないらしい。
だがそれでも、わざわざ兄に会いに行き、兄への泣き声を文の形で届けた弟を追い返した不潔な化け物を、さすがに無視できるほど単純なものはいまい。誰も、牛若が頼朝に許されてよかった、とは決して言わないのだ。
(鎌倉の、愚かな汚物めが。この屋敷の誰もが違和感を覚えるというのに、心が穢れすぎた俗物にはそんな簡単なことも分からぬのであろう)
法皇に必要とされた喜びだけが、しばらく牛若に残ればそれでよい。後はそれから先のことだ。
「――なに……? 九郎が伊予守じゃと……?」
酔っ払った行家が現れ、目を丸くしている様子だが、酒のせいで思考が回らないらしい。
弁慶は、頼朝が褒美とした伊予という国がどのような地なのかが気になっていた。
翌日、牛若はいつものように御所へ出仕し、弁慶は護衛をしていた。
まだ残暑が庭の白砂に張りついている。後ろから柔らかな声がした。
「兄上」
一条能成だった。歩みは控えめだが、牛若を見るなり目を輝かせる。
「伊予守の御任官、おめでとうございます。また、検非違使もそのまま留任とのこと、私もうれしゅうございます」
「――ああ」
牛若は遠慮がちに微笑んだ。能成は笑顔は崩さなかったが、牛若の顔に残る影に気づいたようだ。
「お加減が悪いのでしょうか……?」
「いや、私は大丈夫だ。それでは、私はこのまま」
言うなり牛若は前に歩みを進めていた。常盤を思い出させるこの弟に、牛若は心から笑うことができないにちがいない。
「あ、はいっ。ではまた」
慌てて牛若の背中に声を返す能成だったが、牛若に口を聞いてもらえてうれしかったようではある。
弁慶は能成の前へ半歩進み出た。
「能成殿」
「はい?」
「それがしは九郎義経さまの従者の武蔵坊弁慶と申す。聞きたいことがある」
「はい」
能成はすぐに姿勢を正した。
「伊予は、どんな土地であろうか」
能成はすぐに口元を緩ませていた。
「伊予は上国と申しまして、たいへん豊かな国かと思われます」
まるで自分のことであるかのように、うれしそうに語る。
「――なるほど」
この貴族は善人ではあるが、にわかに現れただけのことはあって、牛若がそのような不潔な褒美を喜ばないということには思いが至らないらしい。
「それはよかった。お忙しいところ、失礼いたした」
柄にもなく頭を下げてくるっと背を向けた。牛若が戻ってくるまでは塀の後ろに控えておくことにする。
(……頼朝という化け物の考えが読めた)
泣き声にまみれた、情のこもった清らかな弟からの手紙は無視し、不潔な鎌倉から遠ざける代わりに豊かな国を恵んで、全てを解決したつもりでいるのだろう。
不潔な浅知恵だ。牛若が欲しがっていたのは、兄の声だった。抱擁だった。「よくやった」、ただその一言さえあれば、このような汚らしい褒美など天界の稚児は全く必要としていないことを、頂上にいる化け物だけが理解していないのだ。
御所の白砂は、まだ夏の名残をしつこく照り返していた。
翌朝、門前で聞き慣れない足音が止まった。
「お久しぶりにございます」
庭にいた三郎が顔を上げた。見覚えのある静かな若武者が向こうに立っていた。
「……あんた、屋島で扇を射抜いた人じゃねえか」
那須与一は門を入ったところで丁寧に頭を下げた。背中には弓がある。
「屋島、壇ノ浦以来となりまする」
「……与一か」
牛若がそっと縁側まで出てきて与一を見た。
「そなたの弓は、見事だったな」
与一は顔を上げ、目を輝かせる。
「……ありがたきお言葉にございます」
与一はまた深く頭を下げた。
三郎が「あんたさ」、腕を組みながら問いかける。
「今までどこにいたんだ? 他の御家人さんはほとんど帰ったぞ」
