桑原優人②
会社に泊まる選択肢もあったが、少しでも心安まる場所にいたいと帰巣本能が働いたのだろう、体は無意識のうちに最寄り駅へ向かっていた。
「今から帰ったら二時間は眠れるかな……」
自分の独り言が異常なことにも気づけないほど疲弊し、思考力は失われていた。
視界はぼやけ目眩もする。真っ直ぐ歩けているかもわからない。ただ、何も考えずに駅の方へと道なりに歩いている。気づくと普段は通らない路地裏を歩いていた。
「まぁいっか、このまま行けば駅まで着きそうだし」
引き返すのは面倒臭いと脳が拒絶しているので、見知らぬ路地裏をそのまま進む。
どことなくじめじめと湿った空気に、街の明かりも届かない不気味な空間。今にも人類の天敵ゴキブリが飛び出してきそうで、普通なら絶対に歩くことはない場所だ。
狭い道を進み角を曲がった所で、ゴミを漁っている人がいた。
(酔っ払いか路上生活者かな?)
横を通り過ぎようとした時、ぼんやりとした視界の隅に何かの肉片らしきモノが見えた気がした。ソレをくちゃくちゃと食べる咀嚼音。普段なら「気持ち悪い」と感じただろうが、今はどうでもいい。
気にする余裕もなく通り過ぎると、その者は咀嚼を止めこっちに近づいてきた。足音がすぐ後ろからついてくる。
そして、スンスンと鼻を鳴らし始めた。まるで品定めをするように、右肩、左肩、左首筋の順で匂いを嗅いでいるようだ。
そこまでされても、今の俺は相手にする気力もないし、全てが面倒だ。
やがて無反応な俺に飽きたのか、背後の人物はいなくなっていた……。
帰宅すると時刻は午前1時を過ぎていた。
リビングの明かりがついたままだ。
テーブルの上に書き置きがあり、ソファで眠る母の姿があった。どうやら俺の帰りを待ってくれていたらしい。
「母さん、こんな所で寝てたら風邪引くよ」
「……あぁ、優人……お帰り。今日も遅かったわね。」
「仕事が忙しくてね」
「若いからってあまり無理しちゃだめよ。最近のあんた見てると心配だわ」
「心配かけてごめん。大丈夫だよ」
母に心配かけまいと、笑顔で返す……上手く笑顔が作れているだろうか。
うちは母子家庭だった。父は仕事ばかりしていてその無理がたたり、俺が小さい頃にぽっくり逝った。心配するのも当然だ。
「晩御飯は?」
「そういえば食べてないや」
「こんな時間だけど、少しは食べておきなさい」
そう言って具沢山の味噌汁を用意してくれた。消化にいいように具は細かくしてある。
「お風呂も追い焚きしておくから、食べたら入るんだよ」
「うん」
「お母さん、もう寝るからね。おやすみ」
「ありがとう……おやすみ」
リビングに一人残り、母が用意してくれた味噌汁に口をつける。
「…………」
いつもの味なのに味がわからない。
自然と涙がこぼれた……。
風呂から上がり、ベッドに入るが眠れない。体は疲れて睡眠を欲しているはずだが、ただ瞼を閉じているだけの時間が過ぎていく。暗闇の中、頭の中はモヤがかかったまま。何もせず、何も考えられず、じっとしているだけの時間。
気づくと時刻は――
4:44
「だるい……眠い……」
重い体を起こし、洗面所の鏡に映る自分に挨拶する。
「よう、今日も酷い顔だな。ゾンビみたいだぞ……」
――いつもの異常な一日が始まる。
意味もなくテレビをつけて消音にする。
早朝から大きな事件があったようで現場からの生中継らしく、どこか見覚えのあるビル群が映し出された。
「路地裏に性別不明の変死体」「大型の獣に襲われた可能性も!?」「現場付近の外出は控えて」というテロップが流れている。
クマでもいるのかと思ったが、そんな報道があったからといって仕事が休みになるわけでもなく、いつもと同じ時間に家を出る。
昨日の朝と同じく、明里と通勤のタイミングが合わないか期待していたが、会うことはなかった。
ホームで電車を待つ間、線路を見ていると引き込まれそうになる。
「電車に飛び込んだら楽になれるかな……」
自分でも馬鹿なことを考えていると思うが、日に日に頭の中をこの馬鹿な考えが支配していく。
ふと正気に返ると会社の最寄り駅の改札を出ていた。馬鹿な考えを実行しなかった安堵なのか、会社に向かわなければいけない陰鬱な気持ちなのか、深いため息が出た。
会社に向かう途中、救急車のサイレンが鳴り響いていたが、俺には雑音の一つでしかなかった。
会社に到着すると、後輩の山田が昨日と同じように、資料を布団代わりにして寝ている。起こさないように、支店長が出社してくる前の整理整頓を済ませ、昨日やりきれなかった仕事を再開する。
不思議と会社に来ると頭の中のモヤは薄くなり、仕事をすることはできた。
