26.エリザベスと顔
「うっ……ぐすっ……ひどい、こんなのってないわ……ソフィア……」
エリザベスはその場に立ちつくし、少しの間あどけない童女のように泣いた。哀れな妹を呼んでも、冷たい沼の水は泡一つ立たない。やがて彼女はぐすんぐすんとすすり泣きながら足元を棒でつつき、再び沼地の攻略を再開した。
(ソフィア……)
涙で滲む視界の中でエリザベスが歩き続けていると、脳裏に会ったばかりのころのソフィアの思い出が浮かんでは消えた。ちいさな妹は初めはエリザベスのことを舌足らずに「おねえたま」と呼んで、それはそれは可愛かった。一緒にお人形遊びをしたり、次に食べるキャンディの色が何色か当て合ったり、血の繋がらない妹ながらエリザベスとソフィアは仲良くできていたのだ。
おかしくなり始めたのは貴族の令嬢として社交界に出るようになってから、そして婚約者が決まってからだ。貴族の子女同士の交流は本音を隠し虚勢を張り、優れたものをほめたたえ身の回りを固めることで渡っていける世界。顔がなくなる前のエリザベスはそれを「あまり気にしない」という方法で切り抜けていたが、ソフィアは令嬢同士の噂話に傷つき、長じて噂話をあやつることを覚えた。その頃から姉妹の仲はぎくしゃくし始めたのではなかったか。
(確かにわたしの顔がなくなってからのソフィアは憎たらしいと思ったけど、こんな冷たい地であんなふうに死んでほしいなんて思ってなかった……! もっと、もっとソフィアと話したかった。このゲームが終わって上に戻っても、もうソフィアとは会えないなんて……)
ほとほとと涙するエリザベスの足取りは重い。しかし彼女にはやり遂げなくてはいけないことがあるのだ。沼地を抜け、山のてっぺんにある自分の顔を取り戻すという使命が。
やがて沼を抜け、足場がしっかりしてきた。山はもう目の前だった。こんなに長く走ったり歩いたりしたことのないエリザベスはもうフラフラで、足場を探るのに使っていた枝は今は歩行を助ける杖として機能していた。
(足ががくがくする……、喉もカラカラだわ……)
ふもとまで来て見上げると、その山は大した大きさではないはずなのに途方もない高さのように見え、その錯覚はエリザベスを押しつぶしそうだった。一度疲れを意識してしまうと、その考えは気力で動いていた彼女の膝を折ってしまう。
(マイカが淹れてくれるお紅茶、アルフォンスのお母様と一緒に飲む……あれが飲みたい。ああ、わたしはああいう素敵なものがある毎日にすっかり慣れ切ってしまったのね)
アルフォンスは令嬢として大事に扱われることをすっかり忘れていたエリザベスに温かく素晴らしいものの数々を惜しみなく与えてくれた。
(最初は不思議だったの。クラウス様からおさがりみたいにもらった婚約者にアルフォンスはどうしてこんなに良くしてくれるんだろうって)
エリザベスには自分の顔が美しいという自覚が明確にあった。だからこそ自らのかたちに思い悩むために鏡を見るということがあまりなかったのだ。他の人に見えない美しいものを自分だけには見ることができて、それが自分の婚約者だというのはアルフォンスにとって嬉しいのかもしれないと頭のどこかで思っていた。
(意地悪な考え方だったと思うわ。わたし、顔がなくなってから知らないうちにこんなにも人を信用できなくなってしまったのよね。アルフォンスは子供のころに一度優しくしただけのわたしをずっと思い続けていてくれた。わたしの顔がなくなっても、ずっとその想いを持ち続けてくれたんだ……)
アルフォンスはエリザベスに自分の内臓のような塔の内部をつまびらかに見せ、エリザベスが暮らしやすいようにあちこち改造すらした。そして自分の研究を惜しげもなくエリザベスに共有してくれた。
エリザベスは彼が与えてくれたものひとつひとつを思い出し、一歩一歩歩くごとに心の中で彼に感謝した。
(アルフォンスのところに来てからわたし、できるようになったことが沢山ある。刺繍だってやるようになったし、彼が守ってくれるから、仮面なしでパーティに出たり、お針子会に行ったり……でも一番はこれ……)
エリザベスは凍結、と呟くと空中に小さな氷の塊を出現させた。口を大きく開けると、あむ、とそれを含む。冷たい氷は口腔内でじわじわと溶け、貼りつきそうな舌と喉をひんやりとやさしく潤してくれた。
それから、彼女は余計なことを考えるのをやめ、ただ一歩一歩を確実に踏みしめて山を登っていった。魔女によってゲーム用に整備されているらしい山はかなり歩きやすい道が用意されていた。それでも歩きなれていないエリザベスの足にはマメができ、水ぶくれが破れて痛かった。
(あとちょっと……あと、ちょっと……、ああ……っ)
もともとヒビでも入っていたのだろうか。杖代わりについていた枝が突然ぼきりと折れ、エリザベスは前のめりにつんのめって倒れた。じゃりじゃりとした小石の落ちている地面で頬を打ち、擦りむく。
「はあ、はあ、はあ……」
立ち上がらなくては、と思ったエリザベスだが、足が笑ってしまって起き上がれない。疲労の限界なのだ。肩で息をして彼女は地面に手をつき、その場にごろりと仰向けになった。
「……ああ」
背を山肌につけて空を見上げたエリザベスは目の前に広がっている光景に思わず声を漏らしてしまう。空の上から、アルフォンスが彼女を覗き込んでいたのだ。
アルフォンスは泣いていた。傷つき、倒れたエリザベスを見て感極まって涙を流していた。彼の口元はひっきりなしにぱく、ぱくと開閉している。何か言っているようだ。何度か同じ動きを繰り返しているその口の形を見ていて、エリザベスは彼が何と言っているのかわかるようになってきた。
『がんばれ』
『負けるな』
『愛してる』
彼はその三つの言葉をエリザベスの頭上で繰り返していたのだ。
(アルフォンス……、もしかして、ずっとこうやって応援してくれていたの?)
天と地で向かい合い、エリザベスはアルフォンスの顔を見つめる。とても、とても愛おしいと思った。あの顔が見られなくなってしまうなどということは、絶対にあってはいけない。
雨が降ってきた。それはもしかしたらアルフォンスの涙がゲームの中に落ちてきたのかもしれなかった。
(わたしがやり遂げないとゲームは終わりにならない、立ち上がらなきゃ)
震える足に力を入れ、エリザベスは身体を起こした。
「泣かないで、アルフォンス! わたし絶対にあきらめないから、降らせるならキスの雨にしてちょうだい!! わたし、いつまでもあなたのこと愛してるわ!」
走り出したい気持ちだった。けれど足は言うことを聞かない。心臓は爆発しそうだった。エリザベスはふらふらと蛇行し、時折つまづいて転びながらも残りの道を進んでいった。そうやって半ば這うようにたどり着いた山の頂上は平らにならしてあり、石畳が敷き詰められている。そしてその真ん中にはちいさな祭壇が設置してあり、エリザベスの顔はその上に儀式の面のような形で浮かんでいた。
(わたしの、顔。こんなところにあったんだ……)
祭壇にもたれかかるように近づき、エリザベスは浮かんだ顔に手を伸ばした。つるりとした感触は仮面そのもの。しかし触った瞬間、まぎれもなくそれが自分のものなのだと。ずっと会えなかった家族に再び会えたような安心感が指先から伝わってくる。
「おかえりなさい……」
その場に座り込んだまま、エリザベスはようやく手にしたそれを自分の顔にそっと纏わせた。
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