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後日談・もうひとりの顔なし令嬢の話

 ローゼンハイム家嫡男、クラウス・ローゼンハイムはその日、婚約者であるソフィア・ハルトマンをローゼンハイム邸に迎え入れるためにハルトマン伯爵家へ赴いた。

 ソフィアの母親である後妻が男の子を産んだばかりだというのにハルトマン邸は見るからに暗い雰囲気だった。


「ソフィア嬢を迎えに参りました。まだ彼女は婚姻に足る年齢に達してはいませんが、早く我が家での暮らしに慣れていただきたいので」


 クラウスが説明するその理由も嘘ではなかったが、本当の理由はソフィアをこの暗い家から出してやることだった。


「そうですか。そのほうがソフィアにも良いでしょうね。どうかよろしくお願いします」


 それだけ言ってあとは黙ってしまうハルトマン伯爵をクラウスは見下ろす。若いころは精悍な美男子だったろうハルトマン伯爵は今は見るからにしょぼくれ、今現在ではないどこかを見つめているような風貌だった。クラウスの母であるローゼンハイム公爵夫人によるとハルトマン伯爵は前妻、エリザベスの母のマーガレットをいたく溺愛していたという。彼女がいればあとは何もいらないといった具合で、そしてそれは真実だったのだろう。愛したマーガレットが没した後、ハルトマン伯爵の愛はそっくりに産まれたエリザベスに移り、エリザベスが顔を失った時にどこにも行けずに霧散した。おそらく、産まれたばかりの息子のこともハルトマン家を存続させるための材料以上には考えてはいなさそうに見えた。


(私も同じようなものだ。私もローゼンハイム家を存続させることしか考えていなかった。今でもそうだ)


 クラウスがソフィアを迎えに来たのは、ソフィアをよろしく頼むとエリザベスに頼まれたからだ。人にとってどうやら配偶者の愛というのは精神の均衡を左右するほど重要なものらしい。顔がなくともどんどん明るくなっていくエリザベスと愛する妻の愛を死別という形で失ったハルトマン伯爵の様子はクラウスのその認識を裏付けるいいモデルだった。


(違うのは、伯爵は私と違って愛を知っていると言うことだろう。男女の愛は素晴らしいものとして語られることが多いが、こんなふうに人を崩れさせることもあるのだ)


 やはりよくわからないし、気持ちが悪いとクラウスは思った。


「ソフィア。もう出発できるかな?」


 メイドに連れられ、クラウスはソフィアの部屋の前に立つ。ソフィアは高熱から回復した後自分の顔がなくなってしまったという妄想に取り憑かれ、彼女の認識の中でなんとか許せるレベルの化粧を施さないと人に会いたがらないようになった。

 ソフィアの許可を得てメイドがドアを開けると、そこには道化のように大げさな化粧を施したソフィアが居心地悪そうに立っていた。


「……クラウス様、わたくし、変ではございませんか?」

「変だ。そんな化粧をしなくてもあなたは美しい」

「……嘘ですわ」

「私は嘘が嫌いだ」

「……」

「まあ今日はもういい。私と一緒にローゼンハイム邸に行くぞ。あなたは今日から私と一緒に暮らすのだ」


 ソフィアの小さな手を取り、クラウスはぐいと引っ張って廊下をずんずんと進んだ。クラウスがエリザベスの顔がないことを理由に婚約者を妹に変えた現場をソフィアも見ていた。今のソフィアがこうなってしまった原因の一つにかつての自分の思慮の浅い言動もあることをクラウスも認めてはいる。


(貴族の妻が精神的な病を持っていることなど、珍しいことでもない。ありふれている。誰が見ても顔がない状態と比べれば大した問題ではない)


 本当にソフィアにだけ自分の顔が見えないのか、クラウスには確かめるすべがない。エリザベスの顔が戻ってきた以上、顔を奪う魔女がいると言うのは本当なのかもしれないがソフィアにも同じようなことが起こっているかどうかは確認できない。