支店長が来るまでの平穏な時間。気の緩みと寝不足がたたり瞼が重くなり、そのまま意識を手放してしまった。
「……原さん、桑原さん。起きてください」
「ん……あぁ朝?もう少しだけ寝させて……」
再び意識を手放そうとしたが激しく体を揺すられ起こされた。
「何寝ぼけてるんですか、もうすぐ支店長が来ますよ」
支店長というキーワードに一気に目が覚める。
「やばい!今何時!?」
「もう12時過ぎてますよ」
「は?」
「は?じゃないですよ。しっかりしてください」
そう言って山田は缶コーヒーを手渡してきた。
「あっ、支店長ならまだですよ。なんか、奥さんの体調が悪いとかで、病院の付き添いで、来るのは13時過ぎになるそうです」
「そうなのか……他の二人は?」
部屋を見渡すと山田しかいない。
「田中は遅刻して来ましたけど体調悪そうでトイレに籠もってますよ。さっきも様子みてきましたけど、あれは今日もだめですね。谷口さんは来てないです。連絡も取れません。」
「俺と山田の二人だけか……仕事にならないな」
「やってらんないですよ。とりあえずコンビニで昼飯買ってきたんで食べます?」
ひと眠りした後で空腹でもないが、午後の激務を考えると、今のうちに栄養補給しておいた方がいいだろう。
「そういえば近所で何かあったんですかね。昼飯買いに行ったコンビニ、午後は休みみたいですよ。朝から救急車も走り回ってるみたいだし」
「コンビニが休みって改装でもするのか?救急車は朝も走ってたな」
「まぁ、社畜のウチらには関係ない話ですけどね」
山田は乾いた笑いを浮かべ、遠い目をしている。
「さてと、五月蝿いのが来る前に少しでも仕事を進めておくか」
「それもそうですね。あ~あ、ウチも休みにならないかなぁ」
睡眠と栄養補給で思いのほか仕事が捗り、気がつけば時計は14時を回っていた。
「田中、まだトイレなのか?」
「あいつなら、もう帰ったんじゃないですか。さっき、呼びに行ったら返事もなかったんで」
「なんだよ、帰るならひと言くらい言っていけよな」
「田中もですけど、支店長も連絡ないですね」
「午後は来るって話だったよな?」
「そうですね……連絡してみます?」
「いや、いい。いると面倒だろ」
「それもそうですね」
結局、支店長が出社してきたのは15時近くだった。
「おはよう諸君、仕事は捗ってるかね」
この時間に来て「おはようもねぇだろ」と心の中だけで返事をする。
「支店長、奥様の体調は大丈夫なんですか?」
山田が支店長の機嫌を窺うように話しかけた。
「病院が朝から大混雑でな、診察までにだいぶ時間がかかった。まったく、あんなに待たせおって」
「朝から大変でしたね」
「そんなことより、谷口と田中はどうした?」
「谷口さんは出社していません。田中は一度出社しましたが、体調不良で仕事にならず帰りました」
「なんだと、谷口はいったい何を考えているんだ!田中には昨日、必ず来るように言っておいたのに、仕事せずに帰るとは、社会人として自覚が足りん!!」
この場にいない二人への叱責を山田へ向け、いつものパワハラが始まろうとしていた。
そこへ、勝手に早退したと思っていた田中がフラフラと部屋へ入ってきた。
「なんだ、田中はいるじゃないか。どこに行ってたんだ。さぼってないで早く仕事に戻れ!」
「…………」
やはり体調が優れないのか、支店長に返事もせず突っ立っている。
「田中、具合悪いのか?」
様子をみかねて声をかけると、うつむいたままだった田中がこちらに顔を向けた。
その顔は青白く、こちらを見てはいるがまるで生気を感じられない。
異様な雰囲気なのにどこかで見たことがある……朝、洗面所の鏡で見た表情だ。
田中は再びフラフラと歩き出したが、床に置いてある段ボール箱に足を引っかけ、手をつくこともなく顔から突っ込むように転倒した。
「お……おい、大丈夫か?」
手を貸そうと山田が声をかける。
「山田、お前は自分の仕事をしていろ!」
自分のデスクを離れ助けようとした山田を支店長が制止する。
「介抱ついでに、そのたるんだ精神を私のありがたい話で叩き直してやる」
そう言うと、支店長は田中の腕を掴み、引っ張り上げるように体を起こし、今は物置と化している応接室に引きずるように連れて行った。
「田中、大丈夫ですかね?」
山田が仕事どころではないのではと話しかけてくる
「ちょっと心配だな……あいつの顔みたか?」
「やばかったですよね。顔面蒼白なんてもんじゃなく、親戚の葬式手伝ったときにみた仏様と同じに見えましたよ」
応接室からはすぐに支店長の恫喝が聞こえてきた。今日は機嫌が悪く長くなりそうだ。




