陸
『人間蠱毒注意』
足元が消失した。それが彼女を隠していた筒の側にあると気がついた時、これは奇跡なのだと思った。
そのまま流れるにまかせ落ちていく。後は穴倉で獲物が飛び込んでくるのを待つだけ。
なんだ簡単じゃないか。
手狭な巣穴を抜け出し、より大きく丈夫な巣穴へ。ただそれだけの単純な作業だ。
◇ ◇ ◇
人が、井戸があったであろう穴に吸い込まれる。
突然の状況に理解できず、三人は咄嗟に動けずにいた。
「助けて!!」
穴から飛びでた声に最初に反応したのはサネノリだった。穴の淵へ駆け寄り慌てて足を止める。
穴の底を覗き込もうと前屈みになるが、手は届くだろうか。
慎重に穴の淵を探り、淵に手をつき体を支える。その体勢で右手を井戸へと差し出した。
井戸の底、仰向けに倒れた男と目が合う。男は笑った。 顔にはムカデが這っている。
口がぱかりと開き、その奥にある虚空がこちらを見返していた。
「は?」
思わず声が出るサネノリの顔面目掛け、虚空から六糎程の蜘蛛が飛び出してきた。
そのまま顔面に張り付くかと思われたが、そこはサネノリ。超人的な反射神経でしっかりと避けていく。華麗なる背面そり。
「ぎゃー! 蜘蛛!!」
サネノリを通り越して飛んでいった蜘蛛はそのまま地面に着地。ホタルが思わず叫び声をあげ、焼却炉の側に積んであった新聞紙を掴んだ。
それをくるくると丸め出来上がったのは天叢雲剣。
飛んで跳ねての大立ち回り。奇声を発しながら振り回された神器により、蜘蛛は叩き潰された。
「「……」」
沈黙。
「あぁ……これはもうだめだ。見ないほうがいい」
そんな大決戦を尻目に、中を覗き込んでいたエンが言う。
井戸の底には虫が繁殖していたようで、様々な害虫がにひしめき合っていた。それらが穴という穴に入り込み、食い破り、ぼろぼろの穴だらけ。手を伸ばしても届かず、ただ目に光がなくなるのを見ているしかできなかった。
どうにも出来ない感情に、眉間の皺が深くなる。乗り出した際にずれた眼鏡を、右手で押さえ俯いた。
虚空の底、それはもう生きてはいないだろう事が充分察せられた。
そんなこと言われた日には井戸の底が気になって仕方がないが、見るべきではないだろう。
よってホタルは井戸に吸い寄せられる視線を遮る為話を逸らした。
「これ、紙? 蜘蛛じゃないの?」
先程ホタルが討伐した蜘蛛が地面に転がっている。動いていた時はどこからどう見ても蜘蛛だったが、今見てみるとそれは紙屑にしか見えない。おそるおそる手にとってみれば、黒い千代紙を切り抜いて蜘蛛の形に整えたものだった。
「これは式鬼だな」
「春夏秋冬?」
「それは四季」
「戦う気分か?」
「それは士気だな」
「じゃあ、漆塗りのやつでしょ」
「漆器だな」
「軒先に吊るす虫除けのやつだろ」
「それは式」
「「……?」」
ホタルとサネノリ、仲良く並んで首を傾げる。
「え、違うの?」
「式と式鬼。護符とまじない。別物だな」
それでは、いつものあれの時間です。
「サネノリの言ってるやつは式のひとつだな、お守りみたいなもんだ。厚手の紙に風の式を書いて薄荷油を染み込ませる。軽く魔力を流してやれば簡易的な虫除けの完成だ。生活の知恵というやつだな。一方式鬼はシキオニと書いてシキだ。こいつは式鬼蜘蛛だな。子供の頃遊んだ事はないか? 式鬼蜘蛛二匹を枝の上に乗せて戦わせるんだ」
「知らないなぁ」
「知らねぇ」
「そうか、子供達が空き地に集まってやるやつでな、作り方は簡単だ。まずは適当な紙を用意する」
