6
翌朝、マリは始業前の図書館にいた。
本当は、今日は学校に行く気はなかった。
もしもマリとみくが学校に行ってしまえば、彼女たちが帰ってくるまでの間、必然的にユメを一人にすることになる(当たり前だがユメは付近の小学校の生徒ではなかった)。
半日もユメを放っておくわけにもいかないだろうし、それに子供とはいえよく知らない相手に家を任せるというのも抵抗があった。だから今日は自主休校にする、とマリが言うとみくは猛反発した。
「姉さんは私と違って成績悪いんだから、これ以上学校を休んだらだめです!」
「相変わらずはっきり言うわね」
「だって、事実でしょう?」
みくは冷たく指摘した。
確かにマリは学校の授業の成績は、あまり芳しくない。
「でもそれじゃあどうするのよ?」マリが問う。
「私がさぼってこの子の面倒を見ましょうか?」
みくの提案をマリは首を振った。
「あんたは学校さぼっちゃだめよ、あんたは勉強できるんだからちゃんとしなきゃ……それにいつまでこの子いるのかわからないのに、安易にさぼろうとしちゃだめよ」
「確かにそうですけど、それを姉さんが言うのはちょっと……」
自分で言って、確かにこれはないなとマリも思った。
二人が黙ると、ことの推移を見守っていたユメが口を開いた。
「そんなに悩むことですか?」
マリは期待を込めてユメを見た。
「私は何もしませんし、一日くらい放っておかれても大丈夫です」
「そうならいいんだけどね」マリはがっくりと肩を落とした。
「それでも心配なら吉田さんに連絡をすればいいと思います」ユメが言う。
「吉田さん?」マリは首を傾げた。その名前はマリにとっては思いもよらない答えだった。
吉田の携帯番号はユメが教えてくれた。
吉田はすぐに電話に出て、ああ、それなら一日こっちで面倒を見よう、と軽く請け負ってくれた。研究者というのは暇なのだろうか、とマリは思った。
「というか、君から連絡が来るのを待っていたんだ」電話の向こうの吉田は言った。
「何か用事でもあったの?」マリが聞く。
「ああ、少し君にもらいたい物があってね」
「もらいたい物?」マリは首をひねった。吉田に渡すものなんてあっただろうか。マリが考えていると、少し頼みづらいんがど、と前置きし吉田は言った。
「君の細胞をもらいたい」
「……なんて?」一拍の間をおいて、マリが聞き返す。
「聞こえなかったのかい? じゃあもう一度言うよ。君の細胞が欲しいんだ」
マリは即座に電話を切った。
妹とユメがキョトンとした顔でマリを見ていた。
「吉田に預けるのは無しよ」マリが宣言する。
「どうしたんですか、そんなに急に」
「あいつは女子中学生の細胞を欲しがるとかいうレベルの高い変質者だったわ。そんな奴にあんたみたいな小さい子供を預けるわけにはいかないでしょ」
「変質者?」みくが不思議そうに首を傾げる。
携帯が鳴る。マリは電話に出た。
「なぜ切る?」
相手は吉田だった。
「あんたが変質者だからよ」マリは冷たく言い放った。
「君は勘違いしている。僕は変質者ではない」
「連中はみんなそう言うのよ」
「いや違う! 僕が君の細胞をもらいたいと言ったのは、決して変態的な理由からじゃないんだ!」
「じゃあ何よ?」
「いろいろと調べたいことに使うんだ」
「やっぱり変態じゃない」
「そうじゃない! 君はDNA鑑定という技術を知っているかい?」
「馬鹿にしてんの?」
マリは憤慨した。今どきの女子中学生、そんなことも知らないと思われているのだろうか? 遺伝子の話くらいとっくに生物の授業で学習済みである。
「それなら話が早い。君の遺伝子を調べて、ユメ君が本当に君の子供か確かめたいんだ」
マリは吉田の話を理解した。
確かにマリとユメが本当に母子ならばユメのDNAの半分はマリから遺伝したもののはずなので細胞さえ手に入れば、母子かどうかを確認することはできるだろう。つまりユメがタイムトラベラーかどうかを調べる一環ということだ。
「ちなみにすでに川村さん――君のお母さんとユメ君のDNA型は調べてある。結果は聞きたいかい?」
「わざわざわたしを呼ぶくらいだもの。どうせ肯定的なんでしょ?」
「ああ、まあ孫と祖母では完全ではないが、とにかくユメ君が川村さんの母系家族であることは確認された」
「わかった。細胞くらい預けるわ」
「助かる。そっちに行くまで、そうだな、一時間くらいかかると思う」
「一時間?」
マリは時計を見た。普段ならそろそろ家を出ている時間だった。というか今から一時間も待っていたら遅刻してしまう。そのことを吉田に伝えると、吉田は、それじゃあ貰うものはまた後でいい、と言った。
