壱
『 虫 注意』
——それは、小さな子供がはじめた冒険の端緒であった。
浪漫ってやつだ。
◇ ◇ ◇
帝都第一高等中学校。ここはエリイトの中のエリイトが集う学校である。
エリイトエリイトと言っているが、通うのは十五そこらの少年達なので、喧しいのは自明の理。本日の昼休憩も、騒々と学生達の話し声で溢れている。
そんないつも通りの喧騒で溢れる校舎にも、多少静かな場所は存在する。
正門から丁度反対側に位置するそこ。固く踏み締められた剥き出しの地面の広がる小さな裏庭には、よくある型の焼却炉と、燃やす予定であろう紙類、剪定した枝葉が積み上げてある。
焼却炉の影になっている位置に置いてある長椅子。丁度一人寝っ転がれそうな大きさであるが、同年代より頭ひとつ高い身長のせいでそこからはみ出た足がのぞいている。
九頭龍寺 真実、絶賛サボり中。授業というものは眠くなるのだから仕方ない。と、サネノリは考えている。
それでいいのかエリイト。
そんな麗らかな裏庭に、ばさり。音が響く。サネノリの体に、まとめた新聞紙が直撃した音だ。
「あ?」
別に寝起きは悪い方ではないが、こんな起こされ方では不機嫌な声も出る。サネノリはむくりと起き上がり、新聞の飛来した方を睨み据えた。
「なんだ、人がいたのか。気が付かなかった」
そう声をかけてきたのは、知らない顔の学生だ。サネノリは同学年の奴の顔を大体把握しているので、上級生か、とんでもなく影の薄い奴かの二択である。
短い髪を油でぴっちりと横に撫で付けた、分け髪の神経質そうな男だ。
「サボタアジュか? いいご身分だな」
「あ? 悪ぃかよ」
「別に? 目障りだなと思っただけだ」
一触即発。ぴりりとした雰囲気が当たりを満たす。
ぽこん
ぽこん
不意に、何処からか音がした。それは地の底から突き上げられたような、それでいて天から降って来たような。とにかく、何処から鳴っているのかわからないくらいに、この裏庭全体に響いていた。
「……なんだ?」
不審に思ったサネノリが、音の発生源を探そうと一歩踏み出す。
「おい! 足をどけろ!」
「は?」
言われた通り出した足を戻すと、そこには潰れたウマオイが。十中八九サネノリのせいだ。
「貴様なんて事を、野蛮人め」
「はぁ……?」
言い掛かりだと思う。好んで虫を踏んでいるというならまだしも、たまたま踏み出した足の下に虫がいて、それを潰してしまったからって何だというのだ。この男がなぜこんなに憤っているのかサネノリにはわからない。
しかしひとつわかる事がある。こいつに関わると面倒くさい事になりそうだ。ねちっこく絡まれること請け合いである。絶対。勘だが、こういうのは当たるのだ。関わるな。サネノリの中の何かが告げている。いやほんとに。
「めんどくせぇ」
サネノリはぽつりと呟くとその場を後にした。その間、じっとりとした視線を感じたが、無視。触らぬ神に何とやらだ。
◇ ◇ ◇
ようやっと邪魔なやつが去った。
都乃河が裏庭を拠点にしたのはつい最近のことだ。今までは寮の自室を使っていたのだが、同室の者から苦情が出たのだ。気持ち悪いだなんだと騒がれたので、仕方なく他に落ち着ける場所を探し始めた。どうせなら通いやすい場所がいいかと校内を彷徨い歩いて見つけたのがここ、裏庭だった。
先程サネノリが踏み潰したウマオイを拾い上げる。そのまま裏庭の端に座り込み、声をかけた。
「ほら、たんと食え」
先程の不機嫌な声と比べて随分と機嫌が良さそうだ。
「うまいか。……そう、よかった」
柔らかく唱えられたそれは、まるで恋人に掛ける言葉のように甘やかだ。まぁ、そこには誰もいないのだが。ひとり地面に向かって囁き続けるその様は、何とも不気味。ただ本人はとても幸せそうだ。
「あいつ、邪魔だな」
焼却炉の影で昼寝していた男は、どうやら裏庭を根城にしているらしかった。同室のやつにもしぶられたのだ、あの男はもっと喧しく騒ぎ立てるに違いない。きっと、いや確実にそうだ。
どうしたものか……。教師に言いつけるか。そんな事をしたら自分が何故こんなところに居たのか聞かれるだろう。面倒だ。
いっそあの長椅子を焼却炉で燃やしてやろうか。ここで昼寝できなくなる。いい気味だ。
しかし長椅子はしっかりした作りであるので、トノカワ一人で壊すのは骨が折れそうだ。あのバンカラ野郎ならすぐさま壊してしまうのだろうが。
結局目ぼしい案も浮かばぬまま、裏庭を後にするトノカワ。また裏庭で鉢合わせても、追い払う以外に道はないのだろうと思案するのであった。
サネノリくん、触らぬ神に……続きは?
「さ……触らぬ神に、殴れば勝てる!」