「私の言うことはそんなに信用できないか? 馬車の中くらい鏡を見るのをやめなさい。気分を悪くするぞ」


 ローゼンハイム家の馬車に乗り込んでもまだつけまつげの位置を確認しているソフィアをクラウスは叱責した。


「我が家には母上専属の化粧師がいる。任せれば万事うまくやってくれるだろう。あなたは私の婚約者なのだからもっと堂々としていなさい。以前の貴方はもっとふてぶてしかったぞ」

「……わたくし、ふてぶてしかったですか?」

「ああ、鼻につくほどにな」

「……ごめんなさい」

「……ふん」


 妄想に取り憑かれたソフィアはすっかりおとなしくなってしまって、クラウスは拍子抜けに感じた。クラウスの冷淡なふるまいにエリザベスは傷つき、静かに涙していたが、ソフィアは時々「婚約者に向かってなんだその口の利き方は」とばかりにつっかかってくることがあった。ソフィアのそういうところをクラウスは嫌いではなかったのだが。


                      *


 「あれは何をしているんだ?」


 ローゼンハイム邸に暮らすようになってしばらくして、ソフィアは乗馬用の装いで敷地内をぐるぐると走り回るようになった。クラウスはそれに気づくとソフィア付きのメイドに理由を尋ねた。


「さあ……なんでも、夜の夢の中で誰かと競争をするために、足を鍛えているとおっしゃっているのですが、私たちにはどうにもわかりかねます……」


 この時、クラウスはソフィアの妄想が顔のことだけではないのを知った。長い髪を一つにくくり無目的にぐるぐると走るソフィアの姿は狂女そのものだったが、暗い部屋で鏡を見つめて肩を落としているよりは健康的でいいのではないかと思い、クラウスは好きにさせておくことにした。


「えい、やあ!」


 走るのを放っておいたら、ソフィアは今度は木に向かって剣術の真似ごとをするようになった。公爵家の私兵に練習に付き合えと無茶を言い、苦情が来たことでクラウスはそれを知ることになった。


「ソフィア。剣に興味があるのか」


 ある日、クラウスは練習用の木剣を二本持ってソフィアに声をかけた。ソフィアは木の枝を紐で吊るしたものをカンカンと叩く練習を繰り返しており、汗を袖口でぐいと拭ってクラウスの方を見る。化粧は全て落ちて、頬は紅潮していた。彼女の顔はクラウスの見たところやはりそこにしっかりあり、美しかった。


「……勝たなくてはいけない勝負がありますの。これに勝たなければわたくしはじり貧ですわ」


 家から一歩も出ない貴族の令嬢が誰となんの勝負に勝たなければならないというのか? 狂人の戯言として一蹴することもクラウスにはできたが、彼はそうしなかった。代わりに木剣の一本の柄の方をソフィアに差し出した。


「仕事の合間だけになるが、私が稽古をつけてやらんでもない。強くなりたいと言う気持ちに男も女もない。そんな単調な木の枝をいくら叩いていてもこれ以上強くなれんぞ」


 ソフィアは一瞬驚いた顔で目を見開き、クラウスを黙って見ていた。そして嬉しそうにニコリと笑って木剣の柄を握りしめた。クラウスはソフィアの笑顔を初めて見た気がした。


「よろしくお願いしますわ、クラウス様」


 クラウスにはやはり女を愛する気持ちはわからない。だが、今のソフィアの何かをやり遂げようとする意志の強さや、笑顔で剣を握る姿は好ましいと思えた。


「なんだそのへっぴり腰は! 戦場でエスコートしてくれる紳士などおらんのだぞ! 勝つと言うことは相手を殺すと言うことだ。できなければあなたは死ぬ! 今死んだ! 剣を拾え! 向かってこい!」

「婚約者に向かってそんな口しか聞けませんの!? そんなだから弟の方が出世するんですのよ! 見てなさい! わたくしはまだ倒れてはいませんわあ!!」


 やがてローゼンハイム邸の中庭には毎日のようにクラウスとソフィアの言い合いが響くようになった。メイドや私兵たちはそれを聞くたびに、こう囁くのだった。


「あの二人、お似合いだよねえ」

 お疲れさまでした。これにて完結です。

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