月下麗人 -2-
汀の声が聞こえた場所から祗園社までの距離を計算し、最短でたどり着くための演算を繰り返しながら青花は林を歩いていた。まずはここの結界を抜けなければ話にならない。
演算を行いながらも青花はどうして汀にきちんとした説明をしなかったのかを考えていた。
散々考えて、あることを思い出す。
汀は白花に関する話になると何とも言えない表情を浮かべた。ほんの一瞬の事だが、青花はその表情を見るのが嫌だった。理由はわからない。
だから説明しなかったのかもしれない。
印をつけなかったのは、汀は自分の「もの」ではないと改めて思ったからだ。印をつけなくても気配を見失うことなどないと思っていたし、まさか汀から白花に接触するとは思ってもいなかった。
しかし、犬神のありようを考えれば印をつけるべきだった。
犬神は人と犬の皮をかぶることができる。皮をかぶってしまえば犬神の気配は絶えてしまうし、なによりも犬の皮をかぶったときは犬神としての自我すら沈めることができるのだ。
今更何を考えたところでどうなるわけでもない。
青花は演算を終えると夜空を仰ぎ見た。
祗園社の象徴とも言える朱塗りの楼門前では夜だというのに観光客が多い。そんな人々が感嘆の声を上げるのは夜空に浮かぶ月を見たからだろう。
澄んだ夜空に浮かぶ月は冴えた光を地上に振りまいていた。月光は青花が扱う術の手助けとなる。右手をかざし、引き戸を開くかのように動かすと次の場所が見え、青花は何の迷いもなく足を踏み入れる。
同じ動作を何度か繰り返してたどり着いたのは境界の際にある廃屋だった。侵入者を防ぐ為かシャッターが閉ざされているが、左手を押し当てるとシャッターはぐにゃりと溶け、人一人が通れるほどの穴が開いた。
結界は構築されていない。
屋内に入るとようやく汀の気配が伝わってきた。しかし何かがおかしい。神経を逆撫でするような「嫌なもの」が邪魔をしている気がした。
気配をたどり、鉄の扉を蹴倒した青花が目にした光景は赤い鬼火の下で白花に組み敷かれた汀の姿だった。
顔は見えず、投げ出された手足と床に流れる黒髪は動く気配すらない。
白花が振り返るよりも早く青花は駆けると白花の髪を掴み、力任せに振り払う。
「呉崎!」
柔らかいものと固いものがぶつかる鈍い音が何度か聞こえたがどうでもよかった。人間の姿がいつの間にか解けていることもどうでもいい。
青花の呼びかけに血の気の失せた顔を僅かに動かした汀はうっすらと目を開いたが焦点が定まっていない。こんな状態の汀を見るのは初めてだ。
背後には白花の気配があるが、そんなことに関わる時間が惜しい。膝をついて投げ出されたままの汀の腕を掴んだとき、肉が焼けるような音と共に紫の煙が汀の腕を掴む手から上がった。
肉を通して骨が焼けるほどの熱が伝わる。
汀はのろのろと青花が掴んだ腕に視線を向け、驚愕したかのように目を見開くと上体を起こして激しい動きで青花の手を振り払った。
汀に振り払われた手のひらは焼けただれ、紫の煙が上がっている。
青花にとっては焼けた痛みよりも汀が自分の手を振り払った事が信じられなかった。
今まで、汀に手を振り払われることなどなかった。
汀は深くうなだれ、浅い呼吸を繰り返している。
再び手を伸ばしかけた青花に汀は無言で首を振る。言葉はないが、全身で青花の手を拒む汀の様子に手を止めるしかなかった。
「何をされた」
よくわからない息苦しさと共に口をついて出たのはそんな言葉だった。汀は僅かに顔を上げ、何かを呟いたが声になることはなかった。それでも言おうとしている事はわかった。
『帰ってください』
白花が汀を得ておとなしくなるのであれば、汀の言葉に従ってここから立ち去るのが利口だ。背を向けているにも関わらず何の攻撃もしかけてこない白花の様子からもそれが一番の解決策だと思える。
青花は立ち上がると白花に向き直った。人の皮をかぶってはいるが中身は明らかに犬神そのものだということがよくわかる。不思議なことに、以前感じた混沌は払拭されていた。
「……私の助手に何をした」
白花は青花の言葉に口元を歪める。
「おまえの気配がひどいから、消してるだけだ。ここから出て行け。「助手」に免じておまえのことは忘れてやる」
