戦場の門、あるいは烏たちの咆哮
会場となる巨大イベントホールの入り口には、肌を刺すような冷たい秋風が吹き荒れていた。美墨なぎさは、ユニットロゴの入った黒いウィンドブレーカーのジッパーを喉元まで引き上げ、重い機材バッグを背負い直した。見上げるほどの高さがあるデジタルサイネージには、「秋季アイドル選抜フェスティバル・地区代表決定戦」の文字が誇らしげに躍っている。その下を、色とりどりの衣装ケースを抱えた少女たちが、まるで行軍する兵士のような殺気立った足取りで行き交っていた。
「……空気が、ドームの時とはまた違うね」
隣で星空みゆきが、小さく、けれど確かな興奮を孕んだ声で呟いた。彼女の瞳は、目の前の巨大な「戦場」に怯むどころか、獲物を前にした幼い猛獣のように輝いている。なぎさは無言で頷いた。夏のドームは、王者・宇佐美いちかの胸を借りる「挑戦」だった。けれど今日は違う。ここを勝ち抜かなければ、あの黄金の背中に指先をかけることさえ許されない、残酷なサバイバルだ。
メンバー六人が楽屋口を通り抜けると、そこには通路を埋め尽くすほどの熱気と、特有の化粧品や制汗剤の匂いが混じり合った、独特の「舞台裏の臭い」が充満していた。ぴかりが丘学院の面々が進むたび、周囲のユニットから視線が突き刺さる。その多くは「あの日、王者を追い詰めたダークホース」への警戒と、それ以上に「一発屋で終わるだろう」という冷ややかな値踏みだった。
「——道を開けなさい。烏の通り道よ」
背後から低く、通る声が響いた。月影ゆりだ。彼女は最年長らしい落ち着きを纏いながらも、その歩みは一ミリの迷いもなかった。夏木りん、日向咲、秋元こまちも、それぞれの想いを胸に、なぎさの背中を追う。
リハーサル室へ向かう途中、なぎさは正面から歩いてくる集団と鉢合わせになった。その中心にいたのは、先日なぎさを「親切すぎる」と一刀両断した日向大和だった。大和は新しい衣装に身を包み、周囲のスタッフを従えて悠然と歩いている。彼女となぎさの視線が交差した瞬間、通路の温度が数度下がったような錯覚に陥った。
「……来たんだね、美墨なぎさ。その目、ワークショップの時より少しはマシになったかな」
大和は立ち止まらず、なぎさの耳元で微かに囁いた。
「君たちが用意した『不協和音』、楽しみにしているよ。……もっとも、私の『引力』に耐えられればの話だけどね」
なぎさは言葉を返さなかった。ただ、大和が通り過ぎた後の風に、自分の心臓が激しく、そして冷たく脈打つのを感じていた。大和だけではない。この会場には、ワークショップで出会った九条ひかりも、そしてまだ見ぬ未知の才能たちが、牙を研いで待ち構えている。
ぴかりが丘学院に割り当てられた楽屋に入ると、なおコーチがすでに待機していた。彼女はメンバーの顔を一人ずつ見渡し、不敵な笑みを浮かべた。
「いい面構えね。夏の敗北を忘れず、ワークショップの毒を喰らい、自分たちの個を磨き上げてきた。……今日、あなたたちがやることは一つ。自分たちの『不快なまでの新しさ』を、あの観客たちの鼓膜に叩き込むことよ」
なぎさは、鏡の中に映る自分を見つめた。手首をほぐし、喉の状態を確認する。頭の中には、これから披露するステージの設計図が完璧に描かれていた。それは、かつてのような「完璧な調和」ではない。みゆきの予測不能な動きを起点に、全員が互いの音を侵食し合いながら、ギリギリの均衡で成立させる、爆発的な連鎖反応だ。
「なぎささん、もうすぐ出番ですね」
みゆきが、なぎさの隣に立って鏡を覗き込んできた。彼女の瞳には、かつてのような不安は微塵もない。
「……みゆき。あんた、わかってるわよね? 私の指示を待ってたら、大和たちの重力に飲み込まれて終わりよ。あんたが先に行きなさい。私が、その後ろに道を無理やりこじ開けるから」
「はいっ! 私、なぎささんが作った崖から、思いっきり飛び降ります!」
みゆきの言葉に、他のメンバーからも笑みが漏れた。普通なら絶望するような言葉さえ、今の彼女たちにとっては最高の信頼の証だった。
ホールの奥から、オープニングの爆発的な重低音が響き始めた。フェスティバルが、ついに開幕したのだ。観客の咆哮が、壁を伝って楽屋まで振動として伝わってくる。
なぎさは、六人の輪の中心で、静かに右手を差し出した。
「——いくわよ。世界中に、ぴかりが丘の本当の姿を見せてやりましょう」
六人の手が重なる。それは、かつての「守るための絆」ではない。互いの獲物を分け合うための、飢えた烏たちの「盟約」だった。
楽屋を出て、薄暗い舞台袖の待機場所へと進む。そこから見えるステージは、強烈な逆光に包まれ、まるで異世界の入り口のように輝いていた。その光の向こう側には、自分たちを嘲笑い、あるいは期待し、あるいは絶望させるための無数の目が待っている。
なぎさは、一歩、ステージへと踏み出した。
心臓の音は、すでに今日演奏するビートと同期している。宇佐美いちかという太陽を目指して、一度焼かれた翼を漆黒に染め直した少女たちの、再起の物語。
第83話、戦場の門。 その向こう側で待ち受けるのは、栄光か、それともさらなる深淵か。 なぎさは、マイクを強く握りしめた。
「……聴きなさい。これが、私たちの咆哮よ」
暗転したステージに、六人の影が降り立つ。その瞬間、会場を支配していた空気が、まるで何かの予感に震えるように、一変した。