「壇ノ浦より戻った後、しばらく山科の山辺にて弓を引いておりました」
牛若はうっすらと微笑みながら与一の言葉を聞いている。
「野に伏せ、狩りをし、弓を鍛錬した後に都へ戻れば、御家人の方々はほとんど去っておいででした」
与一は困ったような顔で笑った。
「余っていた宿所がございましたので、そこでしばらく様子を見ておりました」
「あんた、帰らなかったのかよ」
三郎が少し呆れたように言った。鷲尾は面白そうに与一を見ている。
与一は牛若へ向き直った。
「それがしも屋島や壇ノ浦にて、少しは働いたつもりでございました。あるいは、義経さまと同じく出仕できるような沙汰があるのではと、浅ましくも期待しておりました」
言うなり静かに苦笑する。
「しかし、どうやらそれがしの働きは、法皇さまのお耳までは届いていなかったようで」
ははは、と頭をかいてみせた。
「本日は久々に、義経さまのお顔を拝見しに参りました」
「そうか。会えてうれしい」
牛若はそっと気品のある微笑みを返した。
任官を糾弾する頼朝の下品な通達も、この男の耳には届いていないらしい。平家追討を果たした牛若を今まで無視した鎌倉のことだ。扇の的を射抜き源氏の士気を押し上げた功績程度では取るに足らないのだろう。
「与一殿」
弁慶は静かに腹から声を響かせた。
「所領へは帰らなくてよいのか?」
牛若に従うなという下知をわざわざ教える気はしなかったが、妙な男が出入りしても目障りなので聞いておいた。
「ご安心を」
与一は胸を張って答えた。
「それがしは那須家の十一男でして、所領などは些細なもの。鎌倉殿の記憶にはありますまい。記録にあるかも怪しい人間にございます。何よりも義経さまをいつでもお守りできるよう、都に留まる所存です」
「いてくれるのは、うれしい」
牛若は短く言葉を返した。どんな者でも、今は慕ってくれる者が近くにいることが喜ばしいのだろう。
「ところで」
与一は、ふと思い出したように声を低めた。
「妙な噂を耳にいたしました」
「噂とは?」
忠信が問いかけ、端にいた駿河も一歩進んで聞き耳を立てている。
「長らく鎌倉がその身を追っていた、源行家殿という鎌倉殿や義経さまの叔父にあたる人が、都に潜伏しているのではと疑っているそうで」
屋敷の奥から、何かがかすかに動く音がした。聞き耳を立てている汚い男の顔など、目に入れたくもない。
「梶原景季殿、景高殿ご兄弟が、確認のため都へ差し向けられる、という話でございます」
三郎や鷲尾は分かりやすく顔色を変えた。「それは……」と忠信が不自然な反応を見せかけたが、すぐに駿河が静かに進み出た。
「怪しき者は捕らえるのが、九郎さまの検非違使としての任務にございます。その行家とかいう男がいたら、見逃しますまい」
「ええ、私も都で見かけたら、捕まえてこちらに連れて参りまする」
与一も胸を張って答える。駿河のきわどい言葉を疑わない善人であるようだ。
「――義経さま、それではまた」
与一は牛若に力強く頭を下げると、静かにその場を後にした。
「――帰りおったか」
戸の隙間から酒の匂いが流れる。三郎たちが顔をしかめた。行家は柱の陰から顔だけ出し、いつになく真剣な目をしている。
「まずいぞ、九郎」
「叔父上?」
牛若はあどけない表情で振り向いた。
「鎌倉はわしがここにいるのを突き止めているかもしれぬ。梶原兄弟が来たら、わしのことを聞かれても、知らぬ存ぜぬで押し通すのじゃ」
「あんたがここにいるからだろ」
三郎が冷たく睨むが、行家は「それを言うでない!」と跳ね除ける。よく見るとその手に瓶子はない。本気で怯えているらしい。
