第十五話 新たな日常②
「うわぁ……」
目の前の光景に、アリスは息を呑んだ。
空閑に案内されて駐屯地の外に出ると、そこには白い砂が敷き詰められた大地と青い水が広大に満たされた世界だった。
「これが……海」
アリスは、白い砂浜に足を踏み入れた。浜辺に打ち付ける波音と潮の香りがする風。波打ち際でかがみ込みこむと、右手を海水に触れる。ひんやりとした水の感触が右手を通して伝わってくる。指先に着いた水滴を、アリスが物珍しそうに見つめる。
——何をしているのだ、アリス。
隣にいるフロルが、アリスに声をかけてきた。
(その……海の水は、塩の味がするものと本に書かれてあったから、気になって……)
——……舐めてみれば分かるのではないか。
フロルに促されて、アリスは恐る恐る海水を口に含んだ。
(うっ、しょっぱい……)
——……気は済んだか、アリス。
(う、うん)
アリスは項垂れながら、右手に付いた海水を払った。
「くっ、あはははっ」
後ろから空閑の笑い声が聞こえて、アリスは振り返った。
「ああっ、すみません。昔、初めて海を見た友人が同じ様な事をしていたので、つい」
空閑は一通り笑った後、アリスの隣に立った。
「どうですか、海を見た感想は?」
「……凄く綺麗です。今まで本の中でしか知りませんでしたけど、海というのは、こんなにも素敵な所なのですね」
アリスは、立ち上がって海を見渡した。太陽に反射した水面がきらきらと輝いている。空には、白い鳥達が鳴き声を上げながら横に並んで飛んでいく。その一つ一つの光景が、アリスの心に焼き付いていった。
アリスは、しばらく海を眺めながら砂浜を散策した後、海岸沿いでくつろいだ。アリスは空閑の上着を下に敷いて座っていた。
「はい、どうぞ」
空閑から金属でできた丸状の筒が渡された。筒の表面には、かたかなの文字で『ロイヤルミルクティー』と書かれていた。上には穴が開いていて、底に液体が見えた。
「それと、フロルにはこれですね」
空閑は四角い物体としぇらふと呼ばれる金属のカップを取り出した。四角い物体の封を開いて傾けると、カップにミルクが注がれた。
空閑がミルクが入ったカップをフロルの前に置くと、直ぐに舌を使って飲み始めた。
王城で過ごしていた頃、フロルには調理場からこっそりと持ち出したミルクをあげた事があった。けれども、今朝方に食堂で出されたミルクが気に入ったようだった。こんなにも喜んでいるフロルを見たのは、アリスにとって初めての事であった。
そんなフロルを見ながら、アリスは渡されたミルクティーを口へ運ぶ。異国の茶の香りとミルクのほど良い甘さの味わいが広がっていく。
(……ここに来てから、本当に驚かされる事ばかり)
暗い森に置き去りにされ、恐怖で何も出来なかったあの日。フロルが自分を探しに来てくれなければ、おそらく自分は生きてはいない。あの時、空閑を助けていなければ、今こうして過ごすことはなかった。
エリシアの思惑で森に捨てられた事について、アリスには深い傷を付けた出来事ではあったが、少なくとも王城に居た時よりも経験しえなかったものを得ていた。
「ところで、昨日の話は考えてくれましたか?」
空閑が唐突に質問をしてきた。
「昨日の話、ですか」
「ええ、アリシェスタさんの今後についてです」
空閑は、少しばかり困った表情になった。
「一度、貴女を家まで送った方がいいんじゃないかなと話がありまして。ほら、流石にアリシェスタさんのご家族の方も心配されているのではないかと思いますし」
家族という言葉に、アリスは口をつぐんだ。
今まで誰一人として、自分の事を見てくれた者などいなかった。生まれつき魔力が無いと分かると、家族だけでなく大臣や貴族達、更には王城で勤める従者や騎士にまで白い目で見られた。
異物として扱われながら雑用の日々を過ごし、戦争の為に政略結婚の道具にさせられる。挙句の果てに、姉によって未開拓地の森の中に捨てられた存在だ。
アリスにとって、ファルシオン王国は既に居場所ではなかった。
「まぁ、言いたくなければ無理には聞きません。話したくなったら、何時でも言って下さい」
アリスが何と答えようと悩んでいると、空閑が先に話しかけてきた。その表情は微笑みに満ちていた。
(クガ様……)
アリスには理解ができなかった。
自分は空閑にとって、敵国にあたる筈の人間だ。それなのに美味しい食事に、快適な寝床まで用意してくれた。それに加えて、自分が暗い所が苦手な事に気遣ってくれた。そして、今こうして海を見せてもらえた。
彼自身がここまでの待遇を受けさせてくれる理由が、アリスには解らなかった。
「あの、クガ様……」
「ん? どうしました」
「クガ様は、どうしてわたしにここまで良くして下さるのですか?」
気づけば、アリスは空閑に尋ねていた。
空閑は顎に手を当て、神妙な顔つきで考え込んだ。しばらく思考した後、口を開いた。
「まぁ、大半は任務の為にですけど、あえて言えばお節介……ですかね」
予想外の答えに、アリスは目を丸くした。
「初めて出会った時からずっと思っていたんですよ。アリシェスタさんって、どこか思い詰めた顔をしていると。きっと、俺や他の人には言えない何か抱えているじゃないかって」
空閑は、海を方向を語り出した。
「俺、今までいろんな人から相談や悩み事を聞いてきたから解るんです。そういった人の表情や悩んでいる時の仕草とか。だから、アリシェスタさんには絶対に恐い事や辛い想いをさせてはいけない。そんな悩みが気にならないぐらいの事を与えてあげくちゃって」
空閑がアリスに振り向き、彼の茶色の瞳と自分の目線が合わさる。
「俺や自衛隊員達の事を今すぐに信頼してくれとは言いません。アリシェスタさんが話してくれるまで、俺も無理強いはせずに待っています。だから、まずは聞かさせて下さい。アリシェスタさんがしたい事、やりたい事を」
「でも……わたしは……」
「昨日の夜に説明したでしょう、”貴女のしたい事に、我々は一切邪魔をしない”って。アリシェスタさんが何をしたくて、何をしたくないかを自由に選んで良いんですから」
空閑の言葉に、アリスは沈黙した。
今まで誰かに命じられるままに生きてきた自分にとって、自ら選択することなど一切なかったのだから。与えられた事のない状況に、アリスはどうしたら良いか分からなくなっていた。
それでも、必死に考えて答えを絞り出した。
「……もう少しだけ、考えさせて下さい」
それが、今のアリスが導き出した精一杯の言葉であった。
「……分かりました」
空閑はそれ以上何も言わず、ただ頷いた。




