沈黙の客観、あるいは鏡の中の肖像
ドームの照明が、ベンチに座る美墨なぎさの足元まで届くことはなかった。頭から被ったタオルの暗がりのなかで、なぎさは自身の荒い呼吸音だけを聴いていた。
ステージ上では、月影ゆりを中心とした新たな陣形が、白鳥学園の猛攻にさらされていた。なぎさが不在のぴかりが丘学院は、宇佐美いちかの放つ黄金の旋律を真っ向から打ち破る力を持たない。支持率のメーターは、無慈悲に白鳥学園の勝利への秒読みを開始している。
(……なんで、あんなに楽しそうに動けるのよ)
なぎさはタオルを少しだけずらし、ステージを見上げた。そこには、紅城トワの「直感」に何度も歌声を封じられながらも、泥臭くステップを踏み続ける星空みゆきの背中があった。なぎさがリードを執っていた時、彼女はみゆきを「自分の理想を実現するための最高級の駒」として見ていた。だが今、一人の観客に近い視点から見るみゆきは、誰の支配も受けない、ただ純粋な熱量そのものだった。
なぎさの隣で、なおコーチが静かに口を開いた。
「美墨。あなたは自分の放つ旋律が、世界で最も正しいと信じている。それは司令塔として必要な矜持よ。でも、正しすぎて、遊び(余白)がない。……月影を見てごらんなさい」
ステージ上のゆりは、なぎさのような神業的なハイトーンも、変則的なラップも持たない。だが、彼女が歌い出すと、不思議と周囲のメンバーの顔に「安堵」が広がっていた。ゆりは、いちかの音圧に気圧される夏木りんや日向咲の呼吸に、自らの声をそっと寄り添わせ、彼女たちが最も歌いやすいリズムへと強引に引き戻していた。
「……ゆりさんは、自分を殺して、みんなを活かしてる」
なぎさが呟く。なおコーチは首を振った。
「違うわ。彼女は、みんなを活かすことで、自分一人では絶対に届かない『高み』へ行こうとしているの。美墨、あなたは自分一人でその頂を制しようとしていた。でも、ステージは一人で創るものじゃない」
その時、白鳥学園の紅城トワが、嘲笑うような高笑いとともに、ゆりの放った完璧なパスを予見し、その進路をダンスで遮断した。トワの直感は相変わらず冴え渡り、ぴかりが丘の微かな反撃の芽を摘み取っていく。
「あははっ! さっきの怖い子がいなくなって、なんだか学芸会みたいだね!」
トワの挑発。だが、ゆりは微笑みを絶やさなかった。彼女は次の瞬間、自分自身がメインを張るのではなく、あえて最もマークの薄い黄瀬やよいにスポットライトが当たるような旋律の隙間を作り出した。
「——やよい、今よ! あんたの『不完全さ』を、ドーム中に見せつけてあげなさい!」
ゆりの呼びかけに応じ、やよいが震える声で絶叫に近い一節を叩き込んだ。トワの予測は、なぎさのような「正解」を求める者には無敵だが、ゆりが意図的に混ぜた「迷い」や「不確定要素」には、一瞬の戸惑いを見せた。
ドォォォォォン!!
支持率メーターが、数分ぶりにぴかりが丘側へ揺れる。それは決定的な打撃ではなかったが、白鳥学園という完璧なシステムの歯車に、ほんの少しの砂を噛ませた瞬間だった。
ベンチのなぎさは、その光景を食い入るように見つめていた。 (……完璧じゃなくていい。私のリードに、みんなが合わせるんじゃない。私が、みんなの衝動を、もっと自由に羽ばたかせるために……!)
なぎさの中で、何かが崩れ、新しく組み上がっていく音がした。彼女が今まで握りしめていた「独善的な正しさ」という名の王冠が、ステージの熱によって溶け、形を変えていく。
「コーチ」
なぎさがタオルを剥ぎ取り、立ち上がった。その瞳からは、先ほどまでの絶望や屈辱は消えていた。代わりに宿っていたのは、極限まで研ぎ澄まされた、けれどどこか柔軟な「知性」の光だった。
「……準備はできています。次、私が戻る時は……あの赤い髪の怪物(紅城トワ)に、私の旋律を『読ませて』あげますよ」
なおコーチは満足げに頷いた。 「いい目になったわね、美墨なぎさ。……さあ、烏たちの反撃の時間よ」
第4トラックは、終盤へと差し掛かろうとしていた。白鳥学園の宇佐美いちかは、ステージに再び現れようとするなぎさの気配を察し、喉の奥を鳴らした。彼女は待っていた。自分を脅かすほどに進化し続ける、若き才能の帰還を。
なぎさが、再びステージの境界線を越える。 彼女が放つ次の一音は、これまでの冷徹な命令ではなく、仲間たちの翼を加速させるための、優しくも力強い「共鳴」の合図となるはずだった。
鏡の中の自分を壊し、なぎさは今、真の司令塔としてその一歩を踏み出す。