「どうせユメ君を連れてくるんだ。そのときに頼むよ」
「わかった。鍵はユメに預けておくから、お願いしていい?」
「問題ない。君は何時くらいに帰る? 五時? じゃあそれくらいにユメ君を帰そう」
吉田と話をまとめ、マリは電話を切った。マリはユメに向き直った。
「どうなったんですか?」みくが聞く。
「この子は吉田さんに預けることにするわ」
「よかった……後でお礼をしないといけませんね」
「それと、助かったわ、あんた意外としっかりしてるわね」マリはユメに向かって言う。
「いえ、そういうわけでは……」ユメが口ごもる。
「なに、何か言いたいことがあるの?」
ユメがマリを見ていた。何か言いたいけれど決心がつかない。そんな目だった。ユメはマリに言われて、微かな逡巡の後で口を開いた。
「どうしておばあちゃんに頼ろうと思わないんですか?」
「おばあちゃんって、母さんのこと?」
ユメはうなずいた。
「母さんは忙しいし、それにあんまり頼りにならないのよね」
「姉さんは他人に頼るのが昔から苦手なんです」
みくがわざとらしく首を横に振った
そんなわけでマリは朝一番に学校の図書館に来ている。
みくはいない。二人とも同じ私立校に通っているが、みくは部活の朝練があるということでグラウンドに行ってしまった。彼女は陸上部をやっている。
二人が通う中学校はN女学院といい、普段はN女と略されて呼ばれることが多い。N女はK市の南に広がるなだらかな丘の上に広がっており、二人の家からは電車で一時間ほどの距離の場所にあった。
N女は巨大な教育機関である。物理的な大きさもそうだが、それ以上にその教育の幅が大きい。
N女には初等部から大学までの教育機関がそろっていた。もっとも大学は別の場所にキャンパスがあるので、それほど意識することはないが、それでも小中高すべてがそろった教育機関という時点で十分巨大である。もっとも、大きいと言っても生徒の数自体は実はそれほど多くはない。元が華族お姫様の教育のための機関だったらしく、今でも社長令嬢やら県議の娘やら、そんな偉いところの娘という生徒が圧倒的に多い。一言で言えば、お嬢様学校と言うやつである。
なんにせよ、設備が充実していることに変わりはなかった。図書館もその一つである。N女には大小合わせて12の図書館・図書室が存在する。中等部の正面にあるその建物は大学の物よりは小さいが、マリの目的を果たすには十分な大きさと蔵書を持っていた。
マリが朝の図書館に来たの理由は簡単である。
マリはタイムトラベルについて調べてみようと思ったのだ。
もちろん物理的なことは麻衣子や吉田たちが調べているだろう。彼女たちの仕事はまさにそれであり、マリにその手伝いができるとはとうてい思えない。けれどユメがタイムトラベラーかを調べているのに、タイムトラベルについて全く知らないのはまずいだろうとマリは思った。
そして調べてみてわかったのは、タイムトラベルの方法というのは意外とたくさんあるのだということだった。
人間の時空に関する知識というのは、基本的に一般相対論と呼ばれる理論になっている。この理論は一言でいえば、各点ごとの時空の曲率という量は、各点ごとの時空のエネルギー運動量という量に比例する。というだけの理論だそうだ。そもそも曲率と言われてもよくわからないが、どうやら曲率が大きいところでは大きな重力が発生するらしく、大きなエネルギーっていうのはつまり大きな質量があるということらしかった。つまり言っているのは重い物体の周りには強い重力が働く、ということだ。それくらいマリは一般相対論なんて知らなくても知っていた。
その理論の中には普通にタイムマシンというか、ある種のループする解が存在するのだ(それを閉じた時間的曲線というらしい)。もちろん実際にそういう状態を作ったという例はない。というかそもそも、閉じた時間的曲線が現れるのは回転するブラックホールの周りとか、宇宙紐と呼ばれる銀河なんかよりもはるかに巨大な構造の周りとか、とにかく馬鹿みたいにスケールが大きな場所だけのようだった。
けれど、あの天文台にはブラックホールやワームホールなんてなかったと思う。もちろんマリには彼らが何をしているのかさっぱりわからないが、あそこはなんというか、もっと地味な感じだった。
というかタイムマシンを作ろうとして、本当にタイムトラベラーが来たのなら、何も慌てることはない。わざわざ部外者なんて呼ばずに論文にすればいいのだ。だから仮にユメが本物のタイムトラベラーだとしてもこういう普通(?)の方法でタイムトラベルをしたわけではなないはずだ。
