猫になりたい
エイプリルフール滑り込みです。
猫になりたい、と思ったことはある。割と普遍的な想像かもしれない。
日向ぼっこして幸せそうに寝ているあの毛玉が私だったら。好き勝手走り回って、眠たくなったら自由に寝る。そんな自由の極み享受したいに決まってる。もちろん麻依も一緒に。
そんな夢物語が、まさか。
「生えてる……」
麻依の頭上に二つの見慣れない三角形が顔を出していた。なんの脈絡もなく、朝起きたら突然。
常識はこんなに脆いものなのか。ってそんなわけないでしょ。今まで苦しみに苦しめられてきたのに。
けれど、茶白黒の柔毛で覆われた猫耳は取り外せない。おかしなことに体温も感じる。
ダメ押しと言わんばかりにケモ耳がピョコピョコと跳ね動いた。……なにこれ。
「結季ちゃん、くすぐったい」
感覚もあるみたいだった。本当になんなのこれ。
「ご、ごめんなさい」
こういうのって病院? 行くとしたらそうよね。明らかにおかしいし。というかどうして人の耳が残っているのかしら。何がどうなってこんなことに。
「言っとくけど、生えてるのは結季ちゃんもだからね?」
麻依が私の頭上の空間に手を伸ばした。
「ええ……?」
虚空からくすぐったさが届いて、私の思考は残念なことに停止した。胡乱な現実に諦めたというのが正しいかもしれない。
「ほら、尻尾も」
後ろを向くと、茶色の毛の塊が浮かんでいた。力を込めてみると思い通りに右左と宙を漂う。なんというか、新感覚。腕がもう一本生えたらこんな感じなのだろうか。
「結季ちゃん生えてるのは茶トラなのかな。それかアビシニアン?」
麻依はこの理外の状況にも一切動じていない。歪んだ現実に馴染んでいるというか、乗りこなして楽しんでいるようにも思える。
今も本物の猫みたいに私の尻尾を目で追っていた。見た目だけじゃなく本能的なものも芽生えていたりするのかもしれない。こんな状況で論理が成立するかはさておき。
「いきなり掴んだりしないでよ?」
「わかってるって」
麻依は……まあ三毛よね。耳だけじゃなくて、尻尾も綺麗に三色に染まっている。私のより太めの尻尾が空中をゆらゆらと揺蕩っていた。
かわいい。捕まえたい。
こう思ってしまうのは仕方のないことだと思う。だって触りたいし。
右に左、右、左……今!
振り子のような揺れに合わせて、手を突き出す。
麻依の尻尾のふわふわと、獲物を捕まえた達成感が広がって。
「……ついさっき自分で言ってなかった?」
あっ。とやってしまったことに気がついた。しょうがないじゃない。猫なんだから。と歪んだ現実に合わせて歪んだ自己弁護をしておく。
「まあ別にいいんだけど。結季ちゃんだし」
「じゃあ遠慮なく撫でさせてもらうわね」
肌触り最高。サラサラとしていて、一撫でする度に数本の毛が空を舞った。いつまでも撫でていられる。
「ん、ちょっと控えめにしてほしい。かも」
麻依が身震いすると、尻尾が腰回りに巻き付いて収納された。
「このぐらいならいい?」
「うん。大丈夫」
了解も得られたし尻尾撫でを再開する。
尻尾触られるのが苦手な猫多いものね。なんてことを思いながらも毛並みには抗えない。
途中から麻依も私の尻尾を触ってきたけれど、私は触られても大丈夫なタイプらしい。少しこそばゆい程度。
だとしても、麻依以外に触られたら関係なしに容赦なく引っ叩くのは変わらない。こういうのは合意がいるものだと思う。たとえ猫だとしても。
許可なく勝手に全身を撫で回されるのは、どんな気持ちなのだろう。
麻依になら、全然構わないのだけど。
「……いつの間に毛むくじゃらになったの?」
「ほんとだ」
尻尾に満足して目を離すと、麻依の全身が細かい毛で覆われていた。腕はもちろん、顔にもぶち模様が広がっている。なんなら猫ヒゲもある。
「そこはなし。結季ちゃんには悪いけど」
ヒゲを触ってみたら拒否された。耳や尻尾と同じで感覚もしっかり備わっているらしい。
瞳孔の形が縦長くなっていて、人の耳もいつの間にか消えていた。もはや人型の猫と言っても過言じゃないような姿になっている。
麻依がこうなら、当然私も。
「もふもふー!」
と、本能で叫びながら飛び込んでくる麻依。
これはヒト的な行動だと思う。猫以上に欲望にまみれているし。
そして、麻依を受け止める私の両手は案の定茶色の猫毛で覆われていた。
悪くない。いつも以上の心地よさを感じる。
このまま、本当に猫になってしまえばいいのに。なんて、ついそんなことを思ってしまった。
