月下麗人 -3-
始めに目に入ったのは格天井だった。先ほどまで廃屋にいたはずだと体を起こした青花は薄暗い室内の様子を確認し、今いる場所が祗園社の洋館だと見当をつける。
今が何日で何時なのかはわからないが、どうやら白花を殺すことはできなかったらしい。汀は白花と一緒に行ってしまったのだろうか、と息をついて髪をかきあげた時、右手首にちぎったはずの糸が再び結ばれていることに気づく。
白花を殺すために戻した預言者の力は再び陰陽寮に戻されてしまったようだ。
しばらくベッドに座っていた青花は友近の言葉を思い出す。そんな姿を呉崎に見せるつもりか、という言葉は青花に正気を取り戻させてくれた。
一体、どんな姿だったのだろうと立ち上がり、扉のそばに掛けられている姿見を覗いたが友近の言葉の意味はわからなかった。
誰かが傷の手当てをしてくれたようで単衣から覗く肌のほとんどは包帯で覆われている。しかし頬には植物の根のようなアザが走っており、おそらく首や胸にも続いていると思われた。
紅色の入れ墨のようにも見えるアザは落雷の影響だ。しばらく鏡に映る姿を眺めていたが、扉の外から話し声が聞こえたので部屋を出た。
隣の部屋にいたのはカンナと頼人だった。右手首に糸を結んだのは頼人だろう。
頼人は無言で頭を下げ、カンナはうっすらと笑った。
「正気に戻ったようで何よりだ」
「……迷惑をかけたようだな」
青花の言葉に否定も肯定もせずカンナは言葉を続ける。
「白花は禊に出したよ。見たところ恨みも薄れたようだしね……近いうちに本来の姿を取り戻すはずだ」
「呉崎は」
「彼女は眠っている。もともと体調が優れなかったところに白花が接触したことで、体力がかなり削られているんじゃないかな。当分目覚めないと思うよ」
「……そうか」
汀の腕を掴んだとき、手のひらが焼けた事を思い出した青花は右手を開いた。包帯で覆われている手がどんな状態になっているのかはわからない。じっと手のひらを見る青花に頼人が控えめに声をかけた。
「青花さま、汀ちゃんの体内ではあやかしと神の気配が打ち消しあっている為に体力が削られています。いずれ相殺されて目覚めるとは思いますが、その……」
何かを言いよどんでいる頼人にかわってカンナが言葉を続ける。
「今のままだと目覚めるのは年単位の時間がかかると見ている。陰陽寮で薬を処方してもらったけど、飲ませるのがね、どうしようかと相談していたところなんだ」
頼人の言葉を継いだカンナはにっこりと笑うと薄紙に包まれていた何かを開いてつまみ上げた。薄水色の玉はビー玉程度の大きさで照明の光を反射して美しく輝く。
「玉か」
「そう。人でない者の気配を消すことはできないけど和らげることができる。誰が飲ませてもいいんだけど、私や頼人では異なる気配が入る恐れがあるから、人間の……まぁ、司さんなんて適任かと思うんだけど、どうだろう」
カンナは玉を元通りに包んでテーブルに置くと青花に問いかけた。
どうだろう、などと意見を求められても困る。そう思うならさっさと行動に移せばいいのにと青花は思ったがどうやら顔に出ていたのだろう。カンナが声を上げて笑った。
「何が言いたい」
「確認しておかないと、後が怖い……神を殺してもいいと思ったんだろう? 彼女の為なら」
青花は返事をせず、テーブルの上に置かれた包みに手を伸ばすがカンナが包みを取り上げた。
「私がやろう。呉崎は?」
「……彼女に触れると酷いことになるのはわかって言っているんだね」
カンナは笑みを消し、真顔で青花を見ている。青花はカンナに手を差し出した。
「そんなことぐらいわかっている。玉をよこせ」
カンナは頼人と顔を見合わせ、二人してため息をつくと包みを青花の手に乗せる。
「彼女は右の扉だよ」
包みを手に青花は教えてもらった扉に向かう。もしかしたらあの二人は自分の身を案じていたのかと思ったがよくわからない。どんな傷を負っても時間が経てば元に戻る体だ。そんなことはわかっているだろうに、と思いながら部屋に入った。
室内は青花が目覚めた部屋と同じような薄暗さで、広さも装飾品も同じように思える。
カーテンで覆われた窓のそばにベッドがあり、汀はまるで死人のような眠りについていた。
呼吸も脈も恐ろしく遅い。
ベッドに横たわる汀をぼんやりと眺めていた青花は、やはり白花を殺して自分も死ねば良かったと思った。死ねば気配も消え、汀がこんな目に遭うことはなかった。
それ以前に、汀と顔合わせをした時点で不採用だと伝えればよかった。自分なんかと出会わなければ普通の生活を送っていたはずだ。
心地よい気配を持っていたから、しばらくそばに置いてみるだけのつもりだった。業務の目処が立てば違う部署に移籍させて二度と会わなければいいと簡単に考えていた。
なにもかも間違えていた。取り返しがつかなくなる前に別れなければならない。間違えてしまったものを取り戻すことはできないが、今ならまだ間に合うだろう。
