第1話 邂逅(前編)
それは、月明かりのないむしむしとした夜だった。
少女は一心不乱に駆けていた。踏みつけられた枝がバキリと不快な音を立て、かき分けられた草木はざわざわと騒ぎ立てる。どこか遠くでフクロウがギャアッギャアッと鳴いていた。深夜の森にも関わらず、なぜこんなにも騒々しいのか。絶えず響く自分の足音に、だんだんと焦燥感が募る。どこまでも続く暗闇は、少女の心をさらに孤独と不安に苛んでいった。
それでもただただ、闇を目指して走り続けた。
一体どれほど走っただろうか。ふと気がつくと、周りがほんのりと赤く色づいていた。いや、何かしらの光によって、あたり一帯の草木が照らし出されていた。動物の鳴き声と衣擦れの音しかしていなかった森の中には、いつしか地を揺るがすような蹄の音が響くようになっていた。
速く
速く逃げないと――
少女の思いとは裏腹に、血と汗と泥にまみれた衣は肌にへばりつき、森の草木や蔦は手足に絡みついて行く手を遮る。疲労を蓄積した手足は鉛のように重くなり、動きは徐々に緩慢になる。それでも、前へ前へと草木をかき分け、一歩足を踏み出した。その時――
けたたましい馬の嘶きとともに、殴られたような強く鈍い痛みを背中に感じた。ふわりと体から重力が消え去り、地面がひっくり返ったかのような錯覚に陥る。なみなみと揺れる真っ黒い水面が視界に広がった。瞬間、水面を叩きつけたかのような大きな音ともに身体前面に衝撃を感じた。唇の隙間を縫うようにドロドロとした冷たい水が口内に入り込み、喉を塞がれたような息苦しさを感じた。咳こもうと開いた口と鼻から、ゴボゴボとさらに水が流れ込む。薄れゆく意識の中で、水上が燃え上がるように赤く染まり――
気がつくと少女は一人呆然と立ちすくんでいた。むしむしとした暑さも、不快な草木の騒めきも、煩わしい血と汗の感触もない。真っ白い部屋に、たった一人で佇んでいた。ふと目の前に腕を広げると、切り傷だらけだった皮膚からは傷一つなくなっていた。いつの間にかぼろぼろだった寝間着は真っ白な膝丈のワンピースになっている。
(逃げきれたのかな――)
そう思っても、何の喜びも感慨も湧かなかった。頭は風邪をひいたときのようにほわほわしていて、湧き上がってくるなにかをすべて放棄していく。そのまま何もせず、何も考えず、ただただぼーっと突っ立っていると、ふいに後ろから柔らかな足音がした。
” 愛紗 ”
それは明るく涼やかで、どこか人の情を感じさせない響きを伴って、愛紗の耳を打つ。その嫌というほど聞き覚えのある男の声に、愛紗は血の気が引いた。
逃げなければ、そう強く思うのに、体は石にでもなったようにピクリとも動かない。叫ぶことも逃げることもできぬまま固まっていると、金属と石がこすれるような音がして、両の足首が勢いよく後ろに引っ張られた。
とっさに手を前に突き出して受け身を取る。急に血が通い出したとでも言うように、心臓が激しく脈打つのを感じる。何が起こったのかわからない。戸惑いそのままに両足を見やると、そこには黒光りする2つの枷がはめられていた。反射的に足枷に手を伸ばすと、いつの間にか手首にも枷がはめられている。枷からは、頑丈そうな鎖が後ろへ伸びていた。
愛紗の顔が驚愕に染まる。
耳の奥では、子どもたちのすすり泣く声や叫び声と、男たちの怒鳴り声が鳴り響いていた。瞳に写っていた驚愕は、だんだん絶望に塗り替えられる。ゆっくり、ゆっくりと、後ろを振り返ると、
爽やかな顔をした男が愉快そうに口角を上げて笑うのが見えた。
” おかえり、僕のかわいい―― ”
「イヤァァァァァァァァっ」
突然ほとばしり出た叫び声に、愛紗は飛び起きた。心臓がドクドクと音を立ててなっている。寝間着は汗でぐっしょりとぬれ、呼吸はひどく荒い。帯の締め付けが苦しく感じてかなぐり捨てると、ふとそこが、先程の真っ白い部屋ではないことに気がついた。
月明かりの差し込むその部屋は、目につくものすべてが木でできている。狭い部屋には簡素なベッドと机が備え付けられ、床には大小様々な衣服が脱ぎ散らかされていた。少し開いた窓からは、秋を感じさせる乾いた風邪が吹いている。呼吸が落ち着くまでなんとなしに部屋を眺めていると、ふと隣から声がした。
「愛紗、悪い夢を見ただけだ。大丈夫だから。早く寝な。」
そう聞こえたかと思うと、後ろからくしゃりと頭を撫でられた。
声の主は隣に寝ていた青年だった。淡い金色の髪に真っ青な空のような瞳を持つ青年は、頬杖をついて寝転んだ状態でけだるげにしている。ぼさぼさの髪とすっと細められた目が彼の眠さを主張していた。どことなく声音からも隠しきれない疲れがにじみ出ている。
寝起きは少しぶっきらぼうになるが、いつもはお日様のように温かいのを愛紗は知っていた。心配になって声をかけてくれたのかと嬉しくなる。
「師匠〜〜」
そう言って彼に飛びついた。普段は暑苦しいからと許してくれないが、夢見が悪いときは添い寝することを許してくれる。今も文句を言いつつも頭をゆっくりとなでながら抱きしめてくれており、師匠は不機嫌でもあったかいなぁと思う。
そうしてそのぬくもりに安心して、愛紗は再び眠りについた。
***
「はぁ、寝たか」
