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なんのまえぶれもなく部屋の扉が開いたとき、マリはてっきり吉田か母が戻ってきたのだと思った。だから、思ったより早かったなと思いながらドアのところに目線を移し、それを見て少し驚いた。
扉のそばにはとても目立つ、女の子が一人立っていた。
その女の子は涼しそうなワンピースの上にごく薄いジャケットを羽織り、足元に派手な色のサンダルをはいていた。今は夏だが、部屋の中は冷房が効いており、そのかっこうでは肌寒そうだ。それはそれで確かに特徴的な格好だったけれど、マリが目立つと思ったのは服装のことではなかった。
女の子の髪はとてもユニークな色をしていた。
水色だった。
女の子のショートカットは春の空みたいな淡い水色をしていた。
こんな色をしているのはパンクロッカーか硫酸銅水くらいである。
一応言っておくが、川村麻衣子はこんなアバンギャルドな格好をした女ではない。
彼女は40過ぎの細身で地味な女である。
そもそもその子はとても小さい。たぶん小学校中学年くらいじゃないかとマリは思う。
この子は誰なんだろう。
戸惑うマリの様子を気に留める様子もなく、女の子は落ち着いた態度で一度外に出て自分が入った部屋を確認し、それから戻りマリに尋ねた。
「どちら様ですか?」
見た目よりもかなり大人びた声だった。
頭の中で様々な疑問が渦を巻く。けれどマリはそれを抑え込み、静かに声で答えた。
「わたしはマリよ、川村マリ――あなたは?」
女の子はマリの問いにすぐに答えず、「川村マリ……」と、その言葉を確かめるように何度か口の中でつぶやいた。
「川村麻衣子教授の娘の?」女の子が問う。
「ええ、わたしのこと知ってるの?」
「知っています」女の子はじっとマリを見つめながら答えた。
なんで、とはマリは聞かなかった。
ここがどこかを考えれば女の子が母のことを知っているのは間違いない。この部屋は今は母の居室なのだ。その部屋に尋ねてきたということはこの子は母に会いに来たということだ。母の知り合いなら、その娘のことを知っていることもそれほどおかしな話ではない。
けれどどうしてこの女の子と母が知り合いなのだろうか。マリは訝しんだ。
一番ありえそうなのは母の同僚の娘という線だが、そうだとしてもこんな時間にこんな小さな娘を研究所に連れてくる理由がわからない。理由は分からないが、それを言ったら自分がここにいる理由もまりにはわからないのだから、お相子と言えないこともない。
マリはもう一度女の子に目をやった。
女の子はまだじっとマリのことを見つめていた。
「なによ」マリはかすかに居心地悪さを感じて身じろきした。
「いいえ、別に大したことじゃありません」女の子は視線を動かさずに続けた。「ただ、思っていたより普通だなと思っただけです」
マリはほんの少しイラッとしたが、大人の余裕で抑え込んだ。
これくらいの小さな子供はみなこれくらい生意気なのだ。いちいち動揺しては格好がつかない。マリは努めて事務的な対応を心掛ける。
「川村教授に用事なら見ての通りいないわ」
「はい」女の子は動かない。
「用事があったんじゃないの?」
「そうですけど、もうなくなりました」
それはいったいどういうことだろう。マリには少女の言っている意味が分からなかった。
「私はここで待つことにします」少女は宣言し、空いていた椅子に腰を下ろした。
「そう、それは別に構わないというか、わたしが文句を言う立場にあるわけじゃないってのはわかってるんだけどね」
「はい」
マリは振り返った。
「なんでわざわざわたしの後ろに椅子を動かして座った」
女の子は空いていた椅子をわざわざマリの真後ろまで動かして座っていた。
「お話をしたいと思いまして」
「あんた普段どんな風に人と会話してんのよ……」
「それじゃあそっちに行ってもいいですか?」
女の子の瞳がマリを見据える。
「別に構わないわ。こっち来なさい」
女の子は無言で笑みを浮かべて移動した。
マリの正面、膝と膝が触れ合おうほどの距離だった。初対面の距離じゃない、と思ったが自分からこっちに来いと言った手前、マリの方から離れろとは言い難い。
「……」
マリが何も言えずにいると、女の子はふっと、鼻で笑い、少しだけ距離を離した。
なんだろう。別に勝負でも何でもないのに、マリは何かに負けたような気分になった。
というか一体なんなんだろう、この子は。
いや、確かに二人で部屋にいて何の会話もないというのは変だし、話すこと自体は別にマリは構わないのだ。でもちょっと馴れ馴れし過ぎるんじゃないかとマリは思う。まるでよく知っている友人のような気安さである。
それとも忘れているだけで、実は本当にどこかで会ったことがあるとか?
