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『今宵もRed Light Barで何かが起こる』  作者: 西崎小春


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第1話 Noセクシーの夜

月見橋交差点は、陽が落ちると別のかおを見せる。

 昼間、そこにあるのはただの生活だ。スーパーの袋を提げた主婦や、イヤホンで世界を遮断した学生たちが、無機質な信号に従って淡々と流れていく。

 だが夜の帳が下りると、空気の粒子が湿り気を帯び始める。

 駅の方から漂ってくるのは、安っぽいアルコールとネオンの残響。ここは繁華街ではないが、どこか五反田の、泥臭くて淫らな体温が混じっている。

 その交差点から、逃げるように一本入った細い路地。そこに、血のような、あるいは救いのような赤いランプをひとつだけ灯す店がある。  ――Red Light Bar。

 看板は小さく、主張を忘れたかのように佇んでいる。知らなければ通り過ぎ、知っていれば、磁石に吸い寄せられるようにドアを開けてしまう。そんな店だ。

その夜、店内に満ちていたのは重たい男たちの気配だった。

 コの字型のカウンターの内側で、一点の曇りもないグラスを黙々と拭いているのが、店主のタケさん。右奥の特等席には、燻し銀の髪が照明に映える神谷――通称“神様”。左端には、トレンチコートの襟を立て、時代遅れのハードボイルドを気取った犬塚――通称“工藤ちゃん”が陣取っている。

 タケさんは手を止め、店の空気を一撫でするように見渡すと、深い溜息とともに呟いた。

「今日はNoセクシーか……」

 神様が、琥珀色の液体を揺らしながら口元を緩める。

「残念だな」

「神様まで、そんな他人事みたいに」

「神様はやめてくれ。本当は『コウちゃん』と呼んでほしいんだがね」

「無理だな」

「……無理ね」

 重厚なドアが開き、涼やかな、けれど断定的な声が滑り込んできた。

 マユ姐だ。

 彼女が入ってきた瞬間、淀んでいた店の空気が一変する。長いコートを脱ぎ捨て、我が物顔でカウンターへ向かう姿は、まるで舞台の主役のようだ。

「『コウちゃん』なんて、誰が呼ぶのよ。六十二の男を」

「本人が切望しているんだが」

 神様が真顔で返す。

「却下」

 マユ姐は一秒で切り捨て、入り口に近い定位置に腰を下ろした。 「タケさん、ハイボール。濃いめで」

「いつも濃いだろ」

「今日は人生が薄いのよ」

「意味がわからん」

  苦笑いするタケさんの背後で、再びドアが開く。

「バックシティ~~♪ バックシティ~~♪」

 鼻歌というには声量のありすぎる歌声と共に、工藤ちゃんが、今日もドラマのワンシーンのような決め顔で入ってきた。

「……今夜も、事件の匂いがするな」

「しない」とマユ姐。

「全然しない」とタケさん。

「まず歌が違う」と神様。

 工藤ちゃんは心外そうに眉をひそめる。

「何が違うというんだ」

 三人は黙って視線を交わした。この店には、あえて教えないという優しさがある。放置される居心地の良さを、工藤ちゃん自身も楽しんでいる節があった。

さらに十分ほどして、冷たい夜気を連れてもう一人の主役が現れた。

「ただいまー、ダンディーたち」

 弾けるような声の主はミルクちゃんだ。細いマフラーを鮮やかに解き、一気に店に華やかな色彩を添える。

「ミルク、遅かったな」

「仕事よ、仕事。あたしだって稼がなきゃ生きていけないの。……あら、今日はNoセクシー? 何このむさ苦しい空気。加齢臭で酔いそう」

「ミルクはミルクだろ」

「失礼ね、あたしは唯一無二のミルクよ。セクシーでもダンディーでもない、特等席のミルク」

 そう言って悪戯っぽく笑い、彼女は神様の隣に滑り込んだ。  

これで、いつものパズルが完成した。

だが、その安堵を破るように、招かれざる「違和感」が迷い込んできたのは、その直後だった。

 紺色のスーツに身を包んだ、三十代半ばの男。ネクタイは生命力を失ったように緩み、その肩には目に見えないほどの重圧が伸しかかっているように見えた。

 男はドアの前で立ち尽くし、迷い仔のように店内を伺う。

 タケさんの声が、低いテノールで彼を迎え入れた。

「いらっしゃい、ダンディー。空いてるよ」

 男は小さく会釈し、カウンターの中央に、逃げ込むように腰掛けた。

「……初めて?」

「……はい」

「じゃあ、最初の一杯は俺に任せてくれるか。何飲む?」

「なんでも」

「一番難しいオーダーだ。……よし、ハイボールでいいか」

 タケさんが氷を操る。硬質な音が静まり返った店内に響き、空気を整えていく。

「まずは一口。落ち着け」

「……ありがとうございます」

 男が喉を鳴らすのを、店内の面々は静かに見守った。誰も急かさない。この店において、沈黙は酒の肴のひとつだ。

 やがて、男がぽつりと独白を始めた。

「実は……今日、彼女に振られまして」

 工藤ちゃんが、待ってましたとばかりに身を乗り出す。

「ほう、恋愛案件か」

「事件じゃないわよ」

 マユ姐が釘を刺すが、工藤ちゃんは止まらない。

「いや、恋愛こそは人生における最上級の難事件だ。しかも人間関係の中では最上級の難事件だぞ」

「お前が一番、解けてないだろ」

 タケさんのツッコミに、店内に小さな笑いがさざ波のように広がる。男の強張っていた頬が、ほんの少しだけ緩んだ。

「別れ話をされて……理由にも納得はいってるんです。でも、どうしても消化できなくて」

「理由は?」

 ミルクちゃんが、まっすぐに男を見つめた。

「“優しすぎて、つまらない”……って」

 一瞬、グラスの触れ合う音さえ消えた。

 沈黙を切り裂いたのは、やはりマユ姐だった。

「それ、絶対に優しくなんかないわよ」

「断定が早いな、おい」

「だってそうでしょ。優しい男がつまらないなんて、そんな都合のいい言い訳、女が本気で使うわけないじゃない。何かあるのよ」 「決めつけるなって。男には男の事情がある」

