第3話 夜が明けて
小鳥たちのさえずりと、柔らかな木々のざわめきが聞こえる。あたたかな陽の光に照らされて,ゆっくりと意識が浮上した。ゴロリと寝返りを打つと,さわやかな風に乗って、香ばしいパンの焼ける匂いや野菜とニンニクを混ぜたような甘辛い匂いが飛んでくる。もう少しこの心地よい感覚に浸っていたくて布団にもぐりこんだ。
夢と現のはざまで揺蕩っていると,誰かがゆっくりと近づいてくる気配がした。同時に香ばしく甘辛いにおいも強くなる。久しぶりに嗅いだいい匂いだなぁと思っていたところで,ふと見知らぬ男と相対したことを思い出した。
ガバリと慌てて身を起こす。
さっと右を向くと,驚いた表情でこちらを見る男と視線がかち合った。
***
様子を確認しようと出来たての自分の朝食を持って寝袋に近づくと、突然少女が起き上がった。驚きで立ち止まり、少女を凝視していると、こちらを向いた少女と視線がかち合った。その子はハッとした顔をして――
正座をすると頭を地にこすりつけた。
『助けていただき、ありがとうございました。』
緋倭斗は驚きで手に持っていた皿を取り落としそうになった。慌てて皿を持ち直し、唖然とした顔で再び少女を見る。一晩での心変わりもそうだが、
(正座とはまた――)
声も出せずに口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していると、少女はなおも続けた。
『私、昨日の夜に考えました。私、倒れてから数日間寝ていました。お金になりそうなものは持っていないし、人さらいなら十分に連れていける時間です。だから、助けてくださりありがとうございました。』
何と返答すべきかに困った。気にするなというべきか、なぜあんなに警戒していたのかと聞くべきか。緋倭斗が返答に迷っていると、うつむきながら少女が再び喋りだした。
『あの、私、ここ数日ずっと森の中をさまよっていて、ここがどこだか知らないんです。どっちに行けば町があるかわかりませんし、そもそも一人でこの森を生きて出られる自信もありません。』
こんな幼い少女がたった一人で、山奥で生きていられたなんて奇跡に近いことだった。当然だが、この先も同じ奇跡が起こるとは限らない。
『だから、近くの街に、着くまで、だけで良いので、一緒にいさせてもらえませんか。』
そう言ってうつむいたまま黙り込んだ。よく見ると少女の肩は小刻みに震えていた。膝の上で両の手が硬く握りこまれている。少女は断罪のときを待つ罪人のように、ただただその時を待っていた。
緋倭斗はどうすべきかと悩みこんだ。こんな山奥に幼い少女が一人だけというのには、何かのっぴきならない事情があったに違いない。どんな事情かは知らないが、抱え込むにはあまりにも厄介な事情かもしれない。自分のことだけでも手一杯だというのに新たな問題まで抱え込めるだろうか。
そこまで考えて、緋倭斗は苦笑いするように短く息を吐いた。こんなこと、いくら考えても無駄だった。どうせ、緋倭斗にはもう、この子を放っておくことはできないのだ。簡単に壊れてしまいそうな体で、必死に生きようとあがく小さな命。かつて、周りは全員敵ばかりだと思い込んで威嚇ばかりしていた小さな子どもと姿か重なる。
『気にしなくていい。近くの街までと言わず、行きたいとこまで一緒に行こう。俺も一人旅で少し寂しかったところだったし、話し相手にでもなってくれると助かる。』
ゆっくりと腰を落として、脇にお皿をそっと置く。少女の頭をくしゃりとなでると、少女はゆっくりとこちらに目線を合わせた。その瞳には、薄っすらと涙の膜が張っていた。口元は何かをこらえるように固く結ばれている。
『今後のことはとりあえず朝ご飯でも食べて落ち着いてから話そう。』