「なんですか?」
マリの視線に気が付いた女の子が首を傾げた。
それと同時に水色の髪がゆらりと揺れる。
(それはないわー)
それを見て、マリは自分の思い付きを打ち消した。
こんな目立つ子忘れようがない。
じゃあこの子は一体なんなのだろうか。
「……そんな熱っぽい目で見て、もしかしてロボコンなのですか?」
女の子は心なしかマリから距離を置き尋ねた。
「ロボコン?」マリは工業専門学校の生徒などではない。
「ほら小さな女の子が好きな……」
ロリコンだった。
マリが教えると、そうそれです、とユメはうなずき続けた。
「で、ロリコンなのですか?」
「ひどい言いがかりだわ」
「でもすぐにロリコンって言葉が出てきた……」
「それくらい常識でしょ!」マリはいきり立った。ユメはわざとらしく後ずさりした。
「すみません、あんまり近寄らないでください。ロリコンが移ります」
「小学生かなんかなの!?」マリは思わず声を荒げた。
「小学生ですけど」
「やっぱりそうなんだ……ってなんでそんな『失敗した!』みたいな顔してるのよ?」
「いえ、やっぱり中学生です」
「もう手遅れでしょ……今更なんで嘘なんてつくのよ?」
「だって、ロリコンは小学3年生が一番好きなのでしょう?」
「知らないわよ。そんなの……」
「中学生は年増だそうです」
「あんたは絶対に耳年増でしょうねぇ!」
「あまりひどいことを言うと名誉棄損で訴えますよ?」
「わたしの名誉はこの十分でボロボロよ……」
女の子はきょとんとした顔でマリを見た。ぜったいわかってる、と思ったがマリは持てる限りの自制心をかき集めぐっとこらえる。完全に相手のペースに乗せられている。
「で」
「で?」
マリは気持ちを切り替え、ざっくばらんに女の子に尋ねた。
「あなた名前はなんて言うの?」
「ユメです」
「苗字は?」
「川村です」
「同じ苗字ね。そんなに珍しい苗字ではないけれど、なかなかの偶然だわ」
「いいえ、偶然ではありません」
マリは目を上げた。女の子の黒い瞳が強い力を込めてマリを見ていた。
「どういうこと?」マリが問う。
女の子は――川村ユメは今までと変わらない、落ち着いた声で淡々と告げた。
「なぜなら、私はあなたの娘だからです」
「へえ、娘……確かにそれなら苗字が同じでもうなずけるわ」
マリはさらりと聞き流した。
……いや、そんな流していいのか。今なんかすごいことを言ったぞ、この子。
マリにもそれは分かった。けれどそのすごさに頭がまだついていかない。まるで何ギガバイトもある画像ファイルをちょっとずつ読み込んでいるPCのような気分だ。いやPCの気分なんてもちろんマリは知らないけど、というか単なる比喩だし、というか娘…娘?
マリは言葉を失った。あたりに沈黙が舞い降りかける。慌ててマリは口を開いた。
「……えっと、ちょっと待って、娘ってあなたが?」
「はい」
「わたしの?」
「そうです」ユメは表情を変えずにうなずいた。
マリは、困惑した。
「信じてないようですね」見透かしたようにユメが言う。
「だって、そりゃそうでしょ? わたしの子供なんているはずないもの」
マリは普通の女子中学生である。もちろん中学生で子供を作る女子がいないわけではないことはマリも知っているし、そのことを否定するつもりもない(決して推奨するつもりもない、というかやらない方が絶対にいいと思う)が、少なくともマリはまだそういうことをしたいとは思わなかった。そもそもマリは男子と付き合ったことすらない。
だからこんな娘なんているはずはない。
「いえ、現在のお母さんが処女かどうかは関係ありません」
マリの反論に、ユメはこゆるぎすらせず答えた。
「だったらどういうことよ? もしかして何かの比喩とかなの?」
「いいえ、比喩ではありません。私はあなたが、川村マリが生んだ子供です」
「意味が分からない」マリが首を横に振る。
「ですが、私は今のあなたが生んだ娘ではありません」
「どういう意味よ?」
「私を生んだとき、川村マリは26歳だったそうです」
「ますます意味が分からないわ。わたしまだ中学生なのよ」マリが冷たく告げる。
「つまりお母さんは通算10回ほど留年している……」
「してないわよ! 10回も留年するってわたしどんだけ馬鹿なのよ!」
「知っています」
「知ってるなら言わないでよ……」
「お母さんがそれくらい馬鹿なことくらい十分承知しています」
「そっち!? 留年なんかしてないわよ! わたしはまだ15よ!」
「それも知っています」
「じゃあなんでそんなこと言った!?」
「場が和むかと思って」
「からかってるんでしょ! わたしのことからってるんでしょ!? ねえ!?」
「いいえ」
ユメはまっすぐな瞳でマリを見ていた。
「私はからかってなんていません」
「……」
嘘を言っているようには見えなかった。
マリは一度深く息を吸い、頭を切り替える。
この子は今なんて言っていた?
自分は川村マリが26歳の時に生んだ子供だと言っていた。
それがもしも正しいならどういうことだ。
マリが26歳になるのは今から10年後のことだ。
ということはつまり――
「つまり、私は今から10年後のあなたが生んだ娘だということです」
「あのねえ、なんでそんな子供が今わたしの目の前にいるのよ」
「それはその子供が未来から過去にやってきたからです」
ユメは表情一つ変えず、そう言った。
「ありていに言えば、タイムトラベラーというやつです」
今度こそ沈黙が部屋を支配する。
PCのファンの唸るような音が微かに自己主張するのが聞こえる。
「初めまして、お母さん」
大人っぽい、落ち着きのある声だった。
そしてその声は、よく聞くと確かに自分の声と似ているなとマリは思った。




