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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第7話「グラフ城」

第7話「グラフ城」


 門をくぐった瞬間、馬車の車輪の音が変わった。


 砂利道から石畳に変わったのだと、少し遅れて気づく。


 窓から顔を出すと、灰色の石壁が左右にそびえていた。飾り気のない四角い輪郭。華美な彫刻も、金細工の門扉もない。ただ、がっしりと、大地に根を張るように建っている。


(地方の営業所だ……)


 本社の豪華な本部ビルとはかけ離れた、機能一点張りの地方拠点。前世の記憶が頭をよぎった。あの、妙に落ち着く感じに似ている。


「エリナお嬢様、お顔を引っ込めてくださいませ。風が強うございます」


 ヨハンナに窘められて、わたくしは大人しく身を引いた。



 石畳の中庭に、小さな出迎えの列があった。


 使用人が十名ほど。整列しているが、表情は硬い。


 馬車の扉を開けてくれたのはベルンハルトだった。何も言わず、ただ手を差し伸べる。わたくしはその手を借りて地面に降り立った。


 辺境の風は、想像以上に冷たかった。吐く息が、薄く白く揺れている。


 使用人たちの視線が、じりじりとわたくしに集まっていた。


(婚約を破棄された元令嬢が都落ちしてきた——そう見られているのだろう)


 仕方ない。最初からウェルカムなわけがない。



 出迎えの列から一人が進み出た。


 六十がらみの男性。白髪交じりの短い髪。背筋が真っ直ぐで、目が鋭い。


「ようこそおいでくださいました、エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン様。わたくしはフリッツ、城代を務めております」


 声は丁寧だ。しかし——。


(瞳が笑っていない)


 言葉は礼儀正しく、でも心は完全に閉じている人の目。そういう人を、わたくしは何人も知っている。


「フリッツ様、よろしくお願いいたします」


「辺境伯様はただいま不在でございまして。おって連絡が参る予定です」


「承知いたしました」



 城の内部を案内してもらった。


 廊下は広くはないが、天井が高い。壁は石のままで、装飾はほとんどない。絵画が数枚かけられているだけで、王都の屋敷にあるような豪奢なタペストリーも金銀の燭台もない。


 無駄がない。不思議と息苦しくなかった。


 王都の屋敷は美しかったが、ものが多すぎて、わたくしはいつもどこか窒息しそうだった。ここは違う。シンプルで、風が通る。



 案内された部屋は、二階の角部屋だった。


 こじんまりとしているが、窓が二方向に開いていて、山の稜線と、遠くに広がる針葉樹の森が見えた。家具は必要最低限。寝台、衣装箪笥、小さな書き物机と椅子。


 暖炉には火が入っていた。


 誰かが先に準備してくれたらしい。


「眺めがよろしいですわね」


「……一番日当たりのいい部屋を選びました」


 フリッツの声はやはり平板だった。けれど——選んでくれたのは確かだ。


(ちょっとだけ、気にかけてくれている。それだけで十分だ)


「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」


 フリッツは短く頭を下げて、出ていった。



 ヨハンナと二人で荷物を整理しながら、わたくしは窓の外を眺めた。


 空が広い。王都では建物に遮られて見えなかった部分まで、ここでは空が広がっている。


 でも。


「……少し、寂しいものですわね」


 声に出すつもりはなかった。


 でも、ヨハンナは聞こえていたらしい。


「エリナお嬢様」


 振り返ると、ヨハンナが穏やかな目でわたくしを見ていた。


「最初から好かれようとなさらなくて結構でございます」


「……ヨハンナ」


「信頼は、日々の積み重ねで生まれるものでございます。一日で解けない氷が、一月でとけることもある。焦らずに」


 その言葉に、わたくしはふっと笑った。


「そうですわね。急ぎすぎてもしかたない」


(信頼は結果で勝ち取るもの。それは前世でも今世でも変わらない)


 わたくしはもう一度、窓の外の空を見た。


 広い空。冷たい風。剥き出しの石の城。


 ここで、始めよう。



 そのときだった。


 廊下で、足音がした。


 規則的で、重い。迷いのない歩き方。


 石の床を踏むたびに響くその音は、城の空気を一瞬で変えた。


 フリッツが慌てた様子で戻ってきた。あの平然とした表情が、わずかに崩れている。


「申し訳ございません。辺境伯様は不在とお伝えしたのですが——予定より早くお戻りになられまして」


 フリッツの声に被せるように、低い声が響いた。


「来たか」



 わたくしはゆっくりと振り返った。


 廊下の入口に——男が立っていた。


 長身。黒い髪が短く整えられている。旅塵で汚れた外套の上からでも、鍛え上げられた肩幅の広さがわかる。二十代の後半だろうか。日に焼けた肌と、それに不釣り合いなほど長い睫毛。


