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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第6話「旅路」

第6話「旅路」


 金色の畑が、いつの間にか消えていた。


 王都を発って六日目。馬車の窓の外には、深い緑の針葉樹が両側から迫っている。


 空気が変わったのは、三日前からだった。


 柔らかかった風が徐々に冷たくなり、今では吸い込むたびに肺の奥が痺れるような鋭さがある。



「エリナお嬢様、お窓はお閉めくださいませ」


 向かいの席でヨハンナが膝掛けを広げながら言った。


「もう少しだけ」


 目を閉じて、冷たい空気を深く吸い込む。


 王都では常に何かを気にしていた。誰が見ているか。何を言われるか。どんな顔を作るべきか。


 ここには、そういう重さがない。馬車の揺れと、針葉樹の匂いだけがある。


(こんなに何も考えないで息ができるのは、いつ以来だろう)


「お嬢様」


 ヨハンナが声をかけてきた。


「少し、お顔の色がよくなりましたね。王都を出られたときより、お目元が柔らかくなられました」


「……そうですか」


 自分では気づかなかった。でも、そうかもしれない。



 六日目の夕刻、馬車は宿場町に停まった。


 街道沿いの小さな町で、旅人や行商人が行き交う活気があった。護衛のベルンハルトとレムケが外に馬の様子を見に行っている間、わたくしはヨハンナと食堂で夕食を取りながら、周囲の会話に耳を傾けた。


「また辺境行きの荷を頼まれたよ。今年の冬は早いからな」


「辺境か。あんな寒い土地、よく人が住んでいられるもんだ」


「ましてや貴族の令嬢が行くところじゃないな。聞いた話じゃ、三人行って三人とも逃げ帰ったとか」


 思わずスプーンが止まった。


(三人来て、三人とも逃げ帰った……)


 不意に、胸の奥がきゅっと縮んだ。



 食後、わたくしはさりげなく行商人の一人に話しかけた。年配の男性で、辺境方面を定期的に回っているという。


「失礼いたします。わたくし、この先を旅する者ですが、辺境のお話をお聞きしてもよろしいかしら」


「ほう、お嬢さんが辺境へ?」


 男性は目を丸くしたが、すぐに人のよさそうな笑顔になった。


「それは奇特な。まあ、道自体は問題ないが……辺境伯様がねえ。厳しい御方でね、補給路の管理は完璧だが、近づきにくいというか。王都からのお客は大抵、肌に合わないと帰って行くよ」


 わたくしは微笑んだ。


「補給路を完璧に管理されている、ということはよく存じておりますわ。それは並大抵の統治力ではできないことですもの」


「……ほう」


 男性は少し驚いた様子で目を細めた。


「お嬢さんはよくご存知で。まあ確かに、辺境がこれだけ機能しているのはカイン伯のおかげだ。ただ、貴族の御方が馴染めるかどうかは別の話でしてね」


「貴重なお話をありがとうございます」


 頭を下げようとしたとき、男性がふと思い出したように付け加えた。


「ああ、もうひとつ。去年の冬、大雪で街道が塞がれたことがあってね。南の村に薬草が届かなくなったんだが——カイン伯が自ら馬を走らせて、吹雪の中を一日がかりで届けたそうだ」


「辺境伯ご自身が?」


「ああ。部下に任せればいいものを、『俺の領民だ』の一言で飛び出したらしい。不器用な御方だが——ああいう人間には頭が下がるよ」


 男性は笑って杯を傾けた。



(正直な数字を書く人。吹雪の中を自分で走る人)


 報告書の印象と、シュテファン殿下の言葉と、今夜の話。三つが重なった。


(こういう人こそ、信頼できる。少なくとも——嘘をつく人よりは、ずっと)



 七日目の午後だった。


 山道を進む馬車が、急に止まった。


「エリナ様、しばらく動かないようにお願いします。前方に……人影が」


 ベルンハルトの声が緊張している。


 窓の遮蔽布をわずかに持ち上げて、前方を確かめた。


 街道を塞ぐように、七、八人の男たちが立っていた。粗末な布の服。農具か廃材で作ったような武器。


(野盗……。ただ、装備が軽すぎる。これは略奪に慣れた集団じゃない)


 体つきも統一されていない。痩せた者が多く、足元がふらつく者もいた。


(食い詰めた民衆が、やむなく道を塞いでいる。そういう構図だ)