そうじゃなくてもっと異常な、というとおかしいが、変な手法はないのだろうか。
マリは始業ぎりぎりまで本と格闘をしたが、よくわからなかった。そもそもどれが一般的でどれが一般的でないかすらわからない手前、もともと無理な相談だったのだ。
最後に調べた本にはこんあことが書かれていた。もっとも、このような議論はすべて一般相対論が正しいという前提の上に成立する議論である。そしてブラックホールだとかワームホールだとかそんな極端な場所で一般相対論が正しいのか、誰も知らない。
むしろ間違っているんじゃないかと思う物理学者はたくさんいるとも書かれていた。
マリはなんだかひどくむなしい気持ちになった。
「それじゃあ何ですか? 図書館で引きこもって、一つ頭がよくなって、だいぶ混乱して、それから切ない気持ちになっただけで終わりですか?」
「言い方からそこはかとなく馬鹿にされてる気がするのだけど」
「被害妄想です」
「被害妄想って……」
「姉さんが勉強できないのなんて、今更いちいち気にしません」
「やっぱり馬鹿にしてんじゃない!?」マリがいきり立つ。
「全然違います! 馬鹿と勉強できないは全然別の概念です! ハチロクとハチクロぐらい違います!」
「ハチクロは知ってるけどハチロクってなに?」マリが首を傾ける。マリはマンガを読む方だが、残念ながらハチロクは知らなかった。
「車の名前です。それで、違うのですか?」
「まあ否定はできないけど……」
みくの質問にマリは渋々うなずき答えた。
放課後、帰宅途中の電車の中でマリはみくに捕まった。
マリはあれからいくつかの本を借り、休憩時間をタイムマシンについて調べることに費やしたことを妹に話した。その結果わかったのは、やはりタイムトラベルできるかはよくわからない、という事実だけだった。
「でも意外だったわ。タイムトラベルなんてできないって言いきるのがこれほど難しいなんて」
「そうですか? できることの証明は意外とできますけど、できないことの証明はとても難しいものです。姉さんは悪魔の証明という言葉を知ってますか?」
「それくらい知ってるわよ。わたしが言いたいのはそういうのじゃなくて、なんというか、だっておかしいじゃない? 未来から人が来るなんてタイムパラドックスとか、いろいろ聞くし……ところで、みくは今日は部活ないんだっけ?」
「休むって言ってきました」みくは右手でVサインを作った。
「部活、休んじゃダメよ」
「そうやって私を遠ざけようとしてもダメです。帰ってからあの子がタイムトラベラーかどうか調べる方法を聞くのでしょう? こんな楽しそうなことから目を離せるわけないじゃないです」
「楽しそうって、まじめな話なのよ?」
「マジだから楽しいのです」と、みくは白くて細長い人差し指でびしっとマリを指さしながら、ひどくまじめな顔で見つめ返した。
マリは昨日の話を思い出す。ユメがタイムトラベラーかを調べる方法を、ユメ自身から聞けと言われていたのだ。確かにマリは帰ったらすぐ、そのことを聞いてみようと思っていた。時間をかけるのも面倒だし、朝は変質者とかユメの預け先とかでバタバタと忙しくて、聞けなかったのだ。
「でも、そんなことが本当に楽しい?」
「すごく楽しいに決まっています! だってあの子が本当のタイムトラベラーなら私たちは世界で最初のタイムマシンの証人になるんですよ!」みくが興奮に息を荒げる。
「そうじゃない可能性もあるわ」マリは冷静に指摘した。というか、むしろ嘘である可能性のほうが高いとマリは思っている。
「それでも面白いです。昨日姉さんが言ったでしょう? もしも嘘だとしら嘘のスケールが大きすぎると。きっとその嘘の背後には巨大な悪があるに違いありません。それを追い詰める美少女姉妹探偵!」
ふふふ、とみくは不敵に笑った。みくの中ではなかなか愉快な状況になっているらしい。というか勝手に人を探偵団の中に入れないでほしいとマリは思った。美少女という点については突っ込まなかった。なぜならマリは自分は自分のことを美少女だとはっきり認識している。
でも、とマリは思う。確かに、はっきりと決着がつくならそれなりに面白いことかもしれない。嘘にせよ、あるいは真実にせよ、ユメというあの少女には謎が多すぎる。それが解明されるならば、それはきっと面白いだろう。
だが、そんなはっきりとした結末を迎えられるのだろうか――?