「私の事は忘れずとも構わない。だが、呉崎は返して貰おう」
閉ざされた室内に風が吹いた。髪を揺らす程度だった風は次第に強くなり、白花が下げた右手のあたりで吹き溜まっている。
「嫌だね。汀は俺の傍にいてくれるって約束してくれた」
あざ笑うかのような白花の言葉に青花は動けなくなる。汀が白花と約束を交わした事も、白花が汀を名で呼ぶ事も信じられない。理論立てて考えることができなくなり、混乱がひどくなっていく。
「それにおまえはもう、汀に触れることはできない。触れれば骨まで焼けて落ちるぞ」
白花が何かを言っているが意味を考える気がしない。右手を上げた白花が自分に向かって何かを投げるような仕草をしたが避けずにいると肩から胸のあたりにかけて衝撃を感じ、続いて視界の端に飛散する赤いものが見えた。
鬼火よりも鮮やかな赤いものが自身の血液だと理解するのには時間がかかった。
汀が名を呼んだような気がした。振り返りたいのに動けない。手を伸ばしたいけれど拒絶されるのが嫌だ。一瞬のうちに様々な思いがよぎり、その間も体に何度か衝撃を感じた。
痛みよりも強く感じる、制御できない何かに引きずられつつ振り返ると汀は床に伏していた。乱れた髪に半ば覆われた横顔は青白く、生気が感じられない。今まで様々な表情を見てきた青花には今の汀が別の人間のようにしか思えなかった。
何もできず、立ち尽くしていた青花は汀の閉ざされた瞼から流れていく雫に気づく。
「去れ!」
ひときわ強い白花の声に青花は体ごと振り返る。
どうして汀は泣いているのだろう?
「……断る。呉崎を人間の社会に戻してやらねばならない」
ずっと考えていた事を言葉にすると脳内で混乱していた何かが驚くほどあっさりと消えていく。白花は忌々しげに表情を歪め、右手を振るった。
白い帯のようなものが蛇のように宙をうねり、青花の左胸を裂く。痛みはあるが大した痛みではない。いつかの夜に汀が傷口に立てた指の痛みの方が鮮やかだと思える。
「汀を贄として得たおまえが言う言葉か!」
「呉崎は助手だ。陰陽寮の思惑など知ったことではない」
青花は白花に向かって歩き始めた。
「去れ、犬神。去らねば殺す」
白花が振るう白い帯に身を裂かれながら青花はどうして犬神を殺す気になったのかを考える。いろいろあるのだろうがよくわからない。ただ、今までにないほど不快だということだけがわかった。
「あやかしが神を殺せるのか?」
白花まであと数歩というところで障壁が立ちはだかる。白く発光する障壁に左手を押しつけると火花が弾けるような音がして皮膚が溶けていく。
「殺す」
皮膚が溶けるのも構わずさらに左手を押しつけるが障壁には何の変化もない。神はあやかしの上位に位置する。犬神は人間の望みから生まれたとはいえ神だ。その違いが今ある障壁ということになる。
ならば陰陽寮に預けた預言者の力を使えばいい。青花は右手首につけていた細いひもを食いちぎって陰陽寮の結界から離脱した。
白花が呆然とした表情で青花を見たかと思うと一瞬のうちに白い獣と化す。
「……それはおまえが使って良いものじゃない!」
白い獣は咆哮のかわりにそう叫び、青花の左手は障壁を消した。白花は獣の姿で青花に飛びつき、押し倒すと肩に食らいつく。
「私のものをどう使おうと、私の勝手だ」
白花は肩の肉を食いちぎり、勢いよく首を振って肉片を投げた。鋭い爪が容赦なく青花の体に食い込むが痛いとは思わなかった。祗園祭の朝に、汀が爪を立てた痛みを思い出すだけだ。
「おまえのものじゃない……」
低くうなるように呟いた白花は威嚇するかのように鋭い牙が生えた口を大きく開ける。
「何故、おまえだけ与えられる! 主も、汀も! 何故俺には何もない! おまえと俺の何が違う……何が!」
室内の空気を振るわせる獣のような白花の叫びに青花はため息をついた。そして汀が倒れているはずの方向を目で確認する。
白花が構築したらしい鳥かごのような結界が汀を覆っている。あれなら大丈夫、と判断して青花は白花の赤い目を見た。
「……遅いんだ、おまえは」