そう言って、またくしゃくしゃっと頭をなでて、勢い良く立ち上がった。今来た道を引き返しながら、さ、朝ご飯にしよう、今日のスープは自信作なんだと元気づけるように言った。色々と聞けていないことは多いが、また後でも良いだろうと、そう思う。
一泊おいて、少女がゆっくりとついてくる気配がした。どうすべきか戸惑っているのか、途中、一回止まってうろうろとしては、また近づいてくる。鼻歌でも歌いながら準備をしていると、少女は隣までやってきて、小さな力で服の袖をそっと引っ張った。
『ありがとう、ございます』
喉の奥から絞り出したようなか細い声だった。
朝食を器についで、焚き火のそばに腰を下ろすと、少女は伺うようにこちらを見上げてきた。聖王国式の食べる前のお祈りを見せてやると、見様見真似で腕を動かしている。朝食を食べ始めると、少女は目をまんまるに見開いてから、勢い良くご飯をかきこみ始めた。ご飯を食べてはスープをのみ、ご飯を食べてはスープを飲む。夢中になって一心不乱にかきこんでいるのに、バランス良く食べてはいるのがなんとも面白い。
完食して一息つくと、少女はふとこちらを見た。こちらがまだ朝食を食べている途中なことに気が付き、少し恥ずかしそうにうつむく。粗相をした子犬のような姿に、思わず出そうになる笑いを噛み殺す。まだあるから食べるかと聞くと、少女は首が取れそうなほど勢い良く首を横に振ったが、腹の虫は正直だった。
朝食を食べて終わると、少女は自分のことをアイシャと名乗った。名字は名乗らなかったので、おそらくは平民か孤児だろう。
『生まれは聖王国と東天人帝国の国境にある村で、獣人族のラゴ・リベです。訳あって最近まで東天人帝国の首都に住んでいました。』
不安なのか、アイシャはお腹の前で両手を固く握り込んでいた。
獣人族だということに、あまり驚きは感じなかった。出会った当初は気が付かなかったが、少女は人族にはない特徴を持っていた。頭からは小さな黒い角が生え、陽の光を受けて黒曜石のようにキラキラと輝いている。臀部からは長く太いトカゲのような尻尾が生え、緊張しているのか今はビタンビタンと地面を叩いている。ラゴ・リベという一族は聞いたことがなかったが、東天人帝国に関してはきな臭いうわさを最近よく聞いている。相当な訳ありだろうと思い、とりあえず今はあまり深くは追求しないことにした。
『俺は緋倭斗。この山の麓にあるはじまりの街で冒険者をしてる。』
緋倭斗が自己紹介を始めると、アイシャは少し驚いた顔をした。身の上を深く追求されなかったことに驚いたのかもしれない。
『生まれも育ちも聖王国で、見たまんまだろうが人族だ。好きなものはチキンステーキとハンバーグで、趣味は気ままに旅することと、釣りと、あと狩りかな。料理は食べるのは好きなんだけど、作るのはからきしなんだよなぁ。』
少し大げさなぐらいに肩をすくめると、アイシャはキョトンとした顔をして、手元のお椀を見つめた。最高傑作のスープが入っていたそのお椀には、今はもう何も入っていない。
『アイシャは好きなことはあるのか?』
気を取り直してそう聞くと、アイシャは少し考え込むような仕草をした。2つの瞳が何かを思い出そうとするように何もない空中を見つめている。
『読書は、好きです。あと、本を読むのも。』
そう言うと、アイシャは少し寂しそうな顔をしてうつむいた。
『釣りや狩りはわかりません。したことがありません。』
これぐらいの年齢の子どもたちは外で遊んでばかりだと思っていたので、少し意外な答えだった。自分の偏見だったのだろうか。釣りと狩りの楽しさを知らないなんてと身勝手な哀れみを覚えた。
『よし!じゃあ今日は釣りと狩りをやるか!やり方を知っておいて損はないし、楽しいかもしれない』
そう言って、勢い良く立ち上がって少し大げさに笑いかけた。アイシャは弾かれたように顔を上げると、勢いよく首を上下に動かした。その日は結局、1日中釣りの仕方を教えて終わった。