「呉崎」
返事が返ってくるはずがない。ただ、問いかけに答える汀の声を思い出して青花は少しだけ笑った。
汀の頬に触れると紫の煙が上がり、皮膚を焼いていくのがわかる。それでも青花は汀を抱えるとベッドに座った。力なくもたれる汀の体は冷たい。
眠りについている汀は恐ろしく無表情で、いつも淡く上気していた頬は青白く血の気が失せている。その原因は自分が作ったようなものだ。そう思うと得体の知れない苦しさを喉や鳩尾のあたりに感じる。
「――汀」
汀に触れるときはいつだって、汀の了解を得ないままだ。一方的に触れて、汀はどう思っていたのだろうか。できれば逃げてほしかった。
逃げてくれれば追わなかった。
自分から遠ざかることなんて、できるはずがなかった。
かすかに身をよじる汀を抱き寄せ、額に、瞼に口づける。その度に煙が上がるが気にならなかった。
最後に唇を重ねて髪を撫でる。艶やかな髪を梳くと不思議と落ち着くことができた。
玉を包みから取り出して噛み砕くと枕元に置いてある水差しから水を含んで汀に飲ませる。
喉や内蔵が焼けたようだが大したことではなかった。時間が経てば元通りになる。
飲み下せず、唇の端から伝う水を拭ってもう一度汀を抱きしめた。別れを告げようとしたがどうしても言葉が出ない。この期に及んでもまだ、汀と別れる決心がつかないのだと理解して青花は笑った。
神殺しの大罪を犯してもいいと思った。
汀を取り戻したかった。触れられたことが許せなかった。
「すまない」
いつの間にか安らかな寝息を立てはじめた汀をベッドに横たえ、青花は部屋を出る。カンナと頼人はソファに座っていたが、青花の姿を認めて立ち上がった。
「玉は飲ませておいた。目覚めるまではここにおいてもらえるのか」
「もちろん。安心してくれていい」
カンナはいつものような笑みを浮かべている。洋館の主がそう約束してくれるのなら汀は大丈夫だろう。そう判断して青花は頼人の肩を叩く。
「呉崎が目覚めたら、助手を解任すると伝えてくれ。望むなら適性のある部署に席を用意する。陰陽寮を出るならそれ相応のことはするつもりだ。何か不都合があれば相談するように」
「……え?」
呆気にとられた様子の頼人を無視して青花は部屋を出る。頼人が呼び止める声が聞こえていたが立ち止まらなかった。
階段を下り、ほのかな明かりに照らされた廊下を歩いていくとシャンデリアが下がるエントランスに出る。普段は閉ざされている大扉は開かれており、カンナが青花を止めようとしていないことが示されている。
開かれた扉から見えるのは夜空と暗い林、そして階段に座る黒ずくめの男の背中だった。
「……助手はどうした」
煙草の煙を夜空に吐いて、友近がどこか物憂げに尋ねてくる。青花は何も言わず隣を通り過ぎた。
「呉崎が泣いた理由、おまえにはわかんねえだろうな」
その言葉に青花が足を止めると友近はまるで独り言のように呟く。
「苑子が言ってたよ。呉崎がおまえを呼ばなかった気持ちが少しわかるってな。人間嫌いもいいが、助手の事ぐらい気にかけてやれよ」
冷たい風に乗って煙草の香りが漂う。青花は振り返り、友近を見た。階段に座り、煙草をくわえた吸血鬼は夜だというのにサングラスをかけている。
「助手は解任した。もう、私には関わりのない事だ」
友近は煙草を階段に押しつけてもみ消すと、おやまあ、とからかうように呟いて口元を歪めた。
「――逃げんのか?」
何からとは言わないが汀の事だ。友近は笑っているが目は笑っていないようだった。
「否定はしない」
汀の近くにいれば別れることはできない。それなら今のうちに立ち去ろうと思った。言い方を変えれば「逃げる」ということにもなるだろう。青花は再び友近に背を向け、林へと歩いた。
「俺に電話してきた呉崎はそりゃあもう取り乱していてな。泣きじゃくってて話にならなかった。青花さんが酷い怪我しているんです、ってずっと言ってたよ。陰陽寮でも最古参のあやかしの心配する人間なんか初めて見たぞ。ほっときゃ治るって言ったんだけどな……」
誰に語るでもない友近の言葉に青花は足を止める。
「呉崎は化猫が傷つくのが嫌だった。だから呼ばなかった。苑子はそんな事言ってた。俺にはよくわからんが」
友近の深々としたため息の気配が伝わると夜の静寂が満ちる。もう一度振り返った青花は新しい煙草に火をつける友近を見て林へと入った。素足で草を踏みながら歩いていると心底呆れたと言った様子の呟きが追ってくる。
「……そんな顔して笑うんなら逃げんじゃねえよ」
友近の呟きで自分が笑っている事に気づいた青花は夜空を見上げた。
木々の隙間から見える月は変わらず美しい。
これから何度、月を見上げるのかはわからない。けれど、時々は夢を見たいと思う。
終わりのない夜を過ごす生き物を案じてくれた娘の夢を。