その願いに応じるように、周りの景色が相対的に大きくなっていく。指先の感覚は薄れていって、人間にはなかった場所の感覚がより鋭敏になった。
こんなのはおかしい。と思うのだけど、自分が小さい四足歩行の猫になっていくことに本能的な確信があった。
目の前の麻依が同じように小さくなっていったのも大きいのかもしれない。
何にせよ、人としての形がどんどんと失われていく。もう両腕で麻依を抱きしめることはできないし、指の関節の折りたたみ方が思い出せなくなった。
きっと、人間に戻れはしないのだろう。けれど、麻依がいるならそれでもいい。
無意識の内に喉を鳴らしながら、三毛猫の麻依に頭を擦り付ける。
麻依はザラザラとした舌で私の体を舐めている。グルーミングというやつだろうか。人ならともかく、猫な私達にとっては普通のこと。猫になってよかった。なんて。
ふと、麻依の動きが止まる。舌をしまって、フンフンと鼻を鳴らして匂いを確認する。ちょっと恥ずかしいけれど。
『どうしたの?』
まあ実際のところはニャーの一言だったのだけど。
麻依からの返事はない。もちろんニャーとも。
不安になって身を寄せようとした。けれど、その行為は空気に身をこすりつけるだけに終わった。
麻依がいきなり飛び退いて、思わず私の体も宙に浮く。
距離を開けた麻依はその体を下向きになった三日月のように曲げて、縦長の瞳孔で見つめていた。
じっと、ただ見つめ合うだけの時間が続く。
凍りついたような緊張感に身がすくんで動けない。背中をアーチ状に曲げる行為の意味を理解できなくて、知っているのにわかりたくなくて、思考しないように麻依であるはずの猫を見る。
先に静寂を破ったのは麻依のほうだった。口を大きく開くと、牙を見せ、ヘビのような声を出す。
なんで? なんで、急におかしいでしょ。麻依が私に威嚇してるの? シャーって、えっ?
警戒と、怒り。ヒトの知性は感じない。ただ、痛いぐらいの敵意が私に向けて放たれている。
……そんなわけ、ないわよね?
麻依が、私に、そんなこと。
近づくと、麻依が前足を振り上げた。ためらいなく、手加減もなく。
願いは即座に崩れ落ちて、当然のように矛は私に向けられた。
理性のない三色の前足が生物の弱点に向けて振り下ろされる。
麻依の爪が、私の眼前に──。
「……さいっあく」
動悸が収まらない。悪夢から目覚めきれていない心臓と肺が力強く稼働している。
隣で寝ている麻依は当然ヒトだ。髪は黒一色で、耳は剥き身のスベスベしたやつが二つ。ヒゲなんてあるわけがない。
最後まで幸せで良かったじゃない。猫なんだから。
自分の無意識に恨み言を吐きながら、スマホの画面を灯らせる。
……二月二十二日がにゃんにゃんにゃんの日だと思い出した。このタイミングで思い出すということはつまり、今がその数字だった。時刻表示に二が三つ並んでいる。にゃんにゃんにゃんの時間。
……馬鹿じゃないの?
猫に呪われてる? 私。
猫を怒らせるようなことをした覚えはないのだけど。
動物にはわりと優しく接していると思う。虫も極力逃がすようにしているし。もちろん麻依以外のヒトは例外なのだけど。
猫になりたいって欲望の前には大抵『人の記憶と理性を保ったまま』なんて但し書きがついている。二人で猫になったとして、記憶をなくしたら元の木阿弥。
……あんなこと、夢でもされたくなかった。
心臓が、まだ大げさに動いている。本気猫パンチを受けた額がなんとなく痛い。
「……ねれないの?」
私のせいで麻依を起こしてしまった。寝ぼけた目で心配そうに私を見ている。
謝罪の言葉が口から出かけて。
「謝らなくていいって。わたしも結季ちゃん起こしちゃうことあるし」
すぐに麻依に押し戻された。
「結季ちゃんが寝れないなら、わたし起きてるから」
眠気覚ましに、麻依は目をこする。
「だから、安心して?」
「……ありがとう」
布団に深く潜り込んで、麻依に顔をうずめる。
泣いてしまいそうだった。
夢の中で麻依にあんなことをさせてしまった私が悪い。麻依を信じきれていないからなのか、いつか離れてしまうことに対する恐怖の現れなのか。
あの三毛猫は、私の不安の塊なのだと思う。
いつか、麻依が私のことを捨てて離れてしまうんじゃないか。いつになったら、どこまで進めば、私はこの悪い妄想から抜け出せるのだろうか。
「わたしは、ずっとここにいるよ」
「ええ、そうよね」
本当に、ずっと、このままでいられたらいいのに。
冴えてしまった目を、軽すぎるまぶたで覆い隠す。




