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幕間

 ソフィア・ハルトマンを可愛がってくれていた父親が戦死したとき、彼女の人生は変わってしまった。

 夫を亡くしたソフィアの母は周りの勧めで同時期に妻を失ったエリザベスの父ハルトマン伯爵と再婚したが、当時のハルトマン伯爵は亡くなった前妻とそっくりな娘のエリザベスを目に見えて溺愛していた。父親から愛を一心に受けることに慣れ切っていたソフィアには新しい生活は物足りなかった。さらにエリザベスの婚約者はハンサムで若いクラウスなのに、自分にはうんと年上の男を婚約者として決めてきたところでソフィアの不満は最高潮になった。


「エリザベスお嬢様のお顔は亡くなった奥様に本当にそっくりですものね。旦那様が大事にするのもわかるわぁ……」

「でももう新しい奥様と妹様がいるんだから、旦那様ももうちょっと……ねえ?」


 メイドたちの噂話を聞いて、ソフィアは自分が新しい父に愛されないのは顔がエリザベスの母とまったく似ていないから、似ている姉がソフィアの分まで父親の寵愛を奪っているのだと思い込むようになり、少しでもエリザベスに寄せられないかと日がな一日鏡とにらめっこばかりしていた。


(楽器や刺繍のおけいこをせずに鏡ばかり見ている女の子は、魔女に顔を取られてしまうんですって)


 厩舎で働いている下女からそんな噂話を聞いたという令嬢がある日のお針子会でそれを口にした。それはソフィアを含むそこに居合わせた令嬢たちの心を恐怖で震え上がらせた。しかし、ソフィアはそれでも鏡で自分の顔を見るのがやめられなかった。


(もっと睫毛が長くて、髪も亜麻色に染められないかしら……、一番はあの目よね。ずるいわ、あんな夜明けの空みたいな綺麗な色……!)

 

 そんなソフィアが鏡の前でエリザベスへの嫉妬を燃やしている時に、鏡が水面のように歪んでその魔女は現れたのだ。


『そんなに毎日長々と鏡を見て、そんなに自分の顔が好き? それとも嫌いなのかしら』

「きゃっ!!!」


 レースをあしらった扇子で口元を隠した女が鏡に映ったのに驚いたソフィアは小さな悲鳴を上げた。そのまま喚き散らしそうになったが、頭の回転の速い彼女は目の前の存在が魔女であるとすぐに理解し、刺激しないように自分の口を手で押さえて悲鳴を飲み込んだ。


『あら、静かにできるのね。冷静で賢いわ。あたくしは魔女ペイルトゥナ。百貌の魔女と呼ばれているわ』

「……お初にお目にかかりますわ、ペイルトゥナ様。わたくし、ソフィア・ハルトマンですわ」


 鏡ばかり見ていると魔女に顔を取られる。噂は本当だったのだ。魔女が顔を取りに来たのだ。そう思ったソフィアは目の前の存在が機嫌を損ねないように丁寧に挨拶した。


「ペイルトゥナ様におかれましては、本日はわたくしの顔を取りにいらしたのでしょうか」

『察しまでよいのね。そうよ。鏡ばかり見ている娘の顔を取りに来たの』

「やっぱりそうですのね……。物は相談なのですが、わたくしよりも美しく、愛される顔を手に入れたくはありませんか?」

『へえ?』


 自分は悪いことをしている。ソフィアは喋りながら、その自覚があった。しかし、ありふれた令嬢である自分が魔女と会うチャンスなど今をおいて他にはない。ソフィアはこの時まだ8歳だったが、社交好きの母親に連れられてほうぼうのパーティに出席していたおかげですでに大人顔負けの交渉能力を手にしていた。気にいらない愛されない顔とはいえ、自分の大事な顔を持っていかれるわけにはいかない。諦めてもらうためにはもっと魅力的な代替案を出す必要がある。


(ここで決めなきゃわたくしはジリ貧だわ……、言うのよ、ソフィア)


 ソフィアの心臓はどきどきと脈打ち、固い唾が喉を落ちていく。開いた唇は震えていたが、彼女はまっすぐと魔女を見据えて言葉の続きを口にした。


「わたくしの姉、エリザベス・ハルトマンの顔はお父様に愛されているとても良い顔面。わたくしの顔なんかより、お姉さまの顔を持って行った方がより満足いただけるかと思います……!」