焼却炉の脇に積んであった新聞紙を手に取るエン。
「こう、半分に折ってな」
三回、三角に折るのを繰り返す。
「本来なら鋏を使うんだが、まぁ手でいいか」
そのまま紙の中心残した状態で、折り目に穴を開けるようにちぎる。
「これを開くと蜘蛛の形になる」
ぱらりと展開すれば、そこには立派な蜘蛛の切り絵が。
「は?」
「え? そんななるぅ?」
「なってるだろう」
軽く息を吹きかけてやれば蜘蛛が動き出す。
「ぎゃぁ! 生きてる!」
「いや、俺が動かしてる」
エンの指先がくいくいと動く。実に楽しそうに、ニヒルな笑顔を浮かべている。ホタルを追いかけ回すのが相当楽しいらしい。なんて奴だ。
「生きてるように見えるだけで、これに意思はないんだよ。ただの玩具だからな」
裏庭全体に風が吹き、煽られた式鬼蜘蛛と、潰れた千代紙が飛んでいく。それを三人はぼーっと見つめていた。
「「……」」
長い沈黙。
「……さて、どうするか」
一息ついたところで、大きな問題が残っている。
井戸の底の惨劇をこのまま放置して帰るわけには行かないだろう。帰りたいのは山々だが。
「先生に言うしかなくない?」
「めんどくせぇ」
どんなに面倒だろうと他に選択肢はない。重い足取りで教員室へと向かった。
その後教師に事情を聞かれ、疑われた。当然だ、怪しいもの。
結局、エンが屁理屈を捏ね、ホタルが間で宥め、サネノリはやる気なく欠伸を噛み殺す。そうする事でなんとか疑いを晴らし、帰宅が許されたのは日が落ちる直前のことであった。
疲労困憊。エンの眉間の皺は過去最高の深さを記録した。
正門で三人は解散する事にした。また明日、なんて言ったかもしれない。兎にも角にもお疲れの三人は、言葉少なに歩き出す。
こうして裏庭で起きた些細な事件は幕を閉じた。また日常が続いていくのだろう。
まぁ、翌週から試験なのだけれど。
◇ ◇ ◇
危機一髪。
くしゃくしゃの紙の状態で息を潜め、風に攫われた。偶然ではあるが、こうして生き延びたのだ、まだ挽回の機会はある。
落ちた先で再び蜘蛛の形状へと整え、通行人の背中に張り付く。こうしてさらに距離を移動した。
ここまで来れば、追われることはないだろう。
夕暮れ。たくさんの人が行き交っているこの場所は、商店街というものだと思う。以前に巣がそう言っていた気がする。
都合がいいじゃないか。ここなら様々な餌がある。
いきなり二本足を狙ったのが敗因だろう。もう少し段階を踏むべきだったと反省する。
だからと言ってまた六本足を食らう気にはならない。もう少し大きな、そう、四本足とか。
にあ……。
そうだ、丁度こういう感じの……。
くしゃり。
トノカワの愛しい式鬼蜘蛛はあっさりと潰された。そしてそのまま寸断に裂かれてしまう。
白く愛らしい猫によって。
動き回るのが楽しかったのか、猫は夢中で紙屑を突っつき回す。それが動かなくなると、ふんすんと匂いを嗅いだ。
「サク」
ふいに声を掛けられる。
「そんな物食べたら、腹を壊す。やめなさい」
声を掛けられた猫は紙屑に興味をなくし、声の主の胸へと飛び込んだ。飼い主だろうか。
「帰ろう」
その声は甘く蕩けるようで、まるで恋人に語りかけるかのように愛し気だ。鼻と鼻をちょんとつつき合い、わずかに細められた目から、とろりと愛情が溢れ出す。
一人と一匹は薄暮のなか、もふもふと家路をいそぐのであった。
待テ、次編。 →穿雲樹閣編
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