47話 微かなずれ
今日も、いつも通りの朝。けれど、ほんの少しだけ、何かが違っていた。互いを意識しすぎた音と、誰にも言えない胸のざわめき。
目に見えないずれは、いつの間にか心の奥に、静かに波紋を広げていく——。
今日も、いつも通りの時間に、いつも通りの部室に入る。朝の空気は少し冷たくて、楽器ケースを置く音がやけに響いた。
天奏はオーボエを取り出し、リードを確かめる。息を入れる前の、この一瞬が好きだった。まだ音になっていない、静かな準備の時間。
ふと、隣を見る。
比奈はフルートケースを開けていたが、いつもより動きがゆっくりだった。視線は譜面に落ちたままで、天奏の方を見ていない。
「……比奈」
名前を呼ぶと、比奈は少し遅れて顔を上げた。
「なに?」
「今日も、一緒に練習しよ」
ごく自然な誘い。
ここ最近、ずっとそうしてきたように。
けれど。
「……ごめん」
比奈は、一拍置いてから言った。
「今日は、一人でやりたい」
その言葉は、強くも冷たくもなかった。ただ、はっきりしていた。
「そ、そうなんだ」
天奏は思わず、曖昧に笑う。
「うん。ちょっと、やりたいことがあって」
「……そっか」
一瞬、何か言おうとして、言葉が喉に引っかかる。
比奈は申し訳なさそうに、でも迷いなく続けた。
「ごめんね。一緒に——ソリ、頑張ろ」
その言い方が、どこか“約束”というより、“確認”のように聞こえて。
「……うん」
天奏は小さく頷いた。それ以上、何も言えなかった。
比奈はすぐに視線を譜面へ戻し、フルートを構える。音を出す準備に入った横顔は、集中していて、いつもより遠く感じた。
天奏は自分の譜面台に向き直る。オーボエを構え、息を吸う。
——いつも通り。そう思おうとした。
けれど、最初の一音が、ほんの一拍だけ、リズムがずれた。
午前の練習が進み、部室には全体合奏の時間がやってきた。
椅子が並び、譜面台が一斉に正面を向く。金管の息遣い、木管のキー音、打楽器の準備音。いつも通りのはずの光景なのに、どこか落ち着かない。
天奏はオーボエを構え、視線を譜面に落とす。
——あの場所だ。
自由曲の中盤。フルートとオーボエのソリ。二人だけの曲「祈風」と、構造の近い、大事な部分。
顧問がタクトを構えた。
「じゃあ、通すぞ」
合図と同時に、音が流れ出す。
序盤は問題なかった。合奏も揃っている。テンポも安定している。
そして——
問題の箇所に入った瞬間。
フルートが旋律を出す。
オーボエがそれを受け取る。
……はずだった。
だが、ほんの一拍。間が噛み合わない。
「ストップ」
短く、はっきりとした声。
音が、ばらばらと止む。
空気が、一段階下がった。
顧問は譜面に視線を落としたまま、淡々と口を開く。
「……冴山さん」
「はい」
比奈はすぐに返事をする。背筋は伸びている。
「ここのソリ、冒頭は本来フルートであるあなたが、テンポを作る部分だ」
「はい」
「周りを聞くのはいいことだ」
一拍。
「でも、今のは——あまりにもオーボエに頼りすぎてる」
部室が、ざわりと揺れた。
「……すみません」
比奈は、はっきりと頭を下げる。
天奏の指が、無意識にキーを押し込んだ。
「天奏さん」
「はい」
「あなたもです。一人で走らないように」
「……はい」
短いやり取り。けれど、その言葉は、思っていた以上に重かった。
ざわざわ、と周囲の空気が動く。
「え……?」
「今の、冴山さんだったよね……?」
「珍しくない?」
「冴山さんが、あんなに止められるの……」
小さな声が、あちこちから漏れる。
誰も悪意を向けているわけじゃない。ただ、見慣れない光景に戸惑っているだけだ。
天奏は視線を上げられなかった。
比奈の方も、こちらを見ない。
「もう一回いくぞ」
顧問の声で、音が再び立ち上がる。
フルートが入り、オーボエが続く。
——今度は、揃っている。
正しい。
でも、どこか不自然だ。
天奏は、比奈の音を気にしすぎている自分に気づく。比奈は、オーボエを待ちすぎている。
互いに、互いを意識しすぎて、音楽そのものが置き去りになっていた。
曲が終わる。
音楽室にはただ、譜面をめくる音だけが響く。
天奏は、胸の奥に残る違和感を、うまく言葉にできなかった。
全体合奏が終わり、解散の声がかかる。
天奏は無言でオーボエをケースに戻し、譜面をまとめた。練習教室に楽器を置き、喉の渇きを思い出す。
(水……)
ペットボトルは、もう空だった。
廊下に出ると、校舎は静かだった。自販機は、音楽室棟の反対側。足音を響かせながら、天奏は歩く。
途中、二、三年の男子の先輩たちとすれ違った。
見覚えのある顔。
同じ吹奏楽部。
天奏は、当たり前のように軽く会釈をして、そのまま通り過ぎようとした。
――その瞬間。
「天奏」
呼び止められ、足が止まる。
「はい?」
「ちょっと、こっち来いや」
声音は低く、冗談めいたものではなかった。
反射的に振り返った、その一瞬。視界が、ぐっと近づく。腕を掴まれ、身体が引かれる。
「――っ」
声を出そうとした瞬間、口元が塞がれた。
空気が、詰まる。
何が起きているのか、理解するより早く、足が床から浮くような感覚。
