後悔の残響、あるいは変異する牙
ステージの床を叩く低重音の振動が、美墨なぎさの喉を震わせ、思考を揺さぶる。日向大和が投入した「劇薬」こと調辺アコ。彼女の放つ歌声は、既存のアイドルユニットが守るべきすべてのマナーを蹂躙していた。アコは、味方のメンバーが歌い上げる繊細なメロディラインを、力任せのシャウトで平然と上書きし、本来あるべき立ち位置さえも無視して、獲物を狙う野獣のようにライトの海を駆け回る。
「……あいつ、味方の音さえ食い荒らしてる」
夏木りんが肩で息をしながら、愕然と呟いた。アコのパフォーマンスは、確かに圧倒的だ。しかし、それはユニットとしての「美しさ」を代償に得た、極めて危うい爆発力だった。なぎさは、スピーカーから溢れ出す音の濁流を必死に解析しようとするが、アコの放つ「ノイズ」は予測不可能で、なぎさが築き上げた不協和音の設計図さえも物理的な声量で押し潰してくる。
大和のユニットは、今や二つの顔を持っていた。大和が統率する「静かなる王道」と、アコが撒き散らす「荒ぶる破壊」。この相反する二つの力が衝突し、火花を散らすことで、会場の熱狂はこれまでにない異常な高まりを見せていた。
だが、なぎさは見逃さなかった。大和の眉間に、一瞬だけ走った微かな歪みを。
「……大和さん。あんた、あの子を御しきれていないわね」
なぎさは心の中で確信した。アコは強大な武器だが、同時にユニットの調和を内側から腐らせる劇薬でもある。アコの暴走に引きずられ、他のメンバーの表情には困惑と疲労の色が混じり始めていた。大和はそれを冷徹なリードで必死に繋ぎ止めているが、その負担は計り知れないはずだ。
「——なぎささん、あの子、凄いです! 私の心臓、さっきからあの子のビートに勝手に合わせようとして、破裂しそう!」
星空みゆきが、汗だくのまま叫ぶ。彼女の瞳には恐怖など微塵もなく、ただ「もっと強い音と戦いたい」という、純粋すぎて残酷なまでの渇望が燃え盛っていた。なぎさはその背中を強く叩き、現実へと引き戻す。
「浮足立つんじゃないわよ、みゆき。あの子は確かに強い。でも、今のあのユニットは『二つの心臓』がバラバラに動いている。……一瞬だけでいい。あの二つの音が重なる瞬間に、私たちの楔を打ち込むわよ」
なぎさは、自らの喉を限界まで絞り、これまでの楽曲構成を完全に無視した超高音のシンセリードのような歌声を叩きつけた。それは、アコの野生をさらに煽り、同時に大和の理性を挑発する、最高に悪趣味な招待状だった。
大和が応じる。彼女はアコを抑えるのを止め、あえてアコの暴走を「加速」させるための、眩いばかりのハイトーンを重ねてきた。
会場が、二つの巨大な才能の衝突に息を呑む。 アコの牙がなぎさたちの領域を食い破ろうとしたその瞬間、なぎさは「罠」を起動させた。
「——ゆりさん、今よ!」
月影ゆりが、アコが放った最も力強い一音の「残響」を、まるで鏡のように正確にトレースし、それを逆位相の音としてぶつけた。完璧なタイミングでの音の相殺。一瞬だけステージに訪れた奇妙な「無音」の真空。
アコが、初めて自分の声が届かない空間に戸惑い、ステップを乱した。大和との連携に、目に見えないほど小さな、けれど致命的な「ズレ」が生じる。
その数ミリの隙間に、星空みゆきが、光速の弾丸となって飛び込んだ。
なぎさが用意したのは、音の階段すらない、ただの垂直な壁のような高音。みゆきはそれを、自らの魂を削り出すような咆哮で駆け上がり、大和とアコの間に生じた真空を、漆黒の情熱で埋め尽くした。
「——なぎささぁぁぁぁん!!!」
みゆきの絶叫が、アコの暴力的なノイズを突き抜け、大和の黄金の旋律を真っ二つに切り裂いた。 支持率メーターが、これまでにない激しさでぴかりが丘学院へと大きく傾く。
ステージの袖で、なおコーチが拳を突き出した。 劇薬を投入したことで得たパワーは、制御を失えば自分たちを焼き尽くす刃となる。なぎさは、大和が自ら招き入れた「混乱」を逆手に取り、アコという牙の矛先を、大和自身の喉元へと向けさせたのだ。
演奏の合間、日向大和となぎさの視線が交差した。 大和の瞳には、自分の「劇薬」を攻略されたことへの後悔……など、微塵もなかった。 そこにあったのは、後輩が自分の仕掛けた地獄を笑顔で踏み越えてきたことに対する、身震いするほどの歓喜。
「……いいよ、なぎさちゃん。それでこそ、私が愛した怪物だ」
大和は、マイクを握り直し、隣で荒い息をつくアコの肩を強く、痛いほどに掴んだ。 アコは、自分を「攻略」したなぎさとみゆきに対し、さらに剥き出しの敵意を向け、その瞳を血走らせる。
「——次は、もっと痛い音を聴かせてやるよ、ガキども!」
アコが吐き捨てた言葉は、宣戦布告などという生温いものではなかった。 それは、折れた牙をさらに鋭く研ぎ澄ませ、自らの血を啜ってでも勝とうとする、敗北を拒絶する者の呪詛。
第101話、後悔の残響。 王者の放った劇薬は、一度は烏たちの翼を灼いた。 けれど、その痛みこそが、烏たちをさらなる変異へと導くガソリンとなる。 漆黒のステージは、今、どちらが先に燃え尽きるかを競い合う、音の地獄へと変貌していた。
なぎさは、自身の喉が血の味に染まっていくのを感じながら、不敵に笑った。 「……さあ、大和さん。第2セットは、ここからよ」




