16.「トイレ」
私たちは自転車を持ちながら、2階へと足を踏み入れた。
一見すると、1階と同じく、無人の世界が広がっている。
けれど——何かが違う。
1階と違って、なんとなくだが、何かがいるような気配がする。
上手く言語化できていないし、ただ単に気のせいの可能性もあるが、〝何もいないはずなのに、何かがいる〟。そんな矛盾じみた気配が、空気にじっとりと溶け込んでいた。
順も、紗綾さんも、私と同じものを感じ取ったのだろう。
二人の表情が、目に見えて険しくなっていた。
「行くわよ……」
紗綾さんの低く張った声を合図に、私たちは再び自転車を漕ぎ出した。
1階の時と同様、2階の通路をぐるりと一回りする。
時折、声を張り上げて呼びかけてみるが、返ってくるものは何もない。
「おかしい……生存者がいるなら、何らかの反応があってもいいはず」
私は思わずそう呟いた。
「……いや、僕らのことを信用してないから、無視している可能性もある」
順が冷静に返す。
「あっ、そうか!」
私は思わず声を上げた。順の指摘に、ハッとする。
生存者がここにいるとして、私たちの呼びかけに反応しないのは、私たちが略奪者や殺しに来る悪人と思われている可能性もあるかもしれない。
だからといって、私たちが善良な市民であるということを証明する術もない。
ただ叫び、ただ探し、ただ不在の気配にぶつかるだけ。
私たちは、2階の探索を一通り終えた。
結局、あの物音の正体も分からず、生存者どころか、感染者の姿すら見つからなかった。
静寂だけが、また戻ってきた。
「……どういうこと? この2階には、本当に誰もいないってこと?」
自分でも信じがたい、そんな思いを込めて私は呟いた。
「紗綾さん……どうしますか? 次は3階に行ってみます? それとも、もう少しこの階を探しますか?」
順の声にも、迷いが混じっている。
「……まだ、このフロアで確認していない場所があるはずよ」
そう答えると、紗綾さんは無言のまま歩き出した。トコトコと、エスカレーター近くに立てかけられたフロアガイドの前へ向かった。
一瞬立ち止まり、視線を走らせると、ある一点に指を差した。
その場所は——化粧室、つまりトイレだった。
「トイレはまだ確認していないわ。人が隠れるには十分なスペースがあるし、緊急時に籠もるには最適な場所でもある」
彼女の声は落ち着いているが、どこかに鋭さがある。
「……ここを確認して、何もなければ。3階に行きましょう」
紗綾さんの言う通り、トイレの確認は済んでいない。
ならば――向かうしかない。
トイレがある廊下。
ここは一本道ではなく、2階の南エリアと中央エリアの両方から出入りできる構造になっている。私たちは、南エリア側の廊下からトイレへと向かうことにした。
ただ、この廊下はかなり狭く、自転車では通れそうにない。
そこで私たちは、自転車を廊下の手前に置き、ここからは徒歩での確認に切り替えることにした。
……そのとき。
「シーッ」
紗綾さんが、口元に指を当てて私たちに静かにするよう合図を送る。
「まずは……私、一人がトイレの中を確認する。もし中に感染者がいたとしても、私だけなら対処できるから」
小声でそう言いながら、紗綾さんは私たちに待機を命じる。
だが、順は――
「そ、それは危険すぎます! もし、中に暴漢でもいたら……!」
確かに順の言う通りだ。
トイレで待ち構えているのが、感染者なら、紗綾さんの能力で動きを封じられる。
けれど、もし中にいたのが生存者で、それも大の男だったとしたら?
