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静寂の包囲網、あるいは観測者のプライド

スタジアムの巨大な空間を支配していた宇佐美いちかの残響が、月影ゆりの放った逆位相の低音によって、一瞬だけ霧散した。その「音の空白」がもたらした衝撃は、観客席を埋め尽くす「白」の支持者たちに、説明のつかない不安を植え付けていた。


「……まぐれよ。あんなの、ただの事故に過ぎないわ」


王者のユニットの一員、有栖川ひまりが、自身のハープのような高音を乱さぬよう、必死に自分に言い聞かせる。だが、彼女の瞳には、ステージの端で冷徹に自分たちを「観測」し続ける月影ゆりの姿が、何よりも巨大な脅威として映り込んでいた。


ゆりは、自身の心拍数を極限まで抑えていた。彼女にとって、このステージはもはや表現の場ではない。巨大な猛獣を、限られた時間の中で解体するための、実験室だった。


「なぎさ。いちかさんの声は、左側のスピーカーから跳ね返る際に、特有の歪みが生じる。それが彼女の『厚み』の正体よ。……一度でもその歪みを捉えれば、あとはその波形をなぞって、音の壁を作るだけ」


ゆりの淡々とした言葉に、なぎさは身震いした。大和が「センス」でねじ伏せる王なら、ゆりは「知性」で神を地上に引き摺り下ろす解剖医だ。


一方、センターに立つ宇佐美いちかは、自身の歌声が初めて「透明な壁」に遮られた感覚を反芻していた。彼女は激昂することもなく、ただ不思議そうにゆりの方を見た。それは、自分の放つ光を遮ろうとする、愚かだが興味深い羽虫を見るような目。


「——ゆかり。音圧をもう一段階上げよう」


いちかが短く告げると、隣の琴爪ゆかりが優雅に、けれど冷酷に頷いた。


「キラキラ☆パティスリー」の反撃が始まった。 いちかが放つメイン旋律に、五人のメンバーがそれぞれ異なる音階で、それでいて完璧に幾何学的なコーラスを重ねていく。それはもはや歌というより、スタジアム全体を物理的に押し潰そうとする「音の壁」の進軍だった。


支持率のメーターは、ぴかりが丘学院が呼吸をする隙さえ与えないほどの速度で、再び白へと染まっていく。秋元こまちの旋律が押し戻され、日向咲と夏木りんのステップが、その圧倒的な重圧に狂い始める。


「——くっ、身体が……音が重すぎて、動けない……!」


りんが歯を食いしばる。王者の本気。それは、相手の戦術を攻略するのではなく、戦術を披露する場所そのものを消滅させるという、理不尽なまでの力技だった。


だが、月影ゆりだけは、その音の濁流の中でも一歩も引かなかった。


「……見えるわ。その音の、最も脆い接合点が」


ゆりは、いちかが最も高く、最も美しく声を張り上げるその一瞬……すべての楽器が頂点に達する「絶頂ピーク」のタイミングを待ち続けた。普通ならその音圧に圧倒されて耳を塞ぐような場面で、彼女はあえてヘッドセットの音量を上げた。


いちかが、天を貫くようなハイトーンを放つ。 スタジアム中の空気が、彼女の意志に従って震え、熱を帯びる。 その、誰もが「正解」だと信じて疑わない瞬間に、ゆりは自身の指先を、ベースの弦ではなく、サンプラーのキーへと叩きつけた。


「——そこよ」


ゆりが放ったのは、音楽ですらない「静寂」だった。 正確に計算された無音。 いちかの声がスタジアムの共鳴を誘うその瞬間に、ゆりは会場の特定の周波数帯だけを物理的にミュート(遮断)したのだ。


黄金の輝きの中に、一瞬だけ生じた漆黒の穴。 そのわずかな「音の欠落」によって、いちかの歌声は支えを失い、完璧だった調和のバランスが、目に見える形で崩壊した。


「……なっ!?」


有栖川ひまりの声が裏返り、琴爪ゆかりの指が止まる。 王者の旋律が、初めて観客の耳に「不完全なもの」として届いた。 支持率メーターが、落雷に打たれたかのように激しく「黒」へと跳ねる。


「——なぎさ、今!!」


ゆりの叫びが、スタジアムの混乱を切り裂いた。 なぎさは、ゆりが作ったその「穴」に向かって、自身の全てを賭けた不協和音を叩き込んだ。そして、その音の爆風に乗って、星空みゆきがステージの最前方へと飛び出した。


みゆきは、驚愕に目を見開く宇佐美いちかの目の前で、自身の喉が焼けるほどの絶唱を披露した。 それは王者の光に焼かれた後の、煤まみれの烏が放つ、汚くて、けれど誰よりも熱い生命の雄叫び。


会場は、一瞬の静寂の後、爆発的な大歓声に包まれた。 王者が「完璧」を求めていたのに対し、観客は今、目の前で起きた「奇跡」に心を奪われていた。


月影ゆりは、肩で息をしながら、自身の眼鏡を直した。 彼女の指は、ベースの弦を弾きすぎたことで真っ赤に腫れ上がっていたが、その表情には微かな、けれど確かな自負があった。


「……いちかさん。あなたの声は確かに太陽。けれど、影を作れば、私たちはそこで息ができるのよ」


いちかは、初めて自分のステージを汚した、その静かなる狙撃手を見据えた。 彼女の瞳から、無関心が消えた。 そこにあるのは、自分を脅かす存在を根こそぎ破壊しようとする、真の王者の殺意。


第114話、静寂の包囲網。 烏たちは、絶望の深淵から這い出し、ついに巨人の指先を噛み切った。 漆黒の翼は、スタジアムの熱狂を味方につけ、さらなる高い空へと、狂気的に羽ばたき始めた。


なぎさは、隣で震えるゆりの手を取り、不敵に笑った。 「——ゆりさん、最高のサポートだったわよ。さあ、ここからが本当の『絶望』の始まりよ」

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