不安一色
安心感を求めるために結季ちゃんにくっ付いたのに、崖っぷちに立っているように不安定な感覚は消えずに残っている。
一歩でも動いたら足を滑らせて真っ逆さまに落っこちてしまいそうで、結季ちゃんから手を離すことはできなかった。
結季ちゃんをわたしの腕の中に捕らえたまま、時間がゆっくりと進んでいく。
抱きつき始めは高かった日が山の輪郭に被さって、オレンジの光も無くなりそうになった頃、不意にわたしのお腹が鳴った。お腹の辺りを意識したせいか、遅れて空腹感がやってくる。
……恥ずかしい。抱き付いてたせいでお昼ご飯食べられてないから、仕方なくはあるんだけど。
いやわたしのことはどうでもよくて。と、恥ずかしさと空腹感から、一旦意識を逸らす。
大事なのは、何も食べてないのは結季ちゃんも同じだということ。それに加えて、わたしのせいで身動きも取れないし。
またわたし、結季ちゃんに迷惑かけちゃったんだ。
愛想を尽かされたらどうしよう。
これまで色んなことで結季ちゃんに迷惑をかけてきていて、その時々で許されたように錯覚していたけど実はそんなことなくて、ただ結季ちゃんが我慢していただけで、今日のことで結季ちゃんが我慢の限界を迎えて、わたしのことを──。
悪い妄想の上にさらに悪い妄想が止めどなく積み重なっていって、抑えられない。それどころか自分でも何を考えているのか、よく分からなくなってしまっている。
頭の中にあるのは、結季ちゃんに見捨てられるかもしれないという恐怖だけ。
震えそうになっている喉をどうにか押さえ込んで、声を出す。出しながら、結季ちゃんを留めていた腕も解く。
「……今までごめんね、結季ちゃん」
そして何時間か振りに見た結季ちゃんは、少し強張った表情をしているように見えた。
やっぱり、わたしのことを怒ってるんだ。って、そう思えてしまう。
「それは別に構わないのだけど」
口ではそう言ってくれたけど、我慢の限界ギリギリでも何もおかしくない。
これ以上、結季ちゃんに迷惑を掛けないようにしないと。
「ちょっと早いけど、夕ご飯作るね」
「やらなくていいわ。私が代わりに作るから」
麻依は少し休んでいて。最後に付け加えられたその言葉が、いやに頭に残ってしまう。
言葉通り受け取ればわたしを気遣ってくれたことになる。けど、悪い妄想で埋め尽くされたわたしの頭じゃ、いらない子扱いされたようにしか思えなかった。
かと言って、結季ちゃんの考えに反対することもできない。それこそ話がややこしくなって、結季ちゃんを困らせちゃうから。
「うん、わかった」
とだけ答えて、ご飯を作りに行く結季ちゃんの背中を見送った。着いていきたい気持ちもあるんだけど、今のわたしじゃきっと邪魔にしかならない。
それに、休んでいてって言われたんだから、その通りにしておかないと。
結季ちゃんがいない寂しさを紛らわすために、布団をたぐり寄せて抱き枕代わりにする。
それで解決するなら最初から問題になっていないから、あくまで一時しのぎのようなものなんだけど。
すでに布団からは結季ちゃんの暖かさが抜けてしまっていて、冷たかった。
その温度が染み込むみたいに伝わってきて、わたしの中の寂しさが広がっていく。
布団を抱きしめる腕に力を込める。けど、結季ちゃんと違って布団は抱き返してくれたりなんかしてくれない。ぼふぼふと空気の抜ける音だけが返ってきて泣きたくなってしまう。
結季ちゃんはいま、何をしてるのかな。というかそもそも、本当にキッチンにいるのかな。
実はわたしに嘘を吐いて外に出て行っちゃったとか……。
どうしても結季ちゃんの存在を感じていたくて、布団を抱き締めたまま床に耳をひっつける。床を一枚隔てた向こうからは、足音だとか冷蔵庫を開ける音だとかが聞こえてきた。
……よかった。結季ちゃんがすぐそこにいることが分かって、少しだけ寂しさが和らいだような気がした。
結季ちゃんに見捨てられそうになっているかもしれないという恐怖は、そこにあるままなんだけど。
どうなっちゃうのかな、これから。
これから一時間後のわたしたちがどうなっているのかすら、闇に覆われているみたいに予想できない。
わたしは結季ちゃんがいなくなったら耐えられないけど、結季ちゃんはどうなんだろう。
結季ちゃんも、わたしがいないとダメ……だとは思う。
毎日一日中至近距離で一緒にいるし、毎朝二人用マフラー巻いてるし、お揃いの婚約指輪だって嵌めてるし、盗聴だってされたことあるし。
それだけのことができるぐらい結季ちゃんはわたしに心を許していて、わたしのことを必要としてくれているわけだもん。
……じゃあ、これからは?
