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H山天文台はK市の西、標高400メートルほどの山のてっぺんにある天文台である。作られたのは戦前と聞いてマリは少し驚いた。
「といってももう普通の天文台としては使ってないんだ」
マリを案内しながら吉田は言った。
「K市の近くじゃ明るすぎる」
「そうなの? 十分暗いと思いうけど」マリはここに来るまでの山道を思い出しながら答えた。
「そりゃ人の目で星を見るのなら十分暗いさ。でも物理屋が見たいのはもっとかすかな信号だから。ほらハワイとかアタカマとか、とにかく大きな望遠鏡は辺鄙な場所にあるだろう? 知らないかい?」
「聞いたことくらいなら……それならこの施設は今何に使っているの?」
マリは通りすぎる研究室の中を一瞥しながら尋ねた。あけ放たれた扉のそばに置かれた机の上で、デスクトップPCがうなりをあげて計算をしており、その上におかれた水着の美少女のフィギュアが笑顔でカタカタと揺れていた。奥のソファーの上にはぐったりと倒れた学生の姿があった。
「……結構人はいるみたいだけど」
「普通の天文台以外の使い方をしてる研究室があるんだよ」
「へえ」マリはあいまいな相槌を打つ。世の中に普通の天文台と普通じゃない天文台があるというのはマリにとって新鮮な発見だったが、正直どうでもよかった。
「でも、母さんはいつの間に転勤したの? 前は市内のキャンパスにいたわよね?」
「いや、転勤したわけじゃないよ。川村さんも僕も呼ばれてきてるだけだ。川村さんの研究室は今もあっちにある。最近ちょっと事件があってね」
「事件?」マリは首を傾げた。
事件だとなんで母が呼ばれるのだろう。事件があって呼ばれるのは警察と救急じゃないだろうか、ふつう。
「いや事件ではないな、発見というか事故というか、なんというか……ほらここだよ」
吉田は二つ階段を上った先の、廊下の一番奥の部屋の前で足を止めた。
「本当はゲストルームなんだけど最近はずっと川村さんが使っている」
吉田は言いながら扉をノックした。返事はなかったが気にせず扉を開けた。
部屋の電気はついていた。
部屋の中は簡素なものだった。スチールの本棚とホワイトボードが一つずつ、壁際に置かれていた。本棚にはまばらに本が入っているだけで、ほとんど空だった。ホワイトボードには汚い字で何か書かれているが、マリには読めなかった。それ以外には壁に向かって机が三つほど置かれていて、その一つ上に電源の入ったノートPCが一台放置してあった。PCの横にはプリントアウトされた書類がいくつか散らばっており、足元には黒いビジネスバックが机に立てかけるようにして置いてあった。使われているのはその机だけのようだ。
「川村さん、いないみたいだね」吉田がつぶやく。
確かに麻衣子の姿は見当たらなかった。
「でもそんなに遠くにも行ってないんじゃない?」
マリは机の上を見ながら言った。
部屋の電気はつけっぱなしだったし、机の上のノートPCのディスプレイには開きっぱなしのメーラーが映っていた。長く部屋を空けるならロックくらいはしていくだろう。
「確かに……それにあの子もいないな」
「あの子?」予想外の言葉にマリが首をひねる。
「少しあたりを探してくるよ。マリ君はここで待っていてくれ」
吉田はマリの疑問に答えるより先に部屋を出て行った。
一瞬そのあとを追いかけるべきかと思ったが、すぐに思い直した。建物の構造も何もわかっていないマリが一緒に行っても役にも立たないだろう。
マリは誰も使っていない椅子に腰を下ろし、部屋で待つことにした。
時間を確認すると、時刻はちょうど午後九時になったところだった。
母の用事が何なのかはいまだによくわからないが、移動時間を考えると今日中に家に戻れるか微妙なところだ。マリは大きなため息をついた。一体わたしはなにをしているのだろう。
その女の子が現れたのは、それからすぐのことだった。




