虚実は神樹のみぞ知る 4
自室の窓に三つ目の補助錠を取り付けていると、寮監の上級生から呼び出しを受けた。エリオットへの仕打ちの件かと僕は肝を冷やしたが、用件は違った。ドアに追加の錠前を追加する前だったのは幸いだったが、取り付けた後でどういった言い訳をするべきかは決めかねていた。
作業もそこそこに、指示通り一階の食堂スペースまで降りていく。周囲に漂うパンの焼ける香りにつられて厨房を覗くと、そこには入館許可証を二の腕に巻いたアザレアがいた。傍らのトースターには、切れ込みの入った白いパンがじりじりと焙られていた。
「おっすアル、ちょっと待っててね」
「なにか用?」
原則として、異性寮への立ち入りの際は許可証のほか、学園生の場合は制服着用が義務付けられている。持ち込んだ食材や私物の一切は大きなバスケットへ無造作に放り込まれていて、彼女は真っ黒なジャンパースカートの上から備品のエプロンをかけていた。肉付きの薄い胸を張って、アザレアは言った。
「生活リズムも栄養バランスもガバガバな幼馴染に、また恩でも売っておこうと思ってね」
そう言ったアザレアは顎をしゃくって、コンロの上で火にかけられている小ぶりの寸胴鍋を示した。くつくつソースの煮える音と共に、デミグラスのかぐわしい香りが厨房をふわふわ舞い上がる。
「わ、わざわざ作ってきたのか……?」
「ついでだよ、ついで。こっちの寮で、ちょっとしたパーティやってんの」
「パーティ?」
女学生が騒ぎ立てる口実になりそうな行事といえば、一か月後の納魂祭か、その前夜祭くらいのものだろうが、それ以外となると僕には思い当たる節はなかった。
「女子寮に新入生が来たの。それで、みんなで全快のお祝いを兼ねて迎えてあげようってことになったんだ」
「随分中途半端な時期に転入してきたもんだな」
「違う違う、転入じゃなくてさ。新年度に入るちょっと前くらいから、事故かなにかのせいで入院してたらしいんだ。それで、つい最近になってやっと退院できたんだって。寮に荷物は届いてたんだけど、ようやく昨日、本人が入れたってことでね。騒ぐ口実見つけた軟派の子たち、お酒まで持ち出して今たいへんなんだから」
「そりゃあおめでたいことで……」
女子寮の周りを徘徊してきたらしいエリオットが、馬車から降り立つ美少女がどうのと言っていたのを僕は思い出した。
僕はうまくアザレアの顔を見られないでいた。先日のことが尾を引いているのは間違いなく、置き場を見つけられない視線をうろうろとせわしなく泳がせていた。
「一昨日の朝からキッチンに立ってたのは、そのため料理の仕込みだったってわけか」
「そうだよぉ。お家柄はともかくとして、あたしより肥えた舌を持ってる女の子なんか学校中探したっていないもん」
「体よく飯炊き係を押し付けられて、厭にならないか?」
「別に? 好きでやってることだもん。っていうかアル、料理する人のことを飯炊き係って呼んでるの?」
「い、いやあの……別に悪い意味で言ったわけじゃあなくてさ。もしアザレアが他の連中にいいように使われてるんだとしたら、僕もいい気分しないから……」
「人間の言葉って難しいんだよ、ニュアンスひとつで良いようにも悪いようにも変わっちゃうんだから。あたしだからこうやって受け流してあげられるけど、アルなんかは社会に出たら絶対その手のことで苦労しそうだよね。ちゃんと話し相手を立てるってことを覚えた方がいいよ」
「ご、ごめん。失言……だった」
「珍しい、アルがそんなに素直に謝ってくれるなんて。なんか変なもの食べ……させてはないから、きっとどこかで草とかキノコとか拾い食いでもしたのね」
レードルでシチューを掻き混ぜながら、アザレアは彼女らしい舌ったらずなソプラノで言った。
「アルが考えてるみたいに、便利にメシツカイさせられてるわけじゃないよ。メリッサさんや他の女の子も手伝ってくれたしね。心配してくれてありがと」
小皿でシチューを味見して