吉田がユメを連れて家に戻ってきたのは、ぴったり五時だった。
どこにいたのかを吉田に尋ねると、男は「川村さんの研究室だ」と短く答えた。
帰ってきたユメにさっそく切り出すと、ユメは少し悩んでから、何かに思い当たったように手を打ち「ああ、そんなこともおばあさんと話しましたね」とうなずいた。マリはほっと胸をなでおろした。
「と言っても、これはおばあさんからの依頼である以上に、私からの頼みでもあるのですが……まあ、利害の一致というやつです」
「利害の一致ですか? 麻衣子とあなたの利害が一致したということですか?」
みくが確認すると、ユメはうなずいた。それからユメはちらりと横に目をやった。そこには話についていけずにいる吉田が、所在なさげに立っていた。
「僕がいたら邪魔かい? それなら用事を済ませて帰ろうと思うんだが」
「そんなことないと思う……むしろ吉田さんがいてくれた方がいいかもしれないわ。時間がないなら無理にとは言わないけど」
「僕がいたほうがいい?」
マリは今からユメに聞こうとしていることを説明した。吉田は、そういうことなら、とうなずいた。
「僕もその話なら聞いているしね。なんなら僕の口から話してもいいくらいだよ」
「いえ」吉田の言葉にユメは首を振った。「これは私からお母さんに話します」
一体何なのだろう、とマリは思った。
「ところでお母さんはどうしたら私をタイムトラベラーだと信じてくれますか?」
ユメはマリに質問した。マリは少し考えてから答えた。
「タイムマシンを使わせてもらったら信じるわ」
「私のタイムマシンは現在にはありません」
「あの天文台は違うの?」マリが問う。
「あれは受信機みたいなものだと、おばさんは言っていました」
「まあ天文台は電波の受信機ですからね……ちょっと待ってください? おばさんというのは私のことですか?」みくが聞く。
「はい」ユメはうなずいた。「私を現在に送ってくれたのはおばさんでした」
みくは困ったようにマリを見た。そんな目で見られてもマリからは何も出てこない。
「私って結構すごいのでしょうか?」
「あんたってポジティブよね……」マリは呆れた。
「もっとも、今は私が来た時の衝撃で壊れているので、受信機としても使えませんが」とユメは付け加えた。
「細かいことは置いておいて、タイムマシンは今は使えないってことね」マリがまとめる。
「はい」ユメは頷いた。
「でも、タイムマシンが使えないとなると、そうね……未来の物を持ってきてもらう、というのは論文と宇宙服でもうしたのよね? いえ、別にものじゃなくてもいいのよ。たとえば未来の情報とか……」マリがつぶやく。
「それが麻衣子の考えていることです」
マリはユメを見た。
「例えば新しい理論が発表されたときどうしてそれを人は信じるのだと思いますか?」
話が飛んだ。マリは考えて、答えた。
「それは今まで説明できなかった現象に説明がつくからじゃないの?」
「それならば例えば既存の理論に箇条書きの脚注でも付け加えれば十分ではないですか? ある理論が説明できる現象は正しいとして、説明できないものについては、ただしAという現象は発生する。という但し書きを付け加えるのです……そのような理論は現実の世界と無矛盾です。一つの世界の説明として機能しています。それでいいのですか?」
マリはユメの言うことの意味を必死に考えた。
例えば手に持ったものを離したら大抵のものを落下する。『物は落下する』というのが単純な理論である。
けれど風船は浮く。これは矛盾する。だから『物は落下する』という理論は実際には間違っている。けれど『ほとんど物は落下する。ただし、風船は浮く』と理論を修正すれば、確かにこの時点では矛盾はない。それがユメのいう『脚注付きの理論』と言うことだろう。
矛盾はないかもしれないが、かなりダサいとマリは思った。
「……なんかダメな感じの理論ですね」みくもマリと同意見らしい。
「そこで出るのが新しい予言というものです」ユメが言う。
「予言?」マリは頭の中に白いひげを蓄えたおじいさんの姿を思い浮かべた。