廊下の景色が、流れる。
音が、遠くなる。
誰かの声がした気がした。でも、それが現実だったのかどうかも、分からない。
ただ、強く掴まれた腕の感触だけが、はっきりと残っていた。
天奏は、もがこうとした。けれど、身体は思うように動かない。
——声が、出ない。
そのまま、どこかへ連れて行かれていった。
比奈の家は、いつもより静かだった。練習を終え、時計を見ると、針はすでに四時を指している。
比奈はフルートケースを床に置き、吐き捨てるように呟いた。
「……なによ、あの演奏」
最初から、わかっていた。
比奈は天奏に、嫉妬していた。
小学校から、フルート一筋。誰よりも練習して、誰よりも上手くなると信じてきた。
実際、そうだった。
褒められて、期待されて、認められてきた。
それが嬉しかった。
フルートも、音楽も、大好きになれた。
――なのに。
比奈は唇を噛む。
「ずるいよ。……あんな音」
ふと、天奏の携帯電話の番号を押していた。
理由は分からない。
ただ、胸の奥に、言葉にならない違和感が残っていて。
「おかけになった電話は、電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないため——」
途中で、通話は切れた。
繋がらなかった。
比奈はまだ知らない。その“違和感”が、もう取り返しのつかないところまで進んでいることを。
薄暗い場所だった。窓はなく、外の音がほとんど届かない。
天奏は背中に冷たい壁の感触を感じていた。オーボエケースは、いつの間にか足元から消えている。
「……なあ」
低い声が、すぐ近くで響く。
「お前さ」
視界の端に、先輩たちの影が重なる。人数は、はっきり数えられない。
「最近、調子乗りすぎだろ?」
天奏は何も答えられなかった。
喉が、うまく動かない。
「一年のくせにさ」
「ソリで目立って」
「顧問にも名前呼ばれて」
言葉が、ばらばらに降ってくる。
「才能?違うだろ」
「運だろ、あんなの」
「たまたま、音が良かっただけ」
誰かが、鼻で笑った。
「俺ら、何年やってきたと思ってんだよ」
その一言に、空気が変わる。重く、湿ったものが、胸に沈む。
天奏の頭に、朝の合奏がよぎった。
比奈のフルート。
一拍、ずれた、あの瞬間。
「……すみません」
やっと、それだけを絞り出す。
すると。
「ほらな」
「自覚あるんだよ」
その言い方は、許すためじゃなく、壊すための確認だった。
「音が良いからって、全部許されると思うなよ」
天奏は、ぎゅっと目を閉じる。耳の奥で、オーボエの音が鳴った気がした。
でも、すぐに消えた。
——吹いちゃだめだ。
——ここでは、音を出したらいけない。
理由は分からないのに、身体だけが、そう理解していた。
「お前の音さ」
最後に、誰かが言った。
「正直、ムカつくんだ」
その言葉が、何よりもはっきり、胸に刺さった。
数日後、いつも通り登校した冴山は、ふと視線の先に天奏の姿を見つけた。声をかけようと歩み寄ったその足が、思わず止まる。
天奏の頬には、ガーゼのようなものが貼られていた。手には、小さく包帯が巻かれている。
——どうしたんだろう。
その疑問が胸の奥でざわつき、冴山の心は落ち着かなかった。
しかし、比奈は部活の練習中にある会話を耳にする。
「天奏さんいるじゃん」
「そう言えば今日も早退してたな」
「あんなに怪我して、もしかして誰かにいじめられてるんじゃないの?」
「まさか、どうせ転んだりしたんでしょ」
「でも、天奏さん上手いし嫉妬とかされそうだよね〜」
「確かに」
言葉は冷たく、でも自然に流れていく。
冴山の手は止まり、言葉にならない違和感に包まれた。
部活が終わり、比奈は足早に校舎を後にしようとしていた。しかし、その前に立ちはだかったのは、男子の先輩たちだった。
「おい、冴山」
低く響く声に、比奈は立ち止まる。
「何か用ですか?」
問いかけても、先輩たちは笑みを浮かべたまま近づいてくる。
「ソリ、どうなんだよ」
「どうなんだよと言われましても」
「調子悪いらしいじゃねぇか」
「は、はぁ」
「分かるぜ」
先輩たちは一歩前に近づく。
「お前、天奏が憎いんだろ」
突然の言葉に、比奈は視線を逸らす。胸の奥がざわついた。先輩たちは、さらに一歩、二歩と距離を詰める。
「お前も協力するだろ?」
「な、何にですか?」
比奈は思わず声を震わせた。
「……あいつを排除するんだよ」
言葉は冷たく、脅しでもなく、ただ当然のことのように告げられた。比奈の心臓が早鐘のように打ち、足が硬直する。
「わかってるだろ?あいつを黙らせるのが、部のためだ……協力しないなら......」
先輩たちはそう言って、去っていった。
天奏の音は美しい。でも、その音の裏には、誰も知らない痛みが隠れている。
今回のずれは、ほんの一瞬の違和感に過ぎないかもしれない。
けれど、この小さな亀裂は、やがて二人の関係、そして部活全体を揺るがす何かの始まりかもしれない——。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