その短い疑問のせいで、安心が、安心が崩れてしまうことへの不安に一瞬で変わってしまう。
今がそうだからと言って、ずっと同じだとは限らない。
きっと時間が進む度に何かが絶対に変わっていて、わたしたちも今のままではいられない。
変化の過程で、結季ちゃんがわたしから離れて行ってしまっても、忘れられてしまっても、おかしいことはなくて……。
やだよ、そんなの。
大声で泣き喚いてしまいそうなのを、布団に顔を押しつけて抑える。
結季ちゃんをこれ以上心配させたら、悪い妄想が現実のことになっちゃうから。
布団の一部がずぶ濡れになるぐらいの時間泣き続けていると、結季ちゃんの足音がこっちに迫ってきた。わたしが長々と泣いてる内に、料理が完成したんだと思う。
足音が階段を上ってきて、この部屋の前で立ち止まる。
泣いてたことを結季ちゃんにバレないようにしなきゃ。その一心で目元を拭って、少しでも落ち着くために深く息を吸う。
「麻依、ご飯作り終えたけれど」
引き戸を開けて、結季ちゃんが言った。
……ちゃんと誤魔化せてるかな。
「ありがとう。今行くね」
不安になりながら、布団の濡れた箇所を隠して立ち上がる。
そしてそのまま結季ちゃんと階段を下りて、料理が用意された席に座る。
このしょうが焼き、本当はわたしが作るはずだったのに。明日からはちゃんとしなきゃ。
そんなことを少し考えながら、結季ちゃんのほうを見る。結季ちゃんはすぐ隣にいるのに、今は手が届かないような気がした。
錯覚だったらいいんだけど。本当に距離感が遠くなってしまった気がして、押し潰されそうなぐらいの圧迫感に襲われる。
……何を話せばいいんだっけ。苦しくって、そんなことも分からない。
「食べないの?」
「……あっと、ごめんね。いただきます」
「私も、いただきます」
しょうが焼きに箸を伸ばして、一口食べる。
変にストレスを感じているせいか、口の中が乾燥していて、味もよく分からない。
それでも結季ちゃんに、おいしいよ、と伝えて箸を進める。
結季ちゃんは今、わたしにどんなことを感じているんだろう。そしてどんなことを考えているんだろう。
いつもと違って会話がないから、結季ちゃんの気持ちが何もわからない。
ただ、わたしたちの間のもやもやが濃くなっていく。
最後にしょうが焼きのお皿が空になったことで、気まずい夕ご飯は幕を閉じた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
そう言った結季ちゃんの表情はやっぱり硬くて、いつもとは何かが決定的に違っていた。
……わたしのせいだ。わたしが変に不安になって、結季ちゃんを振り回しているせいなのは、間違いなかった。
見るのがつらくなって、結季ちゃんからつい目を逸らしてしまう。
逸らした先で、ふとカレンダーが目に入った。
今日の日付に、泊まれない日を表す、バツマークが付いているのも同時に。
「そっか、今日は泊まれないんだっけ」
そのことを思い出した瞬間、足が勝手に玄関の方に向かい始める。
不安でいっぱいだった頭の中に最後の一押しが加わって、ショートでも起こしてしまったみたいだった。
「……帰らなきゃ」
強迫観念めいたその命令で、わたしの体が動いている。
「……本当に帰るの?」
「だって、帰らなきゃ」
約束を破って、これ以上迷惑を掛けないようにしなきゃ。
「帰ったら、いつも通り電話するから」
「ちょっと、麻依」
これ以上結季ちゃんに迷惑を……。
「待ちなさいって!」
痛いぐらいの強さで腕を掴まれた。直後に、結季ちゃんのほうに思いっきり引き寄せられる。
柔らかい感触に受け止められた後、見上げてみると、そこには怒った顔の結季ちゃんがいた。
「帰らせるわけが無いでしょ」
「でも……」
「でも、じゃない。何がそんなに不安なのか、言ってくれるまでここにいてもらうから」




