103話 音の交差点
八人の仲間が集まり、いよいよ本格的に動き始めたアンコン。それぞれが楽器を手に取り、それぞれの思いを胸に、音を重ねていく。
初めての合奏で、彼らは何を感じるのか。
そして、同じ大会を目指す部員たちにも、それぞれの選択があった。
八人が、一つの教室に集まっていた。
楽器を準備する者。
楽譜を確認する者。
椅子に座って、他愛もない会話をする者。
まだ本格的な合奏が始まっているわけではない。
それでも、少しずつ部屋の中には八人分の気配が集まり始めていた。
そんな中、柊木が全員に声をかける。
「十五分後にはチューニング始めるので、各自音出ししといてください」
「うぃーす」
夢天は気だるそうに返事をした。
そして、手元の楽譜を眺めながら、ふと顔を上げる。
「つーか、早ない?」
「……」
「まだ楽譜貰って一週間も経ってないやけん。だって、校内予選は十二月頭。今は……」
夢天は少し考え込む。
「……あ、もう一週間ほどやん」
そして、さらに何かを思い出したように続けた。
「てか地区の大会もさらにその一週間後やん。なかなかハードな予定やな」
柊木は、しばらく黙っていた。
そして、夢天のほうを見ながら、静かに口を開く。
「長々と解説あ り が と う」
「ど う い た し ま してぇ」
夢天は妙に気の抜けた声で返した。
柊木は、静かに舌打ちした。
それから何も言わず、夢天から限りなく遠い教室の端へと移動する。
ホルンを構える。
まるで、少しでもあの男から離れていたいと言わんばかりに。
その様子を見ていた来島は、思わず苦笑した。
「……仲良いんだか、悪いんだか」
そんな言葉が、ぽつりと漏れた。
誰も答えなかった。
それから十五分。
机や椅子を端へ寄せると、教室の中央に楽譜が綺麗に並べられていく。
後ろには、打楽器がどっしりと構えていた。
八人が、それぞれの場所につく。
先ほどまでの雑談も、少しずつ消えていった。
「じゃあ、チューニング。Aグループから」
柊木の声が響く。
「はい」
返事と同時に、来島がチューバを構えた。
ゆっくりと息を吸う。
そして――。
低く、太い音が教室に響いた。
まだ吹き慣れていない楽器を扱うような、わずかな不安定さがある。音の立ち上がりも、ほんの少し遅れる。
それでも、その音には確かな芯があった。
低く沈み込むようでいて、決して輪郭がぼやけているわけではない。床を伝うような低音が、教室全体を静かに震わせていく。
来島はチューナーを見つめながら、微かに息を調整した。
「……」
ほんの少しだけ、音程が揺れる。
もう一度、息を整える。
今度は先ほどよりも安定した音が鳴った。
「……うん」
来島が小さく呟く。
そのままチューニングは続いていく。
「Bグループ」
柊木が声をかける。
ユーフォニアム。
ホルン。
そして、テナーサックス。
それぞれの音が重なっていく。
一本だった音が、二つになり、三つになる。
まだ完全には噛み合っていない。それぞれが自分の音を探しながら、少しずつ周囲へ耳を向けていく。
「Cグループ」
今度はトランペットとアルトサックス。
高い音域が加わり、教室の空気が一気に広がった。
低音から中音、高音へ。
八人分の音が、少しずつ一つの空間を満たしていく。
――まだ、合いきれていない。
音程も。
音色も。
息の流れも。
それぞれが、ほんの少しずつ違っている。
けれど。
響は、自分のチューナーへ目を向けていた。
針は――真っ直ぐだった。
微動だにしない。
まるで、最初からそこに線が引かれていたかのように。
「……」
響は何も言わず、画面を見つめる。
あまりにも正確だった。
音をちゃんと拾えているのかと、心配になるほどに。
もう一度吹いてみる。
針は、やはり真っ直ぐだった。
周囲では、まだ一人ひとりが自分の音を探している。
その中で、響の音程だけは、まるで機械が出した音のように、寸分の狂いもなかった。
そして、チューニングが終わる。
柊木は一度、全員の顔を見渡した。
「……よし」
そして、来島へ視線を向けた。
「まず来島君」
「はい」
「さっきも言ったけど、音程がまだ安定してない。特に低音を出そうとすると、息が落ちて音が下がる。低い音を出すことばかり意識するんじゃなくて、ちゃんと息を支えて」
「……はい」
来島は素直に頷いた。
柊木は続ける。
「それと、音の立ち上がりが遅い。周りに合わせようとしてから音を出してる感じがある。アンコンは八人しかいないんだから、一人が遅れたらそれだけで目立つ。自分の音をもっとはっきり持って」
「はい」
来島は、ただ静かに頷いた。
次に、柊木は都築を見る。
「都築先輩も」
「うん」
「音程は安定してます。音もまとまってる。でも、まとまりすぎてる」
「……」
「音の長さも、フレーズの作り方も、全部きれいに揃えようとしすぎです。結果として、何を吹いても同じに聴こえる」
都築は黙って聞いている。
「テナーはこの編成の中で、もっと動いていいと思います。音を置くだけじゃなくて、次の音へどう繋げるのか考えてください。今のままだと、間違ってはいないけど、何も残らない」
少し厳しい言葉だった。
それでも、都築は表情を変えなかった。
「……分かった」
そう言って、静かに頷く。
二人とも、言い返すことはなかった。
ただ、自分に向けられた言葉を受け止めるように、何度も頷いていた。
その様子を眺めていた夢天が、ぽつりと口を開く。
「なんや、なかなか容赦のない言い方やな。そんなバッサリ切り捨て御免しなくたって――」
「夢天、黙れ」
言い切るより早かった。
柊木が、冷たい目で夢天を見る。
「はい、すみませ〜ん」
夢天は素直に両手を上げた。
それ以上、何も言わない。
さっきまであれだけ喋っていた男が、今度は本当に静かになった。
教室に、再び静寂が戻る。
柊木はそんな夢天を一瞥したあと、もう一度全員を見る。
「……じゃあ、頭から通します」
柊木は、当たり前のように言った。
「えっ?」
鶲切が、少し不機嫌そうな顔をする。
「そんな、いきなり? まだ譜読みが――」
「譜読みは終わらせるって、そういう話になったよね?」
柊木は、またもバッサリと答えた。
「校内予選まで全然時間がない。さっさと合わせない? って言い出したのは?」
柊木は鶲切を見る。
「鶲切さん。君じゃないの?」
「……」
鶲切は何も言えなかった。
確かに、その通りだった。
校内予選まで、もう時間はほとんど残されていない。
譜読みが完璧になるのを待っていたら、いつまで経っても合奏には入れない。
そんなことは、鶲切自身も分かっていた。
「……」
教室の空気が、少しだけ重くなる。
すると。
都築が、柊木へ一歩近づいた。
「ま、まぁまぁ……」
都築は二人の間に入るように、少し困ったような笑みを浮かべる。
「こんなところで色々言い争っても仕方ないでしょ?とりあえず、譜読みはちゃんとする。約束はちゃんと守る。どっちも悪くない。ね?」
「……」
柊木は黙った。
鶲切も、それ以上何も言わない。
しばらくして、柊木が小さく息を吐いた。
「……分かりました」
流石に、これ以上口を出すことはしなかった。
そんな柊木の様子を確認してから、都築が全員を見渡す。
そして、少しだけ声を張った。
「じゃ、じゃあ……とりあえず、頭から通してみよっか」
八人が、それぞれ楽器を構え直す。
譜面に視線が集まった。
「――ワン、ツー、さん、しッ」
八人の楽器が、一斉に音を放った。
トランペットのはっきりとした音がまっすぐ飛んでいく。
来島のチューバが、教室の床を震わせるように響く。
低く、太い音。
音の輪郭そのものには、確かな芯があった。まだ楽器を完全に扱いきれていないとはいえ、息を入れた瞬間に生まれる響きには、ただ音を鳴らしているだけではない、彼自身の存在感がある。
しかし、その音は安定しなかった。
最初の音がわずかに遅れる。
続く音では、音程がほんの少しだけ下がった。
来島は譜面を追いながら、懸命に息を送り込んでいる。音を外さないように、遅れないように、周囲から浮かないように。
その意識が強すぎるのかもしれない。
他の楽器の音を聴いてから、自分の音を重ねようとしている。
けれど、合奏というものは、誰かの音を確認してから動けばいいというものではない。
八人それぞれが自分の役割を理解し、自分の音を出す。そのうえで互いの響きを聴き、調整し、初めて一つの音楽が形になっていく。
今の来島は、まだその一歩手前にいた。
チューバの音が低いところで揺れる。
その上に、ホルンの音が重なった。
柊木の音だった。
柔らかく、しかし輪郭ははっきりとしている。
音の立ち上がりに迷いはない。譜面を見失うこともなく、必要な音を必要なタイミングで置いていく。
さすがに、というべきか。
先ほどまで厳しい言葉を並べていた本人は、演奏に入った途端、余計な感情を一切持ち込んでいないようだった。
音を出すべきところで出し、休むべきところで休む。
それだけを淡々とこなしている。
そのホルンに、テナーサックスが加わった。
都築の音は、安定していた。
音程が大きく揺れることもない。音のつながりも自然で、楽譜の流れに沿って滑らかにフレーズを運んでいく。
一つ一つの音が、きれいに並んでいた。
きれいに。
あまりにも、きれいに。
前の音から次の音へ。
次の音から、そのまた次へ。
音が途切れることなく流れていく。けれど、その流れには、どこか均一な印象があった。
まるで、同じ大きさの石を一定の間隔で並べていくように。
決して間違ってはいない。
むしろ、整っている。
だが、今のところ、その音だけを聴いて何か強い印象が残るかと問われれば、難しかった。
そして、その上からユーフォの音が重なった。
響の音だった。
その瞬間、合奏の中に、わずかな変化が生まれる。
音量が大きくなったわけではない。
響だけが目立つように吹いたわけでもない。
それでも、彼の音には不思議な存在感があった。
音の輪郭が明瞭で、音程は揺れない。フレーズの中で音が移り変わるたび、その一つ一つが正確な位置に収まっていく。
息の流れにも無駄がない。
音を出す瞬間も、音を切る瞬間も、必要なところに必要なだけの動きがある。
まるで、あらかじめ正解を知っているかのような演奏だった。けれど、響は自分の音だけを聴いているわけではなかった。
いや。
むしろ、聴いているのは周囲の音のほうだった。
ホルンの音の立ち上がり。
テナーサックスのフレーズの長さ。
チューバの音程が下がる瞬間。
それらを耳に入れながら、響は自分の音を変えない。
自分の音を維持したまま、周囲で何が起きているのかを拾い上げている。
その様子は、演奏しているというより、何かを観察しているようでもあった。もちろん、響自身も楽譜を追い、指を動かし、息を使っている。
だが、その意識の一部は、すでに自分の担当するパートの外側に向いていた。
誰が遅れたのか。
どの音が不安定だったのか。
誰が周囲に合わせようとしているのか。
そして、誰が周囲を聴いていないのか。
八人の音が重なる中で、響はそれらを一つずつ拾っていた。
そこへ、次のトランペットが重なる。
田邊の音は、合奏の中でも比較的明るく、よく通った。
高い音域に向かって音が伸びていく。
ただし、フレーズの途中でわずかに力が入り、音のつながりが硬くなる部分があった。音を外さないようにする意識が、かえって演奏を窮屈にしているのかもしれない。
さらに、アルトサックスの音が重なる。
鶲切の音は、しっかりと前に出ていた。
自分の音を埋もれさせまいとする意識があるのだろう。フレーズの中には勢いがあり、音そのものにも存在感がある。
しかし、勢いがあることと、周囲と調和していることは別だった。
トランペットとアルトサックスが高音域で重なる場面では、それぞれが自分の音を出そうとするあまり、音の輪郭がぶつかり合っていた。
どちらかが間違っているわけではない。
それぞれのパートだけを聴けば、成立している箇所もある。
だが、二つの音が重なったとき、互いの役割を意識できているかといえば、まだ怪しかった。
後方から、打楽器の音が加わっていく。
向井の音が、一定の拍を刻む。
夢天の音が、その拍に重なった。
打楽器が入ることで、それまで曖昧だった合奏の輪郭が、少しだけはっきりする。
リズムの基準が生まれ、他の楽器もそこに乗ろうとする。
向井は比較的慎重に、周囲の様子をうかがいながら音を置いていた。
一方で、夢天は違った。
迷いがない。
譜面を追う目に戸惑いはなく、必要なタイミングで必要な音を鳴らしている。しかも、ただ譜面どおりに叩いているだけではなかった。
音の長さ。
打点の位置。
ほかの楽器のフレーズとの関係。
そのあたりを、当たり前のように把握している。
普段のあの調子からは想像しづらいほど、演奏中の動きには無駄がなかった。
もっとも、夢天の打楽器が加わったからといって、八人の演奏が一気にまとまったわけではない。むしろ、これまで隠れていた問題が、少しずつ浮かび上がってくる。
チューバの音が、ほんの少し遅れる。その遅れに気づいた誰かが、つられるようにタイミングをずらす。
別の誰かは、ずれないように自分のテンポを維持する。
結果として、同じ拍を演奏しているはずなのに、音の出る位置が微妙に異なっていた。
音程もそうだった。
低音が下がれば、周囲の音との響き方が変わる。
それを補おうとする者がいる。
けれど、補おうとした音が別の音とぶつかり、今度はそちらの響きが濁る。
さらに、その濁りを気にして音を抑える者がいれば、今度は全体のバランスが崩れてしまう。
一つの問題を解決しようとした結果、別の問題が生まれる。
そんなことが、合奏のあちこちで起きていた。
八人とも、音は出している。
譜面を追っている。
自分のパートを演奏している。
それなのに、全員の音が同じ方向へ向かっているようには聞こえなかった。
ある者は自分の音を守ろうとし。
ある者は周囲に合わせようとし。
ある者は譜面を追うことに精いっぱいで。
ある者は、周囲の音を聴きながらも、自分からどう働きかければいいのか分かっていない。
それぞれが、それぞれのやり方で演奏していた。
それぞれが、それぞれの正しさを持っていた。
そして、その正しさは、まだ一つになっていなかった。
響は、そのすべてを聴いていた。自分のパートを演奏しながら、八人の音を聴く。
チューバの不安定な低音。
ホルンの明瞭な輪郭。
テナーサックスの均一なフレーズ。
トランペットとアルトサックスのぶつかり合い。
打楽器が刻む拍。
その中で、自分のユーフォニアムがどのように響いているのかも、正確に把握している。
少なくとも、本人はそうしているつもりだった。
けれど、八人の音を聴けば聴くほど、明らかになっていくことがある。
この合奏には、まだ足りないものが多すぎる。
誰か一人が下手だから、という話ではない。
誰か一人が楽譜を読めていないから、という話でもない。
それぞれの技術を並べただけでは、音楽にはならないのだ。
どれほど正確に音を出せても。
どれほど美しい音色を持っていても。
どれほど優れた技術があっても。
互いの音を聴き、互いの役割を理解し、同じ音楽を作ろうとしなければ、八人で演奏する意味は生まれない。
今、教室に響いているのは、八人分の音だった。
八人で作り上げた音楽ではない。
その違いは、思っていた以上に大きかった。
柊木は最後まで演奏を続けた。
途中で止めることも、誰かを注意することもない。
まずは一度、全体を通してみる。
そう決めた以上、ここで止めるつもりはなかった。
都築も、最後まで周囲の音を聴きながら吹き続けていた。
来島は何度か音を揺らしながらも、必死に息を送り込んでいた。
田邊と鶲切は、それぞれの音を前へ押し出していた。
向井は拍を刻み、夢天は迷いなく打楽器を鳴らしている。
そして響は。
最後の音が鳴り終わる、その瞬間まで。
誰一人として見逃さないかのように、八人の音を聴き続けていた。
「……なかなか、面白い組み合わせが多いですね」
提出された一覧表に目を落としながら、瞬崎は感心したように呟いた。
アンコンに出場するチームが、ようやく決まった。
守田はその結果をまとめた表を持参し、こうして顧問である瞬崎へ提出していた。
「それに、永井さんと天奏さんはソロコンですか。いいですね」
「……って、二人から話、聞いてなかったんですか?」
思わず、守田が尋ねた。
瞬崎は顔を上げると、少しだけ困ったように笑った。
「これは失礼。確かに、前にお話はされましたね」
「ですよね……」
「最近、ド忘れが酷いので。この時期は、あまり部員の皆さんの演奏を毎日見るわけではないですから」
「そうですね」
守田は苦笑しながら頷いた。
大会が近づけば、部員たちの練習もそれぞれのチームを中心としたものになっていく。
顧問として全員の様子を把握しているつもりでも、毎日、一人ひとりの演奏を直接確認できるわけではない。
そういう時期だった。
瞬崎はもう一度、一覧表へ視線を戻した。上から順番に、チーム名と部員の名前を追っていく。
そして。
「……おや?」
ふと、指先が止まった。
「守田さん。あなたは如月さんと二人なのですか?」
「はい」
守田は、特に隠す様子もなく答えた。
瞬崎は表と守田を交互に見たあと、穏やかな口調で続けた。
「二人でアンコンとなると、なかなか厳しいと思いますが」
「それは分かってます」
守田は即答した。
「もともとファゴットって、あまりチームを組みづらい楽器でもありますし。一緒に組もうとしていた天奏さんはソロコンに行ってしまったので」
「なるほど」
瞬崎は静かに頷いた。
守田はそこで、一度言葉を切った。
そして、瞬崎の目をまっすぐに見つめる。
「奏多君の技術向上をと思って」
その声に、迷いはなかった。
自分が大会に出るため。
自分の演奏を磨くため。
そういう目的ではない。
後輩に、少しでも多くの経験を積ませたい。今の奏多に必要なものを考えたとき、守田が選んだのは、大会に出ることではなく、二人で練習する時間だった。
瞬崎は、しばらく守田を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「それは、とても良い考えですね。流石部長です」
「……いえ、そんな」
守田は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
瞬崎は再び、一覧表へ目を落とす。
そこには、いくつものチーム名が並んでいた。
それぞれの事情。
それぞれの目標。
それぞれが選んだ、これからの舞台。
その表の最後の枠に、ひっそりと名前が並んでいた。
ファゴット二重奏
二年 守田木乃香
一年 如月奏多
もう、君と話すことなんて、何もない。