腕の中で少女が安らかな寝息を立てているのを確認して、青年は安堵のため息をついた。今は幸せそうに眠っているが、幼い少女の寝顔には涙の跡がくっきりと残っていて痛々しい。今でこそこうして添い寝をすれば眠れるようになったが、最初はそれはひどいものだった。
青年が愛紗と初めて出会ったのは2年ほど前のある蒸し暑い夜のことだった。
青年が野宿をしていると、ふと草を踏み分ける音に気が付いた。この時間帯であれば普段はセミの鳴き声しか聞こえない。この森には夜行性の獣はあまり生息しておらず、ほとんどの動物は寝静まっているはずである。聞こえたとしてもせいぜいがフクロウや蝙蝠の羽音ぐらいのものだ。しかしこの音はどう考えてもある程度大型の生物の移動している音だった。遭難者か野盗かもしれないと思い、青年は確認するためにゆっくりと近づいた。
幸いなことに、剣の腕には覚えがあった。少数の野盗ぐらいであれば何度も捉えたことがある。大人数であれば問題だが、遭難者の可能性が捨てきれない以上見て見ぬふりをすることはできなかった。
ここは魔族の住む魔国と人族の住む聖王国のほぼ国境に位置する森だ。魔国と聖王国はおよそ100年ほど前から抗争を続けている。聖王国は魔国に比べれば規模は非常に大きいが、魔族は一人で人族数十人分の強さを誇ると言われるほど戦闘能力が高く、未だに戦争終結の目処はついていない。そのため魔族と遭遇する可能性の高い国境には聖王国の民はほとんど近づくことがない。会敵すればまず間違いなく人族側が全滅するからだ。
また、魔族もほとんど国境に近づくことはない。これは魔族が聖王国の民を嫌悪しているからだそうだ。それに加え、この森は曲がりなりにも聖王国に属しているため魔族がいる可能性はあまり高くない。
つまり、いるとすれば聖王国の民の遭難者か野盗などの隠れ住まなければならない者たちの可能性が高いのだ。そこまで考えたところで、風に乗って青年の下にふわりと鼻を刺すような異臭と血の匂いが漂ってきた。
途端に鼓動が早鐘を打ち出す。
(これは野党かもしれない。)
思わず舌打ちをしそうになる。
(人数が多ければ最悪死ぬが、しかし遭難者がけをしているという線も捨てきれない。)
一瞬の逡巡の後、やはり遭難者であれば見殺しにはできないという結論に至った。もし遭難者であれば、怪我をした状態で国境地帯を抜けるのは困難を極めるだろう。決意を新たに暗闇に身を潜ませるが、緊張は先程の比ではなかった。
剣の柄を握る手にはじっとりと嫌な汗がにじみ、ドクドクとチノ巡る音が聞こえてくる。近づくにつれて強烈になってくる匂いも青年の不安をさらに掻き立てた。慎重に、息を殺しながら移動する。
しばらくすると、獣道に佇む黒い影が見えた。即座に青年は木陰に身を隠し、ゆっくりと木陰から伺い見ると――
そこにいたのは、鮮血のような不吉な目を持つ黒いなにかだった。
それは見たことのない生物だった。頭から生えた真っ黒でゴワゴワとした長い毛は体の上部を覆い、体には獣の皮のようなボロボロの衣をまとっている。黒い毛の隙間から除き見える血走った目はあたりをしきりに見渡しており、ミイラのような4本の脚でのそりのそりと歩いている。全長は目算で青年の胸ぐらいまであり、横に大きいわけではなく少しあたっただけでもボキリと折れてしまいそうなほどにひょろ長い。しかしその貧弱そうな体とは裏腹に、手には長く鋭い凶悪そうな爪が生え、威嚇するかのようにときおり爪同士をぶつけて音を鳴らしていた。
青年がその異様な形相に唖然としていると、突然、その生物がギョロりとこちらを向いた。
視線が交差する。
ぶわりと全身が総毛立ち、全身から汗が滴り落ちた。頭の奥で警鐘がなっているのがわかる。今まで感じたこともないような、名状しがたい恐怖と不安がこみ上げてきた。
しかし、青年は視線をそらすことができなかった。
なぜかはわからない。
恐れで身がすくんでいるのか。獣に対する防衛本能か。あるいは獣のようだと思っていたその目に思わぬ知性を感じたからか。ただただ、視線を逸らしてはならないという不思議な直感に突き動かされていた。
そうして互いに見つめ合ってからどれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、それがこちらへ向かってゆっくりと歩き出した。一歩、二歩、三歩と、興味深そうにじっと凝視しながら近づいてくる。青年が彫像のように固まっていると、青年に触れるようにそっと手を上げて――
突然バタリと倒れた。
青年が咄嗟に受け止めると、やはりというべきかその体は異常なほどに軽かった。そして、よく見ればそれは幼い少女であった。髪はぼさぼさ、爪は長く衣服はボロボロ。体はどこもかしこも泥にまみれ、人とは思えぬほどやせ細っている。しかし、紛れもなく人の子だった。
自分は何をそれほど恐れていたのかと不思議に思う。同時に、少し恥ずかしくもあった。
(これほどか弱い少女に気圧されるとは――)
自省したのも束の間、青年はすぐさま思考を切り替えた。
(早く休ませてやらなければならない。これほど爪が伸びているということはおそらく森をさまよっていたのは1日や2日どころじゃない。数週間か、数ヶ月か。。。今はゆっくりと休ませ、栄養のあるものを食べさせなければ。)
そう思った青年は、少女を抱えて来た道を大慌てで引き返していった。