淡々とした青花の言葉に反論するように咆哮と絶叫が混ざった音を発した白花が喉笛に食いつき、青花は血を吐いた。言葉を続けようとするが喉に血があふれて言葉が出ない。
「何故……もっと早くに、来なかった。主が、死んだときも、今も……」
血を吐きながらも言い終え、青花は指を鳴らした。
「呉崎を知る前なら、喜んでおまえに殺されてやった」
夜空を裂くかのような激しい音と共に雷が青花と白菊めがけて落ちる。青白い光が室内を満たし、急激に収束した。
喉笛に食いついていた白花は獣の悲鳴を上げると青花から逃れようとした。しかし青花は白花の首を掴み、もう一度指を鳴らす。
破れた天井からは夜空と月が見えた。冴え冴えとした光を地上に振りまく月は求めに応じて生じる落雷に彩られてとても美しい。
何度雷を落とせば白花を殺せるだろうか、と青花は思いつつ指を鳴らし続けた。視線をそらせば落雷の轟音と白花の悲鳴など聞こえないかのように汀が伏せている姿が見える。
汀はもう泣いていないだろうかと思って青花は笑った。
なんのことはない。汀が泣いていたことが許せなかっただけだ。白花が悪いのか自分が悪いのかわからない。それなら自分も白花も消えてしまえばいい。そうすれば汀も自由になれる。
やはり、助手など求めずに陰陽寮を離れていればよかった。
心からそう思って青花はため息をつく。この肉体が崩れる前に白花を「連れて行く」ことはできるだろうか。
突然、風を切る音が聞こえたかと思うとコンクリートの床に矢がつき立った。矢には呪符が刺さっているためか指が動かせない。矢は同じように風を切り、青花と痙攣する白花の周囲を囲むかのように射かけられた。
「……邪魔をするな」
破れた扉の外には弓を構えた友近が立っていた。矢をつがえ、鋭い目つきで室内を見ている。
「やめとけよ青花。京の気が乱れて洒落になんねーぞ」
「知ったことか」
京がどうなろうと青花の知ったことではない。友近を一瞥して青花は体を動かそうとした。動こうとするたびに細い糸のようなものがぎりぎりと体を締め上げていく。
「――神殺しなんて笑い話にもならない愚行はやめておきなさい。六葉、呉崎さんを」
友近の言葉を継ぐようにカンナが姿を現すと室内に入った。カンナの背後から六葉が汀へと駆け寄る。
目だけを動かすと汀に触れようとする六曜の姿が見えた。
「触れるな!」
青花の叫びに手を止めた六葉が振り返る。床に刺さっていた矢が一本、青白い火を上げて燃え出した。
「……僕は彼女を奪ったりしないよ」
ため息をつきつつ六葉は汀を仰向かせると抱き上げる。その様子を目にした青花はもう一度叫ぶ。
「呉崎に触れるな!」
叫びと共に周囲を囲んでいた矢がすべて燃え上がり、体の縛めから解放された青花は立ち上がる。白花は床に落ちたがぴくりとも動かない。
六葉は汀を抱えたまま青花をにらみつけていた。
「今のおまえに彼女は任せられない」
ひどいめまいを感じながらも青花は六葉へ手を伸ばす。しかしカンナが六葉の前に立ちはだかった。
――邪魔をするのなら、焼いてしまえばいい。ふとそんな思いが頭をよぎったとき、風を切って矢が頬を掠めた。
「青花!」
矢が飛んできた方へと振り返ると友近が新しい矢をつがえている。
「おまえ、そんな姿を呉崎に見せるつもりか」
そんな姿と言われて青花は今、自分がどんな姿なのかを確認しようとした。しかしよくわからない。今の姿を見たら汀がどう思うと言うのだろう。
友近は立ち尽くしている青花になおも叫ぶ。
「また呉崎を泣かせるのか? 俺はな、女泣かす野郎は、嫌いなんだよ!」
青花に向けていた矢を天井に向け、友近は矢を射た。破れた天井から夜空へと矢が吸い込まれていく。
「……また?」
友近の言葉の意味が分からず、青花は小さく呟いた。先ほどの汀の涙は自分しか見ていないはずだ。自分の知らないところで泣いていたのかもしれないが、言葉の意味を考えると汀を泣かせたのは青花だと言うことになる。
弓を降ろした友近はため息をついた。
「前に死にかけた事があったろ。あの時呉崎は泣きながら電話してきたんだよ。可愛い助手なんだろ? 泣かせんなよ」
「何故、呉崎が泣く……」
そう呟いたとたん、視界が暗く狭くなり全身から力が抜けた。