カケ引き
マエン・グウト。
彼はムエタイにおいて最高の栄光を手にしていた。
民衆からは『大砲』という2つ名を授かり、ムエタイの世界から追放されるという異例。
不祥事などではない。
追放の理由は単純、強すぎるから。
マエンが強すぎる。
それは周知の事実だが、ムエタイで鍛え上げられたからではない。
元々、マエンはムエタイとは別のものを修めていた。
名は『ムエボーラン』、意味は『古き殴り合い』。
これはスポーツ化される前のムエタイの祖であり、そこにルールなどは存在しなかった。
素手だけではない、武器なども含んだ実戦的な技術。
首絞めも投げも、目潰しすら合法である。
要は勝てばいい。
男らしい、卑怯なども関係ない、勝てばいいのだ。
幼少期より磨き上げた殺人の技術は大人を軽く凌駕した。
そして、彼はその技術をただの実戦的な技術に収めるつもりは毛頭なかった。
確かに総合格闘のように様々な武を入れ込んだ技は強い、だが、それ故に特筆した強みはなくなる。
マエンはそれを危惧したのだ。
だからこそ、ルールに制限されるムエタイの世界で鍛錬し、特別な力を得ようとした。
だが、その道は険しかった。
ムエタイにおける師匠から色々なことを習い、リングにも上がった。
ただ、総合的に極めたものは一点を極めたものに敵わない。
特に肘や膝といったメインウェポンは劣っていた。
彼はそこから死に物狂いで這い上がり、いつしかその拳にはマエンそのものを象徴する殺人術である『俺自身』が握られていた。
ムエタイでも、ムエボーランでもない。
彼そのものなのだ。
「はぁ......はぁ......ははは」
マエンはイカれていた。
息を斬らそうが、闘気は未だ留まらず。
瞬間、マエンが間合いに侵入する。
ヴィクトルはそれを見越して左拳のフック。
しかし、彼の視界が突如、反転する。
それと同時、顔面に爪先が刺さる。
ヴィクトルが木にぶつかる前に体勢を立て直し、起き上がる。
目の前にマエンはいない。
刹那、頭を下げその重さを乗せた左拳が胸筋を穿つ。
シュダンッ!
音の割にそのダメージはさほど深くないように思えた。
だが、そこから繰り出されるのは右の蹴り上げ。
その狙いは背骨だ。
ヴィクトルは瞬時に上体を後ろに移動させる。
それは自滅行為だ、自ら攻撃を貰おうとしている。
その鋭き脛が骨を砕く勢いで当てられる。
しかし、ヴィクトルはその死の鎌を喰い止めて見せた。
「俺の体も捨てたもんじゃねぇな!」
ヴィクトルの次の一手。
それは左手で後ろにある脚を掴むこと。
そして、後方へ倒れる。
「クッ」
1つの支点は奴の手の中。
必然にマエンも崩れる。
地面へ落ちた時、マエンの右脚はヴィクトルの下敷きとなっていた。
全体重に重力が加算された紛うことなき、崩壊。
(折れたか)
マエンは気にすることなく、両の手の物量で奴を圧殺しにかかる。
だが、ヴィクトルがその起こりを捉え、下からマエンの顎へ打突を与えた。
脳が揺れるに足る一撃、その隙にヴィクトルが離れる。
しかし、マエンは震える視界の中、逃げる左脚を捕まえる。
そこから左を全体を投げ飛ばす。
「かぁ、マジ?」
ヴィクトルは嫌そうに立ち上がる。
「右脚が動かせないなら、左脚で2倍動かせばいい」
マエンは両脚で立っているかのようだった。
脳の影響をまるで無視している。
「もう、そろそろ終盤だな。あんたとの戦いは楽しかったよ」
ヴィクトルが笑顔を沈め、髪を手で上げる。
「何を今更、最初から俺は愉しんでいたさ。手品のように次から次に攻撃が飛んでくるお前をな。だが、こうして向かい合うのもこれで最期だ」
マエンはどす黒い闇へと変化した。
刹那、マエンが駆け......いや、奴へ跳ぶ。
脚が1つだけでは走ることがままならないのだろう。
前進に乗って右肘が襲いかかる。
しかし、ヴィクトルは右に体を倒し、躱す。
それはもう完璧なタイミングで。
瞬間、ヴィクトルの全てを付与した右拳が鳩尾へ突き刺さる。
「ゲハッ」
口から赤が溢れる。
内部からの血液が流れを逆らっている。
だが一刹那、マエンが両の腕で肩を掴む。
そこから想定される攻撃。
それは当然、左膝だ。
踏ん張りが利かない分、威力は落ちる。
とはいえ、大砲は大砲、確かな破壊であることに変わりない。
その刹那、ヴィクトルが左を胸に置く。
そこから攻撃を防ぐ左腕。
回避行動が出来ない分、重傷は免れず。
とはいえ、防御は防御、確かな鉄壁であることに変わりない。
しかし、その鉄の壁は到達し得なかった。
マエンの右脚はもう使えない、だからこそ、予備動作は皆無。
それゆえに膝は腕をすり抜けた。
受けが塵と化す膝撃ち。
ドゴォンッ!
