3話 動き出す
「不協和音の中で、まだ見ぬ旋律を探して――」
東縁高校吹奏楽部。そこは、音の揃わない混沌とした場所。誰もが諦めかけていたけれど、ひとつの音色が静かに変化の予感を運んできた。
まだ見ぬ未来へ、響はそっと一歩を踏み出す。
仮入部の練習が終わり、音楽室には響のユーフォの余韻が静かに漂っていた。そんな中、部長らしき先輩が柔らかな笑顔で立ち上がり、全員に向かって話し始めた。
「新入部員の皆さん、こんにちは、私は久瀬真奈美。ソプラノサックスを担当していて、サックス希望の人は私と関わる機会が多いでしょう。これから一緒に吹奏楽部を盛り上げていきましょうね」
彼女の声は穏やかで、自然と場が和らいでいく。
「今日の演奏、特に月本さんのユーフォニアムは本当に素晴らしかったです。でも、正直に言うと、私たちの部はまだまだ未熟で、これまでの成績は地区大会で銅賞止まりが続いています。毎年、夏のコンクールやアンサンブルコンテストにも挑戦してきましたが、全国大会で金賞を目指すのは……まあ、もともと無理だと分かっているけどね。
――そんなわけで、上位大会に進むこともままならず、なかなか思うような結果が出せないのが現実です」
彼女は会場の隅々まで目を配りながら続ける。
「だから、他の部活から冷たい目で見られたり、差別まではいかなくても、居心地のいい場所とは言えませんでした。そして来週、新しい顧問の先生が来られると聞いていますが、私たちも詳しいことはわからず、特に大きな期待はしていません」
それでも、久瀬は明るい笑顔を見せて言った。
「でも、変わらなければいけないのは確かです。誰かに頼るのではなく、私たち全員で少しずつ成長していくしかありません。これからも一緒に頑張っていきましょう。」
久瀬の言葉に、音楽室内の部員たちが顔を見合わせ、小さくうなずく。
「はい……」
その声は、どこか自信なさげで、まだ不安を隠せない響きだった。けれど、その中には確かな覚悟の芽生えも感じられた。
静かながらも温かな空気が、音楽室を包み込んでいく。
そして仮入部から一週間が経った放課後。教室には夕日が差し込み、窓際の席に残った響、陽翔、奏多の三人が机を囲んで話していた。
「発足式、いよいよ明日か。新しい顧問って、どんな人なんだろうなあ」
陽翔が背もたれに寄りかかりながら、ぽつりと呟く。
「仮入部のあと、楽器希望のアンケート取ってたよね。たぶんあれ、新しい先生に提出する用だったんじゃない?」
奏多が静かに言う。
「久瀬部長も言ってた。『みんなの希望をちゃんと見てくれる人が必要』って」
響はノートを閉じながら、窓の外に目を向ける。
陽翔は少し笑って、机に手を置いた。
「俺さ、やっぱソプラノサックスにしたいんだよね。小学校のときバスクラだったけど、なんかあの細くてシャーって鳴る感じ、かっこいいなって思ってさ。全然違うけど……そっちの方がテンション上がるっていうか?」
響がくすっと笑って言った。
「やっぱバスクラじゃないんだ。あれ、結構かっこよさそうなのに」
「ありがと……って、褒めてないよなそれ」
陽翔が少し照れたように笑い、肩をすくめる。
奏多が落ち着いた口調で言葉を継いだ。
「選ぶ理由がちゃんとあるって、いいことだよ。……新しい顧問、ちゃんと向き合ってくれる人だといいね」
奏多の言葉に、三人の間にふっと静けさが流れる。
「それに、あの演奏の余韻、まだ残ってる感じがするよ」
奏多の一言に、響は小さくうなずいた。
夕焼けの光が教室の中を温かく染めていた。部活の未来はまだ何も見えていないけれど、小さな期待が、静かに育ち始めていた。
夜、自室でスマホをいじっていた響に、居間から母親の声が届く。
「響、テレビで吹奏楽部の特集やってるよ。面白そうだから見てみたら?」
響は部屋のドアを少し開けて、リビングのテレビ画面をちらりと覗き込む。そこには『頑張れ!ジャパンズブラス♬』という全国吹奏楽部特集の番組が映っていた。
ナレーションが流れる。
「こちらは、県内屈指の強豪、長野県豊川高校の今年の課題曲の演奏です。緻密なアンサンブルと高い技術力で、全国大会金賞を狙います」
テレビ画面に映る豊川高校の演奏は、一音一音が正確に刻まれ、全体のテンポは揺るがず一定だった。主旋律は美しく歌い上げられ、伴奏は巧みに抑揚をつけて曲にメリハリを生み出している。その演奏には、確かな技術と心が織り込まれていて、響の胸に静かな感動を呼び起こした。
入学式で聞いた自校の校歌演奏とは比べものにならない完成度の高さに、響は無意識に息を呑んだ。
テレビの画面が切り替わると、次は長野市立西野中学校の演奏が映し出された。
ナレーションが続く。
「こちらは昨年、昨年、10年ぶりに全国大会へ出場を果たした長野市立西野中学校の演奏です。課題曲1『さくらのうた』に加え、自由曲は『ミス・サイゴン』です」
響は画面に映る演奏を黙って見つめていた。曲名や出場の意味はまだ響の心に届いてはいなかったが、流れる音楽は自然と耳に入り込んできた。
夕暮れ前の体育館。春のまだ冷たい空気が、制服の隙間からじんわりと入り込んでくる。
吹奏楽部を含めたすべての部活動が列を組んで整列するなか、壇上では部長会長であり生徒会長の男子生徒がマイクの前に立っていた。