「タケさんは甘いのよ! それは優しさじゃなくて、ただの逃げ!」

 始まった。マユ姐とタケさんの、いつもの応酬だ。

 工藤ちゃんがニヤつき、ミルクちゃんが呆れ顔で肩をすくめる。神様だけは、その騒がしさをBGMに、静かに酒を楽しんでいる。  呆気に取られている男に、マユ姐が畳みかけた。

「ねえダンディー、あなたデートの時、どうしてた? 会話は?」 「え……映画とか、食事とか。会話も、彼女の行きたいところに合わせて、いろいろ……」

「出たわね、『いろいろ』! それは男の防波堤よ。説明した気になってるだけ」

「攻めすぎだろ、マユ姐」

「タケさんはどっちの味方なのよ!」

「俺はハイボールの味方だ」

店内の喧騒を遮るように、ミルクちゃんが低く、けれど通る声で手を挙げた。

「はいはい、夫婦喧嘩はそこまで」

「夫婦じゃない!」

 二人の息の合った拒絶に、ミルクちゃんが苦笑する。

「……ダンディー。あんた、彼女が困ってる時には、きっと王子様みたいに助けてあげてたんでしょ?」

「……そのつもりでした」

「でもね、“困る前の顔”を見てた?」

 男が、弾かれたように顔を上げた。

「女ってね、助けてほしいんじゃなくて、“気づいてほしい”時があるの。大丈夫じゃないのに、元気なふりをしてる。その小さな亀裂に気づかないまま『優しい言葉』をかけられるのが、一番孤独なのよ」

その言葉は、カウンターを滑るように男の胸に届いた。

 工藤ちゃんが、珍しく神妙な面持ちで呟く。

「……なるほど。予告なしの、心の未遂事件か」

「黙れ工藤ちゃん」

 全員の声が揃った。

 そこへ、神様が、澱みのない一言を落とす。

「寂しかったんだろうな、彼女も」

 その一言で、魔法が解けるように店の空気が凪いだ。

「……寂しかった」

 男は自分の言葉をなぞるように繰り返した。

「そうかもしれません。彼女、よく『平気だよ』って笑ってました。僕は、その笑顔だけを信じていた……。それが彼女を追い詰めていたんですね」

タケさんは新しい氷をグラスに落とし、落ち着いたトーンで告げた。

「で、ダンディー。お前さんは、まだ彼女が好きなのか」

 男は、迷わずに頷いた。

「……はい」

「なら、やるべきことは一つだろ。謝罪でも言い訳でもない」  タケさんは、新しく作ったグラスを男の前に差し出した。

「『気づけなくて悪かった』と、自分の情けなさを認めて、会いに行く。それだけだ」

「……行って、いいんでしょうか」

「拒絶するかどうかは彼女が決めることだ。だが、自分の想いにケリをつけるのは、お前の仕事だ」

「そうね」

 マユ姐が、少しだけ声を和らげて付け加えた。

「会わずに終わるのは、最高にダサいわよ」

「珍しく、マユ姐と同意見だ」

「あら、私はいつだって正論しか言わないわよ。……経験上ね」  再び、柔らかな笑いが店を包んだ。

その時、ドアが開き、凛としたコート姿の女性が顔を覗かせた。  途端に、カウンターの男たちの背筋が伸びる。

「いらっしゃい、セクシー!」

「いい店ですよ!」

「落ち着きますよ!」

「……あんたたち、さっきの教訓はどこへ行ったのよ」

 マユ姐の呆れ声に、女性客は楽しそうにくすくすと笑った。 「楽しそうなお店ですね。少し、お邪魔してもいいですか?」 「もちろんだ」

 タケさんが微笑む。

その光景を見ていた男は、不思議な感覚に包まれていた。

 自分の悩みなど、この騒がしい大人たちの前では、ほんの些細な出来事に思えてくる。

 主役にならせてくれない。けれど、独りぼっちにもさせない。  このバーは、重すぎる荷物を一度降ろして、深呼吸をさせるための場所なのだ。

 男はハイボールを飲み干し、すっきりと立ち上がった。

「ありがとうございました。……行ってきます」

「ええ。ダメだったら、またここで愚痴りなさい」

 ミルクちゃんの言葉に、今度は男も力強く頷いた。

 ドアの前で一度振り向き、深々と頭を下げる。

「また、来てもいいですか」

「もちろんだ。……次は『ハッピーな事件』の報告を待ってるよ、ダンディー」

ドアが閉まり、カランというベルの音が余韻を残す。

 タケさんは再びグラスを拭き始め、独り言のように呟いた。 「……今日は、もうNoセクシーとは言わせないぞ」

「まだ言ってるの、このエロ親父」

「親父とは失礼な。紳士と言ってくれ」

「事件の……」

「しない!」  

 月見橋の夜は、まだ始まったばかりだ。赤いランプの下では、今宵も誰かの人生が、静かに、けれど確かに動き出している。


――この店の夜は、まだ終わらない。

(続きは22時)


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