「新しい理論は当然既知の現象を説明できないといけません。しかしそれだけでは先のような理論もどきとなんら変わりません。しかしその理論が誰も知らなかった予言を行い、それが正しかった時、なんだか説得力が増すと思いませんか? 予言という言い方が悪ければ予想でもいいです。例えば一般相対論は正しいと現在の多くの人間は思っています。それは一般相対論がそれまで誰も知らなかった現象を予想し、それが正しかったからです。太陽の重力レンズ、惑星の歳差運動、衛星の時間の遅れ、重力波……」
マリは今朝読んだ本を思い出した。一般相対論は時空の曲がった時空の力学である。その周りでは平坦な時空では起こらないことが起こる。たとえば光は重力中で直進せず曲がってしまう。それを重力レンズという。その他の現象もアインシュタインやその他の科学者が一般相対論から予想し、ほかの物理学者が確かめた現象だった。
「一般相対論だけじゃありません。革新的な物理学の理論とはそのようになっています。小林益川理論はCPの破れから、3世代以上ののクォークを予言しました。標準模型は重いベクターボソンとヒッグスを。逆に、ジョージアイ・グラショウのシンプルな大統一模型は比較的短い陽子の寿命を予想し、それを外したため間違いだとわかりました。新しい理論に説得力を与えるんは新しい予言を成功すればいい……」
もうマリにはユメの話についていけなくなっていた。
「……細かいことはわかんないんだけど、つまりあなたも新しい予言というか、予想を立てるということ?」
マリの問いにユメはうなずいた。
「この世界は非線形的で、未来のふるまいはカオス的です。現在の人間には一週間先の天気の予言すらできません。ですから未来の出来事を予言することができるのはあらかじめ未来を知っている人間、つまり未来から来た人間にほかなりません。文字通り予言を的中させることはタイムトラベラーの証明となる」
「未来から来たことを証明するためには、文字通り未来のことを予言してもらえばいいってことですね」みくがユメの話をまとめる。「それじゃあ何か予言があるのですか? 十五分後に姉さんが首をつって、そのあとで火あぶりになるとか?」
「なんでわたしがそんな目に合わなくちゃいけないのよ」
妹は思った以上に残虐だった。マリは妹に抗議した。
「姉さんは藤子不二雄の不朽の名作、ドラえもんの記念すべき第一話を読んでないんですか?」
みくは信じられないというように、目を丸くしてマリを見た。
「悪かったわね、読んでなくて。ていうか一話ってそんな話なの? 魔女裁判でもしてるの?」
「のび太君が首をつられて火あぶりにされるんです」
「ドラえもんって思った以上にバイオレンスね……」
「そういえば『川村ユメは川村マリの娘である』というのも立派な予言ですね。だって今の姉さんに子供がいるはずありませんもの」
「それについてはちょうど調べようとしていたところさ」吉田が割って入った。
「DNA鑑定ですね? 母系は水戸黄門DNAがありますから確認しやすいですから」
「みく、それは勧善懲悪もの時代劇に脈々と受け継がれてきた遺伝子であって細胞中のATPを合成する機関には入ってないわ」正しくはミトコンドリアである。
「ちなみにDNAは“出落ち気味の角さん”の略称です」
「さすがにわざとやってんのよねぇ!?」正しくはデオキシリボ核酸である。
「当たり前じゃないですか」みくはひょうひょうとうそぶいた。マリはぐったりと肩を落とした。どうしてこう、わたしの周りの人間はぼけまくるんだろうか。そんなマリの様子を気にすることもなく、吉田は話をもとに戻した。
「今日もらえたら、明日か明後日には結果は分かると思う」
「じゃあそっちは結果待ちね。ほかに何かあるの?」
「はい」ユメはうなずいた。「そちらが本題です」
マリとみくは自然と居住まいをただす。
「私は自分の父親が誰なのかを知りません」ユメは淡々と告げた。「生まれた時から私の家庭には父親がいませんでした」
「私たちと同じですね」みくが言った。