襲われたら、紗綾さんはただの女性だ。当然、男女の力の差で紗綾さんの身が危ない。
変な話だけど、トイレに隠れているのが、人間よりも感染者の方が安心を感じるのだ。
そんな私たちの不安をよそに、紗綾さんはフッと軽く笑う。
「大丈夫よ。万が一、危なくなったらすぐに助けを呼ぶわ」
「それに、状況によっては助けを呼べないときもあるかもしれない……だから、少しでも異変を感じたら、あなたたちもすぐに来て」
そう言って、紗綾さんは私と順の肩に優しく手を置いた。
「1階のときにも言ったけど、私があなたたちを守るから。心配しないで」
そう言い残し、紗綾さんは一人でトイレへと向かった。
私と順、そして紘人さんの三人は、廊下の入口前で静かに待つ。
……しばらくして――
「ただいま」
紗綾さんが無事に戻ってきた。
その姿を見た瞬間、私は胸をホッとなで下ろした。
紗綾さんはさっそく、中の調査結果を伝える。
「男女両方のトイレを調べたけれど、誰もいなかったわ。この2階には、本当に誰もいないかもしれない」
トイレにも誰もいなかったか。なら次は3階の探索か。
――と、その前に。
「あのう……ちょっと、トイレ行ってきてもいいでしょうか? 実はさっきから我慢していて……」
トイレが安全だと聞いた途端、私の〝行きたい欲〟が一気に膨れ上がってしまった。
それを聞いて、紗綾さんはフッと軽く笑う。
「いいわよ、せっかくだから私も行こうかしら。あなたと順くんは?」
「い゛い゛あ゛」
「僕もいいや」
ということで、私と紗綾さんは女性トイレへ。
順と紘人さんは、廊下の入口前で引き続き待機することになった。
女性トイレの部屋は、中は薄暗く、照明はかろうじて点いている程度だった。
どこか不気味な雰囲気が漂っていた。
けれど、先ほど紗綾さんが中を確認して「誰もいなかった」と言っていた通り、今のところ気配はない。私たちはそのまま個室に入り、用を足す。
それなりに我慢していた分、私の場合は長い。
それは、紗綾さんが用を足してから、手を洗う音が聞こえている頃でも、まだ個室にいたほどに。
——……そのまま数分後。
ガチャ!
「……あれ? 紗綾さんがいない?」
用を足したあと、個室のドアを開けたら、紗綾さんの姿が見当たらなかった。
先に出たはずなのに、声も、気配もない。
「(廊下で待っているのかな?)」
私は深く考えず、洗面台で手を洗うことを優先にする。
洗面台の水はまだ出ていて、ハンドソープも使える。
私は視線を手元に落としながら、淡々と泡立て、流していく。
そして――洗い終えて顔を上げ、鏡を見る。
鏡を見ると――
その瞬間——
背後に、見たことのない男の姿が映っていた。
制服を着ている。夏用の学生服。
だが、両目は正常でミッドナイトブルーではない。
つまり、その男は感染者ではなく、生存者だ。
けれど――安心する暇など、なかった。
男の手が、ハンカチを持ってこちらに迫る。
まさに、私に襲いかかろうとする瞬間だったのだ。
「じゅ――っ!」
声を出す間もなく、ハンカチが口元を覆った。
そのハンカチから、強烈な匂いが鼻を突き、喉を焼くような刺激が襲ってくる。
「(この匂い……まさか、麻酔薬のクロロホルム!?)」
そういえば順から聞いたことがある。
サスペンスドラマとかで、犯人がハンカチで被害者の口や鼻を覆って気絶させるのは、クロロホルムを染み込ませたハンカチを使っているからだとか。
それを今まさに、私も同じことをされていることを一瞬で理解した。
だが――
「……ん、ぐっ……」
抵抗しようにも、体に力が入らない。
やがて、世界を閉ざすような暗闇が、徐々に私の視界を埋めていく。
そして――さらなる絶望が私を襲う。
女子トイレの入口、廊下側から、もう一人の男が現れた。
その男も生存者。そして、彼の腕の中には、気を失った紗綾さんがいた。
口元にはハンカチ。おそらく、私と同じ方法で……
「(助けて……順)」
それが、私の最後の思考だった。
次の瞬間、暗闇は私の視界をすべて埋め、そこで意識は消えた――
ホラー作品あるある、鏡越しの背後に誰かがいるというネタをやりたかったです。