 鋭い目だった。「怖い」と噂で聞いた、その理由がわかる気がした。


 けれど——。


 その目が。深い緑の目が、真っ直ぐにわたくしを見ていた。


 怒っているのでも、威圧しているのでもない。ただ、見ている。まっすぐに、正直に。


(この人の目は——嘘をつかない)


 前世で「怖い上司」と呼ばれていた人は、大抵、感情の表し方を知らないだけだった。口数が少ないのは、怖いのではなく不器用なのだ。


 目が正直な人は、裏切らない。それが、わたくしの経験則だった。



「ヴァルトシュタイン嬢か」


 確認ではなく、断定だった。


「はい。エリナ・フォン・ヴァルトシュタインと申します。此度はお受け入れいただき、誠にありがとうございます」


 わたくしは背筋を真っ直ぐに伸ばして礼をした。


 顔を上げると、カインの目がまだこちらを見ていた。何かを読み取ろうとしているような、静かな視線だった。


「……王都の令嬢がなぜ辺境に来た」


 素っ気ない問いだった。声は低く、喉の奥から直接響いてくるような重さがあった。抑揚が少ない。余計な言葉が一切ない。


 フリッツが「辺境伯様、その件につきましては——」と口を開きかけたが、カインはフリッツに視線を向けることなく、わたくしを待っていた。


 わたくしは正直に答えることにした。


「報告書を三年分読みました」


 一瞬、カインの息が止まった気がした。ほんのわずかな間。それから眉が動いた。


「辺境伯領の帳簿と補給路の管理に、改善の余地があると感じました。わたくしの見立てが間違っていれば、そのときは別の形でお役に立てることを探します」


 一瞬の間があった。


 使用人たちの視線が、おずおずとわたくしとカインの間を行き来している。



 カインはやがて、短く息を吐いた。


 怒りでも呆れでもない。何か別のものを飲み込んだような、そういう息の吐き方だった。


 「好きにしろ」——突き放しではなかった。


 「部屋は用意してある」。準備していたのだ。


(この人は——自分を守るための嘘がつけない人だ)


 カインが背を向けて廊下を歩き始めた。


 外套の裾が、石の床をかすめる。


 重い、規則的な足音が遠ざかっていく。


 その足音が——一瞬だけ、止まった。


 ほんの一瞬。気のせいかと思うほど短い間。


 それから、何事もなかったように歩き去った。


 わたくしの心臓が、跳ねた。


 理由はわからない。ただ、あの一瞬に何かがあった気がした。



 フリッツが盛大に息を吐き出した。


 表情は変わっていないが、肩から何かが下りたような動きだった。


「……辺境伯様は、ああいう御方でして」


「はい」


「失礼があったということでは——」


「まったく。とてもわかりやすい御方です」


 フリッツの目が、わずかに丸くなった。


 今日初めて、驚いた顔をしている。


「……そのように仰る方は、初めてでございます」


 ぼそりと、フリッツが言った。


 わたくしは少し考えてから、首を傾けた。


「そうですか。でも——あの御方の目は、嘘をつかないと思いますわ。それはわかりやすい、ということではないですか」


 フリッツは答えなかった。


 でも、その視線がわずかに変わった気がした。まだ心を閉じてはいるが——少しだけ、隙間が生まれたような。



 フリッツが去った後、ヨハンナがそっと耳打ちした。


「フリッツ様のお顔が変わりましたね」


「気のせいではないですか」


「三十年も人をみてきた目に、気のせいはございませんよ」


 そう言って、ヨハンナは穏やかに前を向いた。



 夕暮れが来た。


 窓の外は暮れかけた山の稜線。空の端が橙色に染まって、少しずつ紺色に変わっていく。


 辺境の夕暮れは、王都よりもずっと空が広かった。


 暖炉の火が、静かに部屋を温めている。


 わたくしは書き物机に向かい、今日までの旅の記録を短く書き留めた。報告書で読んだ数字と、実際に見た土地の姿を照合するために。


 ペンを置いて、ふと窓の外を見る。


 山の稜線が、最後の光を残して暗くなっていく。


(ここで、始めよう)


 前世の最後の日に叶えられなかった「ちゃんと生きる」を——今度こそ、ここで。


 足場は、信頼だ。


 フリッツの目の隙間。ヨハンナの耳打ち。ベルンハルトが手を差し伸べてくれた一瞬。


 一つずつ、積み重ねていく。


 そして——いつか。


 あの緑の瞳が、わたくしを「便利な人材」以外の何かで呼ぶ日が来るだろうか。


 来ないかもしれないけれど。


 まだ、そんなことを考えるのは早い。


 でも。


(あの足音が、止まった瞬間のことを——わたし、忘れないと思う)


 暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。


 明日から、仕事だ。


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