君はまだ僕の本気をわかってくれない
ごく普通の会社員として日々を過ごしていた相良紅緒の元へ異世界から召喚状が届くようになり、早四年。
始まりは、一通の無記名の手紙。
不審に思うも封を開けたら、次の瞬間、なぜか土砂降りの雨の中だった。
地面を叩きつけるような激しい雨に打たれて、人が一人、こちらに背を向けて立っていた。
ややあってゆっくりと振り返った相手は若い男性で、ぞっとするほど無表情。その生気の欠片もない眼にじっと見つめられ、僅かな会話を交わしたことがきっかけとなり、異世界と行き来するようになったのだ。
紅緒は身支度を整えた。万能通訳付き魔法のピアスと身分証兼緊急連絡用の指輪を嵌める。それから二日分のお泊り道具を用意して、靴を履けば準備完了だ。
昨夜届いた召喚状の封を切る。たちまち光が溢れて眩しさに眼を瞑れば、たちどころに境界を越え、異世界へと連れ去られる。
到着先は、いつも決まっている。
ダスタ・フォーン国。
一日三〇時間、一ヶ月が四十五日。
季節は春・夏・蒼・秋・冬に分かれていて、それぞれ月が一つ・二つ・蒼・三つ・四つと徐々に増えていく。中でも蒼は特別の季節で、三日間の日食中、蒼い月が昇る。
いまは夏なので、夜になれば空に輝く月は二つだ。
紅緒は眼を開けた。
「――ベニオ!」
はしゃいだ呼び声と共にわっと飛びついてきたのは、大魔法使いリゼ・クラヴィエ。
彼は紅緒より頭一つ以上も背が高く、長い金髪を紐で一つに結い上げて、紅緒を見つめる紺青の眼は彼女が「うっ」と一瞬ドン引くくらいキラキラと無駄に輝いている。
「会いたかった!! いらっしゃい、ベニオ!」
感極まって叫ぶリゼの胸に遠慮も手加減もなく、ムギュウと抱き潰される。
そして頭にすり寄って、放っておけば気が済むまで離さない。
紅緒はここ異世界で、この直情的な性格の魔法使いの助手をしている。
仕事内容は筆記作業、実験の補佐、整理整頓など、ほぼ雑用と家事全般。
リゼの自宅兼研究室は小さな一軒家で、厨房とベッド、それに食事場所を除いては、様々な実験道具や魔法書、作業台や薬瓶、試薬品などで散らかり放題だ。
紅緒はもがいた。リゼの胸板は厚くて硬い。このままでは圧死してしまう。
「はいはいはい。わかったから、離して、リゼ。苦しいよ」
「ごめん!」
苦痛を訴えると二本の腕は同時にパッと離れ、即解放された。
リゼは後ろ手を組み、身を屈めて、申し訳なさそうに紅緒の顔を覗き込む。
「あ、あの、大丈夫? 久しぶりに会えたから嬉しくて、つい力が入っちゃった」
「ん、平気」
相槌を打ちながら紅緒はニコっと笑う。
途端にリゼの表情が明るくなり、今度は背後から軽く抱きしめられた。
「会いたかったよ。ずっと待ってたんだ」
「ずっとって、たかが一週間でしょ」
おおげさなリゼの主張に半ば呆れながら紅緒が言い返すと、リゼは反論してきた。
「君のいない一週間は長いよ! 寂しくてひもじくて一睡もできないくらい長い!」
主張が一部、聞き捨てならない内容だ。
紅緒は頭をのけ反らせ、上目遣いでリゼを睨んだ。
「……ひもじくて一睡もできないって、どういうこと? まさか、食事も睡眠もとっていないわけじゃないよね?」
「うっ」
声を詰まらせ、口を横一文字に結び、リゼの眼が泳ぐ。
紅緒はリゼの手の甲をペシペシと叩きながら威圧した。
「リ・ゼ? こら、なんとか言いなさい」
紅緒が強く睨むと、リゼは観念したように肩をすぼめて言い訳した。
「……だって君のおかずの作り置き分は全部食べちゃったし、僕が自分で作るごはんはまずいし、面倒くさい。食事に手間をかける時間があるなら実験にかけるほうが有意義だし、第一、二日や三日食べなくても別に死にやしない――あ」