 御者台から声が飛んだ。


「退け! ヴァルトシュタイン家の御一行だ!」


 男たちは動かない。一人が前に出た。三十代ほどか。背は高いが、頬がこけている。


「こっちも腹が減ってんだ。積み荷から少し分けてくれりゃあ、すぐ道を空ける」


 ベルンハルトの硬い声が重なった。


「エリナ様、ここは我々が対処します」


 剣を抜く音がした。



 わたくしはヨハンナを見た。


 ヨハンナは、静かにこちらを見返していた。止めるでもなく、促すでもなく、ただ——こちらの判断を待つ目だった。


 わたくしは馬車の扉を開いた。


「……お待ちください」


「エリナ様!」


 ベルンハルトが声を荒げた。それでも、わたくしは地面に降り立った。


 冷たい風が頬を刺す。砂利を踏んだ足元が安定しない。


 それでも、背筋を伸ばして前を向いた。



 男たちの視線が一斉に集まった。


 先頭の男が、目を細める。


「……何の真似だ」


「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」


 わたくしは穏やかな声を出した。震えないように意識する。


「あなた方が求めているのは、食料ですね」


 男は答えなかった。だが否定もしなかった。


 その目に、残忍さはなかった。ただ、追い詰められた人間の目だった。


「わたくしたちの荷に、干し肉と乾燥豆が少しございます。それをお渡しすれば、道を通していただけますか」


「エリナ様、それは——」


 ベルンハルトが口を挟もうとする。わたくしは片手を軽く上げてそれを制した。



 先頭の男の表情が、一瞬だけ崩れた。だが、すぐに引き締め直した。


「……食い物を恵んでくれるってのか? 随分と気前がいいな、お嬢さんよ」


 声に棘があった。施しを受けることへの、かすかな屈辱が滲んでいた。


(そうだ。この人たちは、慈善を求めているんじゃない)


 わたくしは言い方を変えた。


「恵みではございません。対価です」


 男たちが一瞬、動きを止めた。


「わたくしたちは安全な道が必要で、あなた方は食料が必要。互いに持っているものを交換するだけのことです。剣を交えても、どちらかが傷つきます。食べ物が目的なら、戦わずとも手に入ります。その方が——お互いにとって良い結末ではありませんか」


 後ろにいた若い男が声を上げた。


「兄貴、いいじゃねえか。怪我するよりマシだ。子供らが待ってんだ」


 長い沈黙だった。


 先頭の男が、ゆっくりと武器を下ろした。それを見て、後ろの男たちも一人ずつ従った。


「……干し肉と豆だな。それだけでいい」


「はい。代わりに、安全に通してください。それだけで結構ですわ」



 荷の一部をその場に置いた。男たちは無言でそれを回収し、道の端に退いた。


 馬車が動き出してから、ベルンハルトがわたくしの隣に馬を寄せてきた。


「……エリナ様。あの判断は」


「合理的だったと思います。仮に勝てたとしても、ベルンハルトかレムケが傷を負う可能性もあった。干し肉の価値より、お二人の腕の方が大切です」


 ベルンハルトはしばらく黙っていた。それから、低い声で言った。


「……承知しました」


 その声には、出発した時にはなかった何かが混じっていた。


 反対側からレムケが小さな声でつぶやくのが聞こえた。


「……すごい方だ」


 ベルンハルトは何も言わなかったが、わたくしには見えた——厳格な騎士の口元が、ほんのわずかに緩んだのを。



 馬車の中に戻ると、ヨハンナが膝掛けを広げて待っていた。


 それを受け取った瞬間——自分の手が震えていることに気づいた。


(……ああ。怖かったんだ、わたし)


 膝掛けを握りしめて、指先の震えが収まるのを待った。ヨハンナは何も言わず、ただ温かいお茶を差し出してくれた。


 一口飲んで、ようやく息がつけた。



 それから一刻ほど走っただろうか。


 針葉樹の密度が薄くなってきた。開けた場所に出た瞬間、馬車が速度を落とした。


「エリナ様、あちらをご覧ください」


 ベルンハルトの声がした。さっきまでとは違う声だった。


 わたくしは窓を開けた。



 遠くの稜線に、灰色の石が見えた。


 城だった。


 霙混じりの空の下、山の中腹に張り付くように建っている。塔がいくつか突き出していて、旗がはためいている。


 無意識に、身を乗り出していた。


 王都の華やかな宮殿とは違う。飾り気がなく、機能的で、長い時間をかけて磨かれたような質実さがある。あの石壁は何十年もの風雪に耐えてきたのだろう。それでも崩れていない。


(グラフ城……)


 報告書で何度も名前を読んだ城。数字の向こう側にあった、実物の姿。


 それなのに今、確かに——喉の奥がじわりと熱くなった。


 あの城の中に、あの人がいる。


 正直な数字を書く人。吹雪の中を自分で走る人。


 明日、あの人に会う。


 わたくしはそっと窓を閉じて、膝の上に手を置いた。


 心臓が、とくとくと速い鼓動を刻んでいた。


 でも——それは、さっきとは違う音だった。


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