背筋の伸びた立ち姿と落ち着いた口調には、さすがに学校を代表する立場の威厳がある。
「では、新年度の部活動発足式を始めます。皆さんが一年間、責任と誇りを持って活動してくれることを期待しています」
一瞬、張り詰めた空気が体育館を包む。しかし次のひと言で、わずかにざわめきが走った。
「……とは言っても、どこかの部のように、練習といえばおしゃべり、演奏といえば雑音……なんて噂が聞こえるようでは困りますけどね」
その言葉に、周囲が小さく反応した。目線は、明らかに吹奏楽部の列へ向けられている。それを受けた一部の生徒たちが、くすっと笑う。
響は、言葉には出さなかったものの、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
(やっぱり……本当に、冷たく見られてるんだ)
陽翔もつぶやく。
「なんだよあれ、嫌味かよ」
奏多は静かに目を閉じていた。
会長はすぐに口調を戻し、話を続ける。
「それでは、顧問紹介に移ります。今年度も、各部を支えてくださる先生方をご紹介します」
壇の下から、顧問の先生方が次々と名前を呼ばれ、壇上に並び始める。
「サッカー部顧問、田所先生。野球部顧問、宮下先生。写真部顧問、加納先生……」
順に呼ばれていく中、吹奏楽部の番になると、一瞬アナウンスのトーンが揺れる。
「……吹奏楽部、副顧問、瀬戸川先生。顧問のえっと……瞬崎先生は、現在未到着とのことです」
その瞬間、他の部活の部員たちがどよめいた。
「え、来てないの? 顧問いないのかよ」
「やっぱ吹部、今年も自習か?」
「えぐ……そりゃ誰も本気になれないわけだ」
「っていうか副顧問って担任の先生だろ?いくら瀬戸川先生でも名前だけじゃん」
ひそひそ声とはいえ、聞こえないほどではない。そのひとつひとつが、響の耳に刺さるように入り込む。
(……どうして、こうなるんだ?)
沈んだ空気の中、ただ一人、壇上に立っている瀬戸川先生だけが、やや困ったように笑いながら頭を下げていた。
その時――
「遅れてすみません!」
体育館の扉が、重く開いた。スーツ姿の青年が軽やかな足取りで壇上へ向かう。グレージュ色の髪に、整った顔立ち。全身から爽やかさがあふれている。場が、一気にざわついた。
「誰あれ……やば」
「え、モデル?」
「映画の人?」
「いや吹部の顧問……マジで?」
ざわめきは止まらず、他の部の女子部員たちの目が一斉に壇上へ向かっていく。瞬崎が壇に立つと、すぐに校長が駆け寄って小声で話しかけた。
「瞬崎先生、ちゃんと遅れないでって言ってたじゃないですか」
瞬崎は肩をすくめて、笑いながら答えた。
「すみません。次から気をつけます」
そのやりとりは微笑ましいものだったが、吹奏楽部の列にいた部長の久瀬は驚いて目を細める。
(……月本君に、ちょっと似てる……?)
その思いが声になることはなく、式は静かに、再び進行を再開していく。そして体育館の空気が落ち着きを取り戻すと、校長先生がゆっくりと壇上へと歩み出た。
「皆さん、改めまして新年度の部活動発足式に参加してくれてありがとうございます。昨年度は、野球部が全国大会へ出場しました。サッカー部や陸上部も素晴らしい成績を収め、多くの部活動が輝かしい成果を上げています。
そして結果だけがすべてではありません。日々の練習に真摯に取り組み、仲間と支え合うその姿勢こそが大切です。少しずつ確実に成長していく過程を、私は誇りに思っています。
これからの一年間も、皆さんがそれぞれの目標に向かい、互いに高め合いながら頑張ってくれることを願っています。私たち教職員も、全力で皆さんを支えていきます」
校長の温かい言葉に、体育館の空気は和らぎ、吹部部員たちの表情にも少しずつ笑みが戻っていった。
校長の温かい言葉が終わり、部活動発足式は静かに閉幕した。生徒たちはそれぞれの部活の列を崩しながら、体育館の出口へと歩き出す。
そんな中、遠くから小さく、でもはっきりと聞こえてくる声があった。
「吹部のくせに調子のるなよ」
「うざいんだよ、あいつら」
冷ややかな言葉は風に乗って吹奏楽部の列をかすめていく。響はその言葉に少し顔を強ばらせたが、すぐに視線を前に戻した。
その時、瞬崎がゆっくりと、しかし迷いなく響のもとへ真っ直ぐ歩いてきた。周囲のざわめきがかすみ、彼の視線だけが響に注がれている。
瞬崎は立ち止まり、静かに、だが強い声で言った。
「なぜだろう。まるで幻を見ているようだ」
僕は一瞬困惑した表情を浮かべた。どう反応したらいいのか。
しかし瞬崎はすぐに表情を和らげ、柔らかな笑顔に戻る。
「あ!すみません、急いでいてつい変なことを言ってしまいました」
そう言うと、瞬崎は軽やかに前の列に戻っていった。
響はその背中を見送りながら、心の奥にほんの少しだけ希望の灯がともるのを感じていた。
音楽室に漂う静かな余韻。吹奏楽部の新しい季節が、ゆっくりと動き出した。
まだ小さな希望の火は、どこへ向かうのか。響の胸には確かな何かが芽生え、これからの道を照らし始めている。
これから始まる物語の音色に、耳を澄ませてほしい。
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