それが無防備にも全身へ伝播する。
瞬間、ヴィクトルの肋が一気に割れ始めたようだ。
この痛み、金的への打撃を超越するほどに。
ヴィクトルが掴まれたまま、首を後ろにやる。
頭突きか。
いや、そうではない。
まるで寝るかのように自然な首だった。
その目は閉じられている。
「......もし、お前がこの先も生きていくのだとしたら、弱者にとっての希望だったろう。生まれつき、体が弱い人間など多くいる。後天的であろうが、それは変わりない。どうか安らかに眠ってくれ」
マエンが左脚を地面へ流す。
その足が大地を割る。
この時、割れた地面の音がヴィクトルの耳に入る。
しかし、ただの音だけでは気絶は絶てない。
だがしかし、彼の周りには人がいる。
道半ばで折れてしまった者たちが。
その中にはガイマスもいた。
生きていた頃、ガイマスは死を運命づけられていた。
ところがどうだ......今、彼は友を見守ろうと笑顔を浮かべていた。
その顔はこれっぽっちも痩せていなかった。
数々の想いが電流のように体に走る。
瞬間、彼の手先が揺れる。
(なっ、まずい)
マエンが手を離して下がろうとする。
だが、ヴィクトルはもう目を覚ましていた。
繋げるように頭突きが駆ける。
それはマエンの顔面を鈍く撃った。
「お前の状況は植物に近かったはずだ、なぜ起きれる......」
マエンの額の皺が寄り、その線に沿うように血が流れ出る。
「判断力鈍ってんじゃねぇのか? 明白だろうよ、俺があんたの衝撃を逃がしたのはよ。ただ、ちぃとばかし誤算が起きちまったがな」
(ありがとうな、先人よ)
その時、周りにいた人の幻影が天へ帰っていく。
「お前は勝機も逃したようだな。起きた時に顎へ放っていれば、流石の俺でも負けを悟っただろう」
「ここまできて勝ち負けにこだわってんのか? 俺はあんたと戦いたいからここにいるんだ。あんたに俺と同じぐらいの想いはあんのかよ」
彼は達弁だった。
終幕が近いと言うのにだ。
「黙れ。俺の意志は国の意志。お前個人では太刀打ちできない」
「はっ、個人? 違うねぇ。親友、家族、お偉いさんたち、その地であった人々・先人、その全員が俺を鼓舞してくれてんだ。その声が聞こえなくても、応える責任が俺にはある!」
刹那、『最強』の二人が前へ出る。
両雄の間合いで拳が飛び交う。
マエンは防御を挟み込みながら、的確に撃つ。
かたや、ヴィクトルは全てを攻撃に転換している。
マエンの打は折れた肋を徹底的に。
ヴィクトルの打は受け流される。
平等ではない攻防がひとしきり続く。
だが、ある時、ヴィクトルの攻めのサイクルがマエンを上回る。
拳が出るのを連撃で抑え込む。
マエンは防ぎに集中する他ない。
「最後の足掻きだぜ!」
ヴィクトルが左ポケットの石を拳に含み、そのまま、彼の肉体を乱打。
その音は鈍い。
骨まで響いているのではないか。
「シュッ、シュッ......シュ......」
だが、マエンは拳が来るより先に半歩後ずさり、威力と位置をズラしている。
それでも、彼の顔は白くなっていった。
マエンは呼吸が間に合っていないようだった。
瞬間、マエンが左膝を曲げて跳ぶ。
同時、左の横蹴りを繰り出す。
それがヴィクトルの首を狩る。
だが、首の筋肉が盛り上がっている。
足がそこから進んでいかない。
ヴィクトルは左で脛を掴む。
そして、下から上へ投げる。
約5mほどは飛んでいる。
マエンの後ろに木が迫る。
否。
マエンが後ろの木へ迫る。
両手を後頭部に回し、直接的なインパクトを避ける。
木に体がめり込む。
ヴィクトルが全速前進だ。
拳に意志を詰め込んだまま。
「来いよ、宿敵が」
マエンが笑った。
だが、その顔は狂気になど包まれていなかった。
「やっぱあんた好きだわ!」
瞬間、ヴィクトルのあまりある膂力が振るわれる。
鬼神の如き筋肉だ。
それがマエンの鳩尾を貫く。
後ろの木が崩れ落ちようとしていた。
だが、マエンは待っていました。
この時を。
左で肩を、左足を後ろの木へ。
刹那、時間が圧縮されたかのような右肘が飛ぶ。
その位置は胸。
折れた肋骨が肉へ更に喰い込む。
「ガッフ......」
ヴィクトルが白目になりながら、血を吹き出す。
だが、彼はすぐさま左腕を引く。
マエンも左を同じく動かす。
互いに満身創痍。
互いに最後の一撃だ。
「楽しかったぜ」
「これからも愉しいさ」
友を背負いし拳と国を乗せし拳。
その拳同士がぶつかり合う。
どちらとも、血反吐を吐く努力で作り上げた拳だ。
引くわけがない。
ヴィクトルの拳が割れる。
だが、止める気はさらさらない。
マエンの拳も割れる。
しかし、止める道理はない。
それを見ている審判らは男、いや、漢の結局を見逃すまいとしていた。
その時間は永遠のように感じたことだろう。
だが、少し妙だった。
十数秒は経っているはず。
それなのに2人は倒れるどころか、拳を向かい合わせている。
「はっはっは!」
タイの審判が大声で笑った。
「なに笑ってんですか?」
狂ったのだと思った。
「いや......マエンが良いライバルを見つけたものだなと思ってな」
目元を右手で覆うが、手の甲へ水が伝う。
ロシアの審判はその言葉を聞いてようやく分かった。
「まさか......2人とも......?」
強き2人はただ立ち尽くすのみ。
動く気配はない。
「かっけぇな、2人とも。でも、コールはしないとね。勝者......『最強』2人!」
審判の声は子供のようなあどけなさだった。
2人の姿を木の間から太陽が照らしていた......




