第1話「開演前」
長崎の夜は、海風の匂いがする。
会場へ向かう道路には、人の流れが絶えなかった。
ペンライトを持った若者。
仕事帰りのスーツ姿。
地方から来た観光客。
笑い声。
スマホのライト。
車のクラクション。
そのすべてが、今日という日が“特別な祭り”であることを示していた。
大型野外ライブイベント――《NAGASAKI SOUND GATE》。
県内外から数万人が集まる、今年最大規模の音楽フェスだった。
海沿いに設置された巨大ステージでは、照明の試験光が夜空を何度も切り裂いている。
その光景を、少し離れた車の中から眺めている男がいた。
神崎恒一。
長崎県警捜査一課所属、警部補。
助手席には缶コーヒー。
運転席の背もたれには脱ぎかけのジャケット。
ダッシュボードには資料ファイルが乱雑に積まれていた。
「……多いな」
神崎は呟いた。
隣でスマホを見ていた藤堂が鼻で笑う。
「フェスだぞ。そりゃ多い」
「いや、そういう意味じゃねぇよ」
神崎は会場を見たまま続ける。
「“浮かれ方”がだ」
「は?」
「こういう時、人間って周り見なくなる」
藤堂はスマホから目を離さない。
「警察官らしい感想だな」
「だろ?」
神崎は少し笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
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今回の警備は通常のイベント対応ではない。
県警本部には数日前から匿名通報が入っていた。
> 「ライブ会場で何かが起きる」
内容は曖昧。
具体性も低い。
だが、送信経路が妙だった。
海外サーバー経由。
複数言語混在。
しかも削除済みデータの復元時、一部に宗教団体名が含まれていた。
――選別の園。
公安が以前から監視している団体名だった。
しかし決定的証拠はない。
危険思想団体。
それ以上でも以下でもない。
だから今日の神崎たちは“念のため”の配置だった。
念のため。
警察が最も嫌う言葉だ。
なぜなら、その言葉の後には大抵ろくでもない事態が来る。
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「なあ」
藤堂がスマホを見たまま言った。
「お前、あの歌手知ってる?」
「あ?」
「今日のメイン」
神崎は少し考える。
「……名前だけ」
「黒瀬真央。今かなり人気らしいぞ」
「へぇ」
興味は薄かった。
芸能関係には疎い。
だが会場のポスターには、嫌でも彼女の顔が映っている。
黒髪。
強い目。
笑っているのに、どこか孤独そうな顔。
「カリスマって感じだな」
藤堂が言う。
神崎は短く答えた。
「疲れてる顔に見える」
「夢ないなぁ」
「刑事なんてそんなもんだ」
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無線が入る。
『神崎班、配置確認願います』
神崎は受信機を取る。
「こちら神崎班。異常なし」
『了解』
短い通信。
しかし神崎はそのあともしばらく無線を見ていた。
何かが引っかかる。
理由は分からない。
事件前というのは、時々こういう空気になる。
説明できない違和感。
現場に長くいる人間ほど、それを嫌というほど知っている。
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午後六時四十分。
開場開始。
人の流れが一気に動き出した。
歓声。
スタッフの誘導。
屋台の煙。
アルコールの匂い。
若い男たちが騒ぎながら走っていく。
カップルが写真を撮っている。
女子高生たちが黒瀬真央のタオルを掲げて叫んでいる。
平和だった。
あまりにも平和だった。
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「なぁ藤堂」
「ん?」
「もし何か起きるなら、どこだと思う?」
藤堂は少し考えたあと答える。
「人が一番密集してる場所」
「理由は?」
「効率がいい」
その答えに、神崎は小さく頷く。
「だよな」
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その頃。
会場裏。
スタッフ専用通路。
関係者しか入れないエリアを、一人の男が静かに歩いていた。
黒い帽子。
スタッフ用IDカード。
作業服。
誰も気に留めない。
イベントには“知らないスタッフ”が大量にいる。
だからこそ紛れ込める。
男は立ち止まる。
目の前には大型空調設備。
その横に、小型ケースを置いた。
銀色のケース。
ロック解除。
内部には透明な小型容器が並んでいる。
液体はほとんど無色。
男は無言のまま作業を始める。
手慣れていた。
まるで何度も練習したみたいに。
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遠くで歓声が上がる。
リハーサルが始まったらしい。
低音が地面を震わせる。
男は一瞬だけステージ方向を見る。
そして小さく呟いた。
「……観測開始」
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会場内。
神崎は警備導線を歩いていた。
周囲には警備員。
スタッフ。
観客。
誰もが楽しそうだった。
その時。
神崎の視線が、一人の少女で止まる。
小学校低学年くらい。
父親に肩車され、嬉しそうにステージを見ている。
神崎は少しだけ表情を緩めた。
「……平和だな」
藤堂が笑う。
「さっきと真逆じゃねぇか」
「こういう時はな」
神崎は答える。
「平和な方が怖い」
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空の色がゆっくり暗くなっていく。
照明が点灯する。
観客の歓声が膨れ上がる。
巨大スクリーンに文字が映った。
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《NAGASAKI SOUND GATE》
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カウントダウン開始。
十。
九。
八。
観客が一斉に叫ぶ。
七。
六。
五。
神崎は何故か、背筋に寒気を感じた。
四。
三。
二。
会場全体が熱狂する。
一。
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暗転。
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そして、ライブが始まった。




