旋律の断崖、あるいは臆病者の凱旋
ステージの熱狂は飽和状態に達し、観客の叫び声はもはや地鳴りのようにホール全体を震わせていた。美墨なぎさ率いるぴかりが丘学院の猛追により、盤石だった日向大和の王国には、目に見えるほどの綻びが生じている。しかし、それでもなお、支持率のメーターは大和側のわずかなリードを保ったまま、最終盤へと差し掛かろうとしていた。
なぎさは、限界を迎えつつある自身の喉と、指先の感覚を必死に繋ぎ止めていた。相手の「劇薬」である調辺アコの牙を逆手に取ったものの、大和はその混乱さえも自らのカリスマ性で力技の調和へとねじ伏せ始めている。あと一押し、相手の意識を完全に断ち切るための「何か」が足りない。
その時、舞台袖の影で、一人の少女がなおコーチの前に立っていた。
「……行ける?」
なおコーチの短い問いに、彼女——剣崎真琴は、自身の震える拳を強く握りしめた。真琴は、前回のステージで極度のプレッシャーから音程を外し、その一瞬のミスが原因でユニットを敗北の危機に晒したという、癒えない傷を負っていた。それ以来、彼女はメインの構成からは外され、誰もが「彼女はもう終わった」と陰で囁いていた。
「……私に、もう一度だけチャンスをください。この一曲だけでいい。私が、あの王道の流れを断ち切ってみせます」
真琴の瞳には、かつての怯えはなかった。そこにあるのは、自分自身への激しい嫌悪と、それを上回る「ステージに立ちたい」という執念だけだった。
なぎさたちが一度ステージを降り、機材の調整が行われるわずかな合間。会場に不穏な、けれどどこか寂寥感のあるバイオリンの旋律が流れ始めた。予定にはないインターバルに、観客がざわめく。
センターにスポットライトが落ちる。そこに立っていたのは、なぎさでも、みゆきでもない。漆黒のドレスに身を包んだ、剣崎真琴だった。
「……真琴?」
舞台袖で水を飲んでいたなぎさが、目を見開いた。
真琴に与えられた役割は、残酷なものだった。ユニットの楽曲ではなく、彼女一人のソロパフォーマンスで、大和たちのユニットが作り上げた「完璧な空気」を物理的に破壊すること。失敗すれば、真琴のアイドル生命は完全に絶たれ、ぴかりが丘の逆転の芽も潰える。まさに断崖絶壁の淵での独唱。
真琴はマイクを手に、ゆっくりと息を吐いた。 数万人の視線が、針のように彼女の肌を刺す。かつての恐怖が蘇り、喉が閉塞感で締め付けられる。大和が、客席の最前列に近い待機席から、冷徹な観察者の瞳で彼女を見上げていた。
「……独りで何ができるっていうんだい、子猫ちゃん」
大和の無言の圧力が、真琴の心拍数を跳ね上げる。
けれど、真琴は逃げなかった。彼女は目を閉じ、自分が「臆病者」であることを認めた。自分はなぎさのような天才ではないし、みゆきのような化け物でもない。ただ、一音一音に自らの魂を削り、泥の中に叩きつけることしかできない、不器用な表現者なのだ。
真琴が口を開いた瞬間、ホールの空気が「凍りついた」。
放たれたのは、美しさとは程遠い、けれど痛切なまでの「叫び」だった。 彼女は歌っていたのではない。自らの過去の過ちを、弱さを、ステージの上で公開処刑するかのように、剥き出しの感情で言葉を紡いでいたのだ。
その声は、大和が愛する「調和」を真っ向から否定し、アコが撒き散らす「暴力」を嘲笑うような、絶対的な孤独を纏っていた。
「——おお……なんだ、この声は……」
客席から、すすり泣きのような声が漏れ始める。 真琴の歌声は、会場の熱狂を「冷やす」のではなく、別の質の「熱」へと変質させていった。それは、誰の心にもある、挫折と、そこからの這い上がりを願う、静かなる激情。
真琴は、大和の視線を真っ向から受け止めた。 「あんたが作った綺麗な世界なんて、私には必要ない」 その意志が、旋律となって大和の胸元を鋭く抉った。大和は、初めて椅子から身を乗り出し、真琴という「取るに足らないはずの存在」が放つ、抗いがたい引力に顔を歪めた。
真琴の独唱が終わり、再び静寂が訪れる。 一瞬の後、会場は先ほどまでとは違う、地を這うような深い、そして重い拍手に包まれた。
真琴はふらつきながら舞台袖に戻り、なぎさの前に立った。彼女の顔は汗と涙でぐちゃぐちゃだったが、その表情はかつてないほど晴れやかだった。
「……なぎさ。繋げたわよ。あの人の『正解』に、私が特大の穴を開けておいたから」
なぎさは何も言わず、真琴の肩を強く叩いた。 真琴が作ったのは、単なる時間稼ぎではない。大和というシステムの根幹にある「完璧であることへの誇り」を、一人の臆病者の凱旋によって揺るがせたのだ。
「——いくわよ、みんな! 真琴が作ってくれたこのチャンス、無駄にしたら承知しないわよ!」
なぎさの声に、みゆき、ゆり、りん、咲、こまちが雄叫びで応える。 再びライトの中に飛び出す六人の背中は、真琴が灯した「執念の火」を纏い、より一層黒く、より一層鋭く研ぎ澄まされていた。
対戦相手の席で、日向大和がマイクを握りしめ、自身の指が白く震えていることに気づいた。 「……面白いじゃないか、ぴかりが丘。たった一人の敗残者が、私の完璧な夜をここまで汚すなんてね」
大和のリードに、初めて「狂気」が宿る。 それはもはや、勝つための戦略ではない。自分を辱めた烏たちを、根こそぎ叩き潰そうとする、王者の怒り。
第104話、旋律の断崖。 臆病者の放った一撃が、王国の門を粉々に砕いた。 漆黒の翼は、今、崩れ落ちる門を越え、玉座へと続く最後の一段に足をかけた。 勝敗の行方は、もはや誰にも予測できない、深淵の絶唱へと突入していく。