自分の失言に気づいて、リゼは「しまった」という顔をした。
紅緒は驚いて眼を瞠って言う。
「三日も食べてないの!?」
それに呼応するように、リゼの腹が「グー」と鳴った。
紅緒はリゼの手を振り解き、彼に向き直って、腰に手をあて、ガミガミと怒った。
「信じられない! いつも言っているでしょ。食事と睡眠は絶対にとるようにって! そんな不規則な生活ばかりしているから、体調を崩したり、空腹で倒れたりするのよ」
「ごめんなさい」
「反省は?」
「してます、してます」
叱られてしょんぼりと肩を落とすリゼの顔色は、お世辞にも良いとは言えない。
紅緒は一つ嘆息して、踵を返した。
「とにかく、座って待ってて。ごはん作ってあげる」
「大好き、ベニオ!」
感激して両腕を大きく広げ飛びついてきたリゼの顔面をベシッとはたく。
それでも尚懲りずにリゼは紅緒にまとわりついた。
「あのね、食材はたくさん買い込んであるから。買い物は行かなくても大丈夫」
紅緒は専用の白いエプロンを身に着けて、厨房に足を運び、はじめに氷蔵庫を覗き、次に木箱の中の野菜をチェックした。
どちらも限界まで食材が詰め込まれている。
「用意周到ね?」
「準備万端って言ってほしいなあ」
得意げに笑ってリゼは続ける。
「僕、ベニオのごはん大好き。君の作る料理はなんでも世界一おいしいと思う! だからいっぱい作ってね。僕、ありったけ食べる」
「はいはい」
氷蔵庫から肉や魚を取り出しつつ、適当に応答する紅緒の背後で、リゼはもじもじと恥ずかしそうに指をいじりながら喋る。
「そのう、できれば一生、君の手料理だけ食べたいくらいなんだけど。あ、いや、でも、大好きなのはごはんだけじゃないよ。ぼ、僕が好きなのはベニオだから。なにより君が、一番大事なんだ」
「はいはい。リゼ、なにか食べたいものある?」
「またサラッと流すし!」
リゼは呻いて、がっくりとうなだれた。
それから食卓に両手をつき、下を向いたままブツブツと言う。
「くそっ、なんでいつもいつもこうなんだ。さりげなく伝えるからダメなのか? いや、いまのは結構グッとくる殺し文句だったはず。なんで通じないんだ? どこがいけない? ムードか? それともここはやっぱり一気に畳みかけるべきか!?」
紅緒が胃に優しくて栄養たっぷりなメニューを考え、食材を用意する間ずっとリゼは悶々と独り言を垂れ流していた。そんなリゼを振り返り言う。
「いつまでブツブツ言ってるの? はい、布巾。食卓拭いて、カトラリー出して」
「はあい」
リゼが大きな溜め息を吐く。
紅緒は明らかに意気消沈した様子のリゼを見て首を傾げた。
「どうかした?」
「どうもしない。いいんだ、君がニブイのはいまに始まったことじゃないし、焦らなくたって、これから何度でも挑戦すればいいし。そうさ、別に今日じゃなくても明日でも明後日でも毎日でも口説けば、いくらなんだって、いつかはきっと、僕の気持ちをわかってくれるはず……!」
「リゼの気持ち?」
「僕がどれだけ君を好きかってこと」
ジト眼で見られ、恨めしそうに告げられる理由がわからないが、彼の好意は素直に嬉しい。
紅緒はニコッと笑って言った。
「ありがとう。私もリゼのこと好きよ」
「やっぱりわかってない!!」
率直に好意を言葉で返してみたのに、なぜかリゼはハンカチを噛んでシクシクと嘆く。
ややあって、なにか強い決意を秘めたまなざしを紅緒に向け、リゼは涙目で宣言した。
「でもいつの日か絶っ対にっ、わかってもらうからね!!」