マリとみくは自分の父親についてほとんど知らない。二人は母子家庭で育ち、麻衣子は二人に父親のことを詳しくは話さなかった。ただ、少しだけ話してくれたことを総合すると、マリとみくは麻衣子がポスドクでアメリカに行っていたときに生まれたこと。二人の父親はアメリカ人であること。そして二人の父親は別であること。そしてその二人とも死別していること。それだけは分かっている。逆に言えばそれくらいしか知らなかった。
「けれど、まったく知らないわけではありません」ユメは続けた。
「昔――お母さんたちからすれば未来ですけど――お母さんが父親について全然話してくれないのに業を煮やした私は一計を案じました。お母さんはお酒が全然飲めないというのはご存知ですか?」
「そうなのですか?」みくがマリを見る。
「知らないわよ」マリは憮然として返した。「お酒なんて飲もうとしたことないし、わからないわ」
「今度試してみましょう」
マリはいやそうな顔をして妹を見た。
「……お母さんは缶ビール一本でべろべろに酔っぱらえるという稀有な体質の持ち主です。ですからお母さんを酔っぱらわせて話を聞き出そうと思ったのです」
「また古典的な……」
「それで、結果はどうだったんですか?」みくが先をせかす。
「うまくいきませんでした」
「そんなあ」みくが眉根をハの字に曲げる。
「なんであんたが残念がるのよ」マリは呆れた。
「そんなの当たり前です。だってこの子の父親ということは姉さんの恋人ということですよ? 姉さんは自分が誰を好きになるのか気にならないんですか?」
マリは少し考えた。自分が将来好きになる人の名前が分かったとしてそれは幸せだろうか。
「……正直あんまり知りたくないわね」
「なぜですか?」
「あんただって未来の自分の恋人の名前なんて知りたくないでしょ?」
「当たり前じゃないですか。でも姉さんのは知りたいです」みくは何を当たり前のことを、という目でマリを見た。
「いい性格してるわ、あんた」
「そんな、褒めなくてもいいんですよ?」
「褒めてないわよ……」マリは妹のことはあきらめてユメに向き直った。「それで、どうなったの」
「父親の名前を知ることはできませんでした。しかし、完全に失敗というわけでもありませんでした」何事もなかったかのようにユメは続けた。さっきマリが知りたくないと言うのを聞いたはずなのに、それでも表情を変えずに続けるあたり、この子も結構いい性格しているな、とマリは思った。
「少しヒントのようなものを教えてくれたのです」ユメが言う。
「ヒント?」
ユメはうなずいた。
「私がしつこく聞くと、お母さんはしょうがないというように、自分の部屋からアルバムを一冊持ち出してきました。私はそこに父親の写真があるのかと思いました。でも違いました。お母さんが見せてくれたのはお母さんと、それからおばさんが映っている写真でした。二人は今日二人が朝着ていたセーラー服を着て、学校の門の横に立っていました。二人のそばには桜の木があって、半分くらい咲いていました」
「それはたぶん、私の入学祝いの時の写真ですね」みくが横から補足する。「ほら姉さんも覚えていますか? 姉さんの友達の……貴子先輩でしたっけ? に撮ってもらった」
「あーあったわね」
言われてマリは思い出した。みくの入学式はよく晴れていて、絶好の写真日和だったのだ。それで校門の横に並んで友達に写真を撮ってもらったのだ。あの年は桜が遅くて、入学式の時にもまだ咲いていた。
「でもその写真がどうかしたの?」マリが聞く。
「お母さんはその写真を見て言いました。『わたしたちはみんなこの学校に通っていたのよ』と」
「……」
「私は『二人ともいたの?』と聞きました。お母さんは『ええ、そうよ』と答えてくれました」
「……」
「それだけです」
マリとみくは顔を見合わせた。
「一応言っておくけど、わたしが通う学校はN女学院っていうのよ?」マリが口を開く。
「はい、知っています」ユメはうなずいた。
「言うまでもないと思うけど、女子校よ?」
「はい」ユメはやはりうなずいた。
「つまりあなたの言う予言はこういうこと? 『わたしたちの通うN女にはユメの父親がいる。つまりひいては男がN女の中にいる』」
「はい」ユメはうなずいた。「これは、なかなか面白い予言だと思いませんか」
マリはそれ以上何も言えなかった。