 わたくしの顔「なんか」と口にした時、ソフィアの自尊心がずきりと痛んだ。しかし、この程度の屈辱でこの家での自分の立場が上昇するなら安いものだと思った。


『ほう? 確かに、エリザベス・ハルトマンの顔は欲しいわね。あの娘はあまり長い間鏡の前に座らないからチャンスがなかったの。妹のあなたが許可してくれるというの? エリザベスの顔を差し出す代わりに、あなたの顔は持って行かない。そういう契約を魔女とすることになるわね。いいのかしら』

「そうしなければ、わたくしは顔を取られてしまうのですよね。でしたらわたくし、ペイルトゥナ様と契約をいたします」

『うふふふふ、いいわよ。ではそのかわいい指をピンで刺して、出てきた血でこの鏡にサインなさい』


 そしてソフィアは魔女の指示通りブローチのピンで指を刺し、鏡にサインをした。笑い声を残して魔女の姿が消えるとともに血のサインもすうっと消えていく。魔女が消えた鏡にはどきどきと脈打つ胸を押さえたソフィアだけが映っていた。


「きゃあああああ!!!」

「化け物! エリザベス様の部屋に化け物がいる!!」

「早くなんとかしてえっ!!」


 ほどなく、廊下を叫びながらばたばたと走るメイドたちの声が聞こえてきた。ソフィアは先ほど会ったことへの恐怖が今頃になって襲って来て、椅子に座ったまま両手で顔を覆って俯いていた。


「くく、くくくくく……」


 心臓の音が落ち着くころ、覆った手の隙間から小さな含み笑いが出てくる。ソフィアは誰にも聞かれないように声を殺して笑い続けていた。廊下の騒ぎはどんどん大きくなっていったので、今なら誰にも笑い声を聞かれないと確信した彼女はしまいには天井を見上げて声を上げて笑った。

 それからはすべてソフィアの思い通りになった。ハルトマン伯爵はエリザベスの顔がなくなったことで死んだ前妻への未練を手放すことができたのか、エリザベスを可愛がることをやめた。

 別棟に軟禁されたエリザベスは婚約者を伴う必要のある場所にクラウスが行く時のみ、仮面をつけさせられて外出することができた。仮面を外さない令嬢など社交の場では異物でしかない。クラウスは次第にエリザベスを疎み始め、彼が婚約を破棄した瞬間、ソフィアは大声を上げて笑いそうになるのをぐっと我慢した。

 ソフィアの婚約者が死んだのはまったくの偶然だったが、ちょうどいいタイミングでクラウスが婚約破棄したため彼女はとんとん拍子でエリザベスの後釜に潜り込むことができた。


(ああ、なんて気分がいいのかしら! みんなわたくしの思い通り!! お姉さまは不幸! わたくしだけが幸せ!! わたくしの勝ちですわ!!!!)


 その時はそう思っていたのに、現実は違っていた。

 婚約者になってみれば、クラウスはエリザベスの顔がなくなったから冷たくなったわけではなく、どうやらそもそも女に興味がない性質の男であることがわかった。顔なしのエリザベスでなくても、隣に居る女を愛したり優しくしたりする気はクラウスにはないのだ。ローゼンハイム公爵家のためだけに飾りの女を持つ必要があるだけ。新しい婚約者のソフィアにも冗談一つ言うことがなかった。


(つまらない男。何だって言うの。ちょっとお茶だけしてあとは仕事があるから帰れですって。本当につまらないわ。引きこもりだって言う弟もそう言う感じかしら。ちょっと様子を見に行ってみましょう……)


 そしてソフィアはアルフォンスの住む塔の前で美しいアルフォンスと自国の第一王子に囲まれ朗らかにしているエリザベスを見てしまった。瞬間、ありえないほどのみじめさがソフィアを襲う。


(もう一度お姉さまの幸せを壊さなくては、わたくしはずっとみじめなままだわ……見てらっしゃい……二度と笑えなくしてやるんだから……)


 ソフィアはそのまま踵を返し、伯爵家へ帰る馬車に乗り込んだ。公爵家に来ていたことすらエリザベスに悟らせずにそそくさと帰る。それは敗走そのもので、ソフィアの自尊心を追いうちのように傷つけた。

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