16 見た目詐欺没落令息改め新米公爵令息は、新天地に降り立ちます。
ブライアン様、ブライアン様と肩を揺すられて、ブライアンはゆっくりと目を開けた。最初に見えたのは、向かいに座っているメイドのファルマだ。肩の高さで切りそろえた茶色いくせ毛が、今日もなかなかにくるくるだ。
「おはよう、ファルマ」
「おはようございます、ブライアン坊ちゃん」
ブライアンの肩を揺すった犯人である隣の執事をきれいに無視すれば、ハアっとあからさまな溜息が聞こえる。ガラガラと車輪の音が大きく聞こえるのに、馬車の中はそれほど揺れずに快適だ。
さすがは高級馬車、お金の力は素晴らしい。
「最初にお会いした時には、ずいぶんと頼りなさそ……いえ、優し気な方だと思ったのですがどうしてどうして、ブライアン様はずぶと……いえ、大物ですな」
「そんなに褒めなくても」
「褒めておりません」
もしもブライアンが本当に図太い神経の持ち主だとしたら、それは底辺の貧乏暮らしを経験したおかげだろうか。明日のパンの心配をしないでいいのだから、今の状況はブライアンにとって楽なものなのだ。
「そろそろ昼食休憩かな」
「昼食でしたら先ほど、召し上がりましたでしょう」
「そうだったかな」
「若いのにボケましたか」
「マルクもかなり図太いと思うけど」
ボードレール家に行くことを承諾した以上は、ブライアンは次のボードレール公爵だ。つまり、執事であるマルクにとっては敬うべき主人ということになる。
なのに、慇懃無礼なこの態度だ。
それは、ブライアンがミレーヌの息子だから侮っているということだろう。ミレーヌは、先先先先代のボードレール公爵ゲイリーが、愛人との間にもうけた娘だ。
「それより、もうすぐ着きますよ」
「どこに?」
「ボードレール公爵家に決まっているでしょうがっ!」
ブライアンのとぼけた受け答えに簡単に翻弄される執事を見て、ファルマが笑いを堪えている。元からあまり感情が顔に出ないファルマだからマルクには気づかれていないだろうが、ブライアンにはわかる。口の端がほんの少しあがっているのだ。
「まったく、このお坊ちゃまは……」
このマルクという老執事は、実務能力には目を瞠るものがあるが、公爵家の執事としてはどうなんだと思うほどに直情的なのだ。これならファラー伯爵家のクラークの方がよほど優秀な執事だろうし、口の端はあがっているものの見事にすまし顔を保っているファルマにも負けている。
両親と使用人たちに見送られて、ブライアンが旅立ってからもうひと月近くが過ぎた。そんな長い旅など初めてなブライアンにとって辛い道中になるかと思えば、衣食住に困ることなど一切なく、どうしてもお供しますと言ってきかなかったファルマが至れり尽くせりの世話を焼いてくれるおかげで、辛いなんて思うことのないひと月だったのだ。
おまけに、乗っているのは高級馬車だ。長時間乗り続けても、腰や尻が痛くなることもない。
「タイが曲がっています、締め直してください。到着したら、すぐに旦那様と面談していただきます」
さて、ひと月に及ぶ旅の果てにいよいよ元凶とまみえる時が来たらしい。
ボードレール公爵家の屋敷は、ファラー伯爵邸とは比べるのもむなしくなるような規模だった。城か、王城なのかと疑いたくなるような威容を誇っている。
正門をくぐってからも馬車は、しばらく走り続けた。ようやく屋敷に辿り着けば、ブライアンが馬車を降りた途端に両開きの大きな扉がバーンと開く。
「お帰りなさいませ、ブライアン様」
中に入ると、揃いのお仕着せを着たメイドたちが二列に整列して、全員が同じ角度で頭を下げていた。メイドたちの後ろには、きっちりとタイをしめた男性使用人たちが、これまた同じ角度で頭を下げている。何人いるのかとブライアンは数えかけたが、十人を超えたところで馬鹿らしくなってやめた。
「お帰りなさいませ、お待ちしておりました」
「ただいま、って言っていいのかな。初めて来たのだけれど」
「もちろん、ただいまでよろしいのです。ここは、ブライアン様のお屋敷でございますので」
メイドの列から五十歳は過ぎているだろうと思われる婦人が進み出て来て、ブライアンが腕にかけていたコートを預かった。他のメイドたちとは違い、エプロンをつけていない。襟のつまった黒いドレスは、足首までの長さだ。
「名前を聞いても?」
「マチルドと申します」
「そう、よろしくマチルド」
「恐れ多いことでございます」
どうやら、彼女がハウスキーパーらしい。メイドたちを束ねる、女性使用人のトップだ。
「ブライアン様、参りましょう」
そう言って、マルクが先に立って歩きだす。
本当に、お茶の一杯も飲む間もなく挨拶に行かなくてはならないらしい。ひと月も旅して来た者に対して、なかなかにひどい仕打ちではないだろうか。もっともファルマの献身と、高級馬車のおかげでブライアンは、そんなには疲れていないのだけれど。
階段を上がり、長い長い廊下を歩いた先に祖父の部屋はあった。公爵位は叔父のブレナンが継いでいるけれど、今でも一番上等な部屋は祖父のものであるのだろう。
「お前がブライアンか」
そのしわがれた声も相まって、枯れ木のような老人だと思った。水分が抜けて、カラカラに乾いてしまっているのにまだ未練がましく大地にしがみついている、醜悪な化け物。
驚くほどに広く豪華な部屋は、だけどほとんどのカーテンが閉められていることもあって薄暗かった。一つだけカーテンが引かれていない窓のところに置かれた椅子に座ってブライアンの祖父、ゲイリー・ボードレールがブライアンを値踏みするように目をすがめた。
「確かに見事な金髪だな。その鮮やかな碧眼もいい、父上と同じ色だ」
この老人の父と言えば、先先先先先代の……ああ、もう面倒くさいな。つまりとっくの昔に亡くなった、王弟だったという人物のことだろう。
「マルク、よくやった。なかなかいい買い物だったようだな」
「恐れ入ります」
孫をつかまえて、買い物と言い捨てる老人をブライアンはただ物珍しそうに見つめた。マルクがしきりに合図を送って来るので、仕方なく一歩だけ前に出た。挨拶をしろ、ということだ。
「お初にお目にかかります、お爺様。ブライアン・ファラーでございます」
「ファラーではない、ブライアン・ボードレールだ」
「ファラーの姓を捨てるつもりはございません」
「なんだと?」
マルクが必死の形相で、やめろ、逆らうなと合図している。鬱陶しいこと、この上ない。
「生意気な、ミレーヌに似たか」
「母は、生意気なのではございません。芯の強い女性なのです」
睨まれたが、強い眼光もこう薄暗くては怖がりようがない。ブライアンは涼しい顔で老人の前に立ち続けた。
「……まあ、いいだろう。それぐらいの覇気がなければ、貴族社会では生き残れないからな。そうだな、ファラーは伯爵家だったか。なら今日から貴様は、ブライアン・ファラー・ボードレールと名乗れ」
「承知いたしました」
軽く頭をさげれば、それで終わりだった。ゲイリーはブライアンへの興味を失ったように、窓の方を向いてしまった。
軽く肩をすくめてから、ブライアンは体の向きを変えた。すたすたと扉に向かって歩けば、マルクが慌てて先回りをして開ける。
祖父の部屋を出た途端に、世界が明るさを取り戻した。廊下の片側が窓になっているために午後の日差しが降り注いでいるだけのことなのだが、何だか闇の底から戻って来たような気がした。
「叔父上に挨拶は、しなくていいの?」
母の腹違いの弟であるブレナンは、現ボードレール公爵だ。実権を握っているのが祖父だとしても、この家の長は叔父であるはずだ。だったら挨拶に行くのが礼儀だろうと思ったのだが、マルクは首を横に振った。
「そちらは、またのちほどということで」
「そう?」
「はい、ブレナン様の体調のよい時を見計らってお声がけさせていただきますので」
「わかった」
叔父への挨拶はあとでいいとマルクが言うのなら、それでいいのだろう。別に緊張したわけでもないのに祖父との面会でどっと疲れた気がするから、そろそろゆっくりしたいものだ。
「僕の部屋は、あるのかな」
「もちろんでございます」
「じゃあ、案内して」
ようやく休めるかと思いながらマルクについて歩き出すと、いくらも行かないうちに行く手を遮る者が出現した。マルクが立ち止まったので、ブライアンも足を止めた。不躾な視線がブライアンに向けられる。
「あら嫌だ、なかなか見目のいい子じゃないの」
「そうね、顔だけは合格ね」
「ナディア、この子ならいいのではないの?」
「ええ、お母様。期待はしていなかったのだけれど、これなら我慢できそうよ」
ブライアンの前に立ちふさがったのは、二人の女性だった。どちらも派手なドレスにじゃらじゃらと音が鳴りそうなくらいに宝石を身に着けている。
真っ赤なドレスを着ている方が紫のドレスを着ている方をお母様と呼んだことから親子なのだろうと察せられるが、それにしてもこの二人は誰なのだろう? 服装からして使用人ではないだろうし、だけどマルクの話を聞く限りではこの屋敷に使用人以外の女性はいないと思うのだけれど。
「これはオルタンス様、ナディア様、こんなところで何をなさっておられますかな」
二人に相対するマルクの声が低い。警戒しているのか、いつになくマルクの背中が強張っているように見える。
「ミレーヌの子が着いたというから顔を見に来たのよ。いずれはナディアの夫になるのだもの、当然でしょう?」
娘はナディアと呼ばれていたから、母親の方がオルタンスなのだろう。ナディアの夫になるとか何とか聞こえたのだけれど、幻聴だろうか。
「何をおっしゃっいますか、ブライアン様はナディア様と結婚などなさいませんよ」
幻聴ではなかったらしい、だけど結婚はしなくていいらしい。というか、この二人は誰?
「ブライアン様、オルタンス様は先代ボートレール公オースティン様の自称奥様、ナディア様は自称お嬢様であらせられます」
誰だよと念を送ったのが功を制したのか、マルクが振り向いて教えてくれた。自称、のところを明らかに強調しての説明だ。
「自称ってなによ、私はオースティンの妻よ!」
「証拠がございませんから、自称でございましょう」
「私がオースティンに愛されていたという事実に証拠なんていらないわ」
母の次兄であるオースティン伯父は確か、生涯を通して未婚であったはずだ。その妻ということは、内縁関係だったということだろうか。もしこのナディアという娘が本当にオースティン伯父の娘なのなら、ブライアンとは従妹同士ということになる。
「果てさて、それが真実であるかどうか」
「お前、執事の分際で生意気よ」
「これは、失礼いたしました」
マルクがゆったりと頭をさげる。慇懃無礼な態度をとらせたら、マルクの右に出る者はいないだろうとブライアンは思っている。
「申し訳ありませんが、ブライアン様は長旅でお疲れです。早くお休みいただきたいので、これで失礼いたします」
「待ちなさい、話はまだ終わっていないわ。ブライアン、伯母に挨拶くらいしなさいよ!」
「そうよ、私にも挨拶なさい。あなたの妻になってあげるって言っているのだから、何か言うことがあるわよね?」
「お二人とも、いい加減になさいませ」
なんとか二人からブライアンを庇おうと奮闘しているマルクを制して、ブライアンは前に出た。ナディアの前に立ってにっこりとほほ笑むと、見る見るうちにナディアの顔がその派手なドレスと同じ色、つまり赤に染まった。
「僕と結婚していただけるとのことですが」
「え……ええ、そうよ」
「謹んでお断りします」
ポカンと口を開けたナディアを置き去りに歩き出せば、慌ててマルクが追いかけて来る。なによとか、待ちなさいよとか聞こえたが、待つわけもない。
「ブライアン様」
「なんだい、マルク」
「私は、今ほどブライアン様の図太さを好ましく思ったことはございません」
「うん、マルクも相当に図太いよね」
ファラー伯爵家の執事であるクラークは、おっとりとした穏やかで優しい人柄であったが、それはファラー伯爵家が権力争いなどとは程遠い家であったからそれでよかったのだと今ならわかる。それに対してこのマルクは、老獪という言葉がぴったりと当てはまるような執事だ。公爵家ともなれば、これくらいでなければ務まらないのかもしれない。
「ブライアン様のお部屋は、こちらでございます」
マルクが案内してくれた部屋は長かった廊下の終点、二階の角の部屋だった。
「こちら、以前はミレーヌ様がお使いになられておりました。マチルドがこちらのお部屋がいいだろうと整えたそうでございます」
「母の部屋ということは、悪い部屋なの?」
「どうしてそうなるのです、よいお部屋でございますよ。日当たりがよく、お庭を一望できます」
「もしかして、母上が自分で選んだ部屋なのかな?」
「さあ、そこまでは存じませんが、どうしてそう思われたのですか?」
「いや、なんとなく」
祖父を部屋を出て、廊下をかなり歩いた。それはつまり広大な屋敷の端と端、母が元凶と呼ぶかの老人の部屋から最も遠い部屋ということではないだろうか。
「どうぞ、お入りくださいませ」
「おお……」
それは、確かにいい部屋だった。広く、明るい。祖父の部屋が薄暗かっただけに、余計に明るく感じる。
「調度品は、変えたの?」
「はい、女性らしいお部屋でしたので、男性が好まれるようなお部屋に模様替えさせていただきました」
母が使っていたそのままの部屋を見てみたかった気もするけれど、ブライアンのために整えてくれたのだから文句はない。
「テラスもあるんだね」
「お天気のよい日はそちらでお食事を召し上がるのもよろしいかと」
窓から外を見ると、これまた呆れるほど広い庭が広がっている。まだ花はちらほらとしか咲いていないようだが、暖かくなればきっと鮮やかな色彩がブライアンの目を楽しませてくれるだろう。
「ありがとう、とてもいい部屋だ」
「恐れ入ります」
ノックの音にマルクが答えると、ファルマがワゴンを押して入って来た。到着して早々にお茶の用意をしてくれたようだ。
「ありがとう、ファルマ。ちょうどお茶が欲しいなと思っていたところだよ」
「お疲れでしょう、お砂糖をお入れいたしましょうか」
「はちみつがいいな、ある?」
「もちろん、ございます」
身内の贔屓目を抜きにしてもファルマは、かなり美人だと言っていいだろう。癖のある茶色い髪にぱっちりと大きな緑色の瞳。あまりお喋りな方ではなく、大人しい印象だ。賑やかなのはあまり得意ではないそうで、一人で編み物をしている方が好きなのだとか。ブライアンより四歳上だから、今年で二十一歳。これだけの美女ならさぞやもてるだろうに、浮いた話一つもなくブライアンに仕えてくれている。
「そのメイド服……」
「はい、着替えさせていただきました」
「すごく似合ってる」
「ありがとうございます」
旅の間は、平民でも上流階級の令嬢が着るような上品な外出着に身を包んでいたファルマだが、今は黒いお仕着せを着ている。先ほど、エントランスで並んでいたメイドたちが着ていたのと同じ物ようだから、早速支給してもらったのだろう。
「ああ、ほっとする味だ」
はちみつが溶け込んだ紅茶はほんのりと甘く、ブライアンの冷えた体を内側から温めてくれた。覚悟してここまで来たものの、やはり疲れる。体ではなく、心が疲れるのだ。祖父だけならまだしも、あの強烈な二人の女性の声が残り少なくなっていたブライアンの気力をガリガリと削ってくれた。
「それでマルク、さっきのご婦人方は僕の想像通りなのかな?」
「はい、オースティン様が生前にオルタンス様を援助されていたのは事実のようでございます。しかし、ナディア様がオースティン様のお子であるかどうかは、疑わしいのでございます」
援助とは、愛人として囲っていたという意味だろう。放蕩者だったらしいから、そんな女性の一人や二人、もしかしたらそれ以上いたとしても不思議ではない。
「オースティン伯父様が亡くなられてから名乗り出て来た?」
「さようでございます」
「どうして追い出さないの」
「それが、ナディア様がオースティン様が大切にされていた懐中時計をお持ちだったのです。それは、オースティン様が陛下から……今の国王陛下でございますが、陛下とご学友であらせられた頃にいただいたという二つとないお品でして。それをお父様からいただいたとナディア様がお持ちだったのです。そんな大切な物を贈ったということは、もしかしたら本当にオースティン様のお子なのかもしれないということになったのでございます」
「うーん、あやしいような気がするけれど」
「私もそう思いますが、何かに利用できるかもしれないからと旦那様が」
「ああ、成程」
王太子妃にしようと母を引き取ったように、何かの駒に使えるかもしれないということだろう。あの母娘を飼うことぐらい、ボードレール家にとっては何でもないことであるだろうし。
「僕と結婚するというのは?」
「それは、次期ボードレール公爵夫人になるつもりなのでございましょう」
「うん、聞くまでもなかったよ」
怖ろしいことに、どうもナディアの中ではブライアンと結婚することが確定しているようだ。どうしたらあんな風に思い込めるのか、理解に苦しむ。
「ブライアン様がきっぱりとお断りになられたのでこのマルク、胸がすく思いでございました」
「それは、よかった」
「はい、ありがとう存じます」
マルクの胸はすいたかもしれないけれど、ブライアンはひどく疲れた。ほんのりと甘い紅茶を飲み干して、ブライアンはふうっと息を吐いた。
「ファルマ、お茶のおかわりをもらえるかな」
「はちみつをお入れしますか?」
「うん、たっぷりとお願い」
「はい、たっぷりと」
お茶を用意しているファルマを見ながらブライアンは、ここでの生活は想像していたよりもっとずっと疲れそうだと思った。
長らくお待たせしてしまって、申し訳ありませんでした。
まだお待ちいただけていたら嬉しいのですが。
もっと早くお届けするつもりだったのですが、この数か月の間に我が家は大混乱でして。
いや、本当にどうしてこんなに次から次へと、と思います。
前世でよほど悪行を積んだのでしょう、多分。
時間がないわけではなかったのですが、小説を書く気力がなくて。
まだ落ち着いてはいないのですが、気持ち的に開き直ってきたので再開します。
また途中で止めてしまうかもしれませんが、それでも完結を目指しますので!
お話の方は、二章の半分くらいまで書き進んでいる感じです。
本当は、最後まで書き上げてからサクサクと投稿するつもりだったのですが、それだといつになるかわからないので、見切り発車ののんびり投稿にすることにしました。
おつき合いいただけると嬉しいです。




