77.どこまでも通用しない当たり前
相変わらずの王太子は、言いたいことだけ伝えると魔塔を去っていった。
その身勝手さに憤ったフライアがしばらく王太子の悪口を言い続けたが、カシアもその気持ちはよく分かったから、宥めて止める気にはならなかった。
こんなことだから、この部屋で毎度不敬な奴らだと笑っている王太子の意識を、カシアは訂正することなく、無反応で通すのである。
「アレク。説明足りない。皆、誤解する」
フライアから怒りが抜けたのは、クロイがそう言ったときだった。
おそらくカシアと同じように、クロイがそれを言うのかと思ったことであろう。
クロイの言葉にどう反応すべきか、カシアが決められずにいれば、カシアの上官までもが不敬なことを言い出した。
「あの方は誤解されていたらよろしいのですよ、クロイ」
「アレク、よろしいのか?」
「えぇ、そうです、よろしいのです。殿下ご自身がそれでよしとされておりますから、いつまでも詳しい説明をして行かれないのですよ。ですから私たちはそのご期待に応えて、おおいなる誤解をしておけばよろしいというわけです」
クロイはイースの説明に納得していない様子で首を傾げた。
それはもちろんイースの膝の上に座った状態でだ。
ここでようやく、フライア・エリスロースはこの異常事態を認めたらしい。
「フォッシル魔術師副団長よ。何故貴殿はこの状態を認めているのだ?」
「いいえ、認めてはおりませんよ。ですからお願いしてもよろしいでしょうか、エリスロース第三騎士団長」
「まさか貴殿は私が動くときをただ待っていたのか?」
「そうではなく。私が言ったところで、どうにもなりませんでしたので、エリスロース第三騎士団長に是非にとお願いしたく」
「この男を制することが出来る者など、貴殿より他にあるまいて」
「それは私を買い被り過ぎですよ。元々うちの上官は、凡人である私などに制御出来る方ではありません。ですがエリスロース第三騎士団長であれば、淑女教育という形で正しく二人の状態を導いてくださるかと思いまして」
「つまり貴殿は、この面倒な男から私一人が恨まれろと言いたいわけだな?」
カシアは笑ってやり過ごそうとしたが、フライアからはぎろりと睨まれてしまった。
それでも動いてくれるところは、フライア・エリスロースの好ましい部分である。
「厄介者も帰ったところだ。クロイ、今日はこの私と淑女について学ぶとしないか?」
「しゅくじょ!フライア、教えて!」
「うむ。まず淑女はそのように殿方の膝に〇△□〇△□──貴様っ!アバラン!何をする!」
途中でフライアの声が聴いたことのない音に変わった。
それは言葉としては絶対に聞き取れない音だった。
原因はカシアにも分かり切っている。
「そのように大きな声を出して。どうされましたか、エリスロース嬢?」
「白々しい。貴様がその気なら、今日こそ決闘を申し込もうではないか。その腐った根性を徹底的に叩き直してやる!紳士たるものに必要な精神も思い出させてやろう!外に出ようぞ、アバラン!」
「丁重にお断りいたします。それにあなたも淑女であるというならば、そう易々と決闘を申し込むものではないでしょう?淑女は戦闘時に第一に言葉を使うはずですよ」
イース団長が至極真面なことを言い出した──。
カシアは愕然としながら、二人の会話の続きを待っていたけれど。
イースはフライアを見ずに、クロイの耳元で囁いた。
「クロイ。淑女の件は、エリスロース嬢から学ぶ必要はありません。私が教えて差し上げますね」
「「は?」」
フライアとカシアの声が重なった。
クロイが首を捻って、「しゅくじょ、イースも知るか?」と問いかけているが。
「何故そのような話になる!おかしいだろうが、アバラン!」
「さすがに無理がありますよ、イース団長」
「何がおかしくて、無理なのでしょうか?淑女の何たるかは、私も貴族として、幼少期に学びましたよ?」
真面な貴族のような顔をした上官にそう言われたとき、カシアは心がざわざわとして落ち着かない気分になっていた。
フライアも同じ気持ちだったのか、自身の心を落ち着かせるように、制服の上着越しにその腕を擦っている。
「確かに私も紳士たるものに必要な知識は得たが。淑女について教えるとなれば、淑女自身がそうすべきであろう?」
「そんな決まりはありませんでしょう。エリスロース嬢も、マナーの講師は同性だったのではありませんか?その方から異性である紳士について学ばれたのでしょう?」
「異性について学んだと言っても、実践するわけではなく、知識を得たという程度のことだろう?そこは同性同士、実践経験も経ている淑女たるこの私が、淑女たるものについてクロイに教えることこそが、世の道理というものではないか。貴殿もそうだと思わないか、フォッシル魔術師副団長よ?」
実戦経験と聞こえたのは何故だろうか。
カシアは深く追求しないことにして、フライアに同意を示そうとしたところに、クロイの声が先に聴こえた。
「道理!大事!」
「そうだろう、クロイ。私から学ぶな?」
クロイが頷いてこの話は終わるかと思われたところで──。
「それは良かった。実は今日は淑女を学ぶためにいいものを持って来ていてな」
いつでも剣を振えるようにか、普段何も持たず身軽にいるフライア・エリスロースが、珍しく背中に荷物を背負い現れたなとは思っていたカシアだったが。
フライアは躊躇なく袋から中身を取り出し、テーブルの上に積んで見せた。
「初級編はこれだな。次にこの2冊まで学べば完璧だ。こっちは質疑応答形式になっていて応用を学べる本だ。これには私も助けられてな。令嬢方の会話を理解するのは難儀な課題であったよ」
あぁ……カシアは思わずクロイを凝視する。
クロイは目を細め、じーっと本の表紙を見詰めていた。
その背後でひんやりとした空気を纏い始めたイースのことは、カシアは視界に入れない。
「ん?どうした?クロイは本が嫌いか?」
貴族にも、本嫌いな子どもは多い。
幼い子どもが難しい勉強なんてしたくないと思うことはよくあることだ。
クロイは首を振った。
「字、読めない」
フライア・エリスロースが固まった。
フライアにとってはこれは想定外の答えだったに違いない。
読んでくださいまして、ありがとうございます♡