一瞬の沈黙の後、行家の目に妙な光が宿った。
「九郎、しばらく食を断つのじゃ」
鷲尾が「は?」と間の抜けた声を出した。
「病ということにするのじゃ。痩せ衰えておれば、向こうも深くは問い詰めまい」
「またろくでもないことを言いやがって」
三郎が吐き捨てるが、行家も今回は引き下がれないようだ。
牛若はきょとんとして首を傾げた。こういう下界の汚い計略は天界の稚児には理解できないにちがいない。
「――叔父上のためですね。やってみます」
牛若は素直に頷いた。
「牛若さま、そんなことしたら身体を壊してしまいますよ! ただでさえ最近食が細いのに!」
三郎が心配そうに叫ぶが、牛若は「私は大丈夫だ」と穏やかに言うだけだ。自分の身体のことは気にならないのだろう。
「ほんと、困ったお人ですこと」
郷御前の厳しい声が縁側の向こうから響いた。行家と牛若、どちらのことを言っているのだろうか。
「お好きになさりませ」
行家が少しだけほっとした顔つきになった。
「おお、姫君は分かっているではないか」
にやつく行家をよそに、三郎は「帳面女さんは姫君って柄じゃねえだろ」と苦笑している。
「ただし」
郷御前の冷徹な声が響いた。
「これは義経さまのご健康のためですわ。最近お食事を全然きちんと召し上がっておられませんもの。いったんお身体を整えるのがよろしいですわ。お白湯をたっぷりお飲みになり、野菜をたくさんお食べになるのがよろしいですの」
「――うむ」
牛若はあまり理解している様子ではないが、微笑みながら頷いた。
「それ、食を断ったことになるのか……?」
鷲尾が小声で三郎に聞いたが、三郎が考え始めるより早く、郷御前が「痩せはしますわ。されど、義経さまの食生活を元に戻すにはかえってよろしいですの」と鋭く答える。
「判官さま」
郷御前の後ろに静かに控えていた静御前が、牛若の前で両手をついた。
「どうか無理はなさらないでくださいませ。お食事を断つにしても、お白湯や野菜まで断ってはなりませんわ」
「そうだな」
牛若は静を甘い瞳で見つめた。うっとりとその美貌を眺めている。
「静は優しいな」
「お顔の色が悪くなりすぎたら、この静が止めますわ」
その声は柔らかいが確かな決意が漂っていた。
「うむ」
牛若ははにかむように微笑んだ。
「これで安心じゃの。九郎、これからわしが、お前が梶原兄弟に言う嘘を紙にしたためるから、全て覚えるのじゃ」
「承知しました」
牛若は素直に答えると、よろよろと動く無様な行家の後を付いていった。郷御前が行家を冷たく睨みながら後に続き、静御前も気品のある足取りで静かに去っていった。
「ほんとあいつ、迷惑だよな」
三郎が口を尖らせるが、他の者は苦笑するほかないようだ。
あの俗物は、不潔な頼朝を断ち切る際に役立つかもしれない。今まで匿っていたのだから、今さら捨てるより利用した方がよいだろう。ここで恩を売っておくことは得策に思える。
弁慶も、やつれた牛若の身体のことを心配していた。郷御前が言う通り、無理に普通の食事を食べさせるより、野菜と白湯の方が早く回復するかもしれない。
(あの冷たい女も、静の横で、それなりに牛若さまを心配しているわけか……)
妙なおかしみがある。牛若は静御前も郷御前も、生身の女として愛しているわけではなさそうなのが哀れではある。
弁慶の胸の奥は少しだけ落ち着いていた。
景季と景高に牛若のやつれた姿を見せれば、疑いは薄れるかもしれない。
そもそも、食を断つ前から、すでに牛若はやつれ始めている。全ては鎌倉の不潔な汚物のせいだ。
生温かい風が、弁慶の首筋をそっと撫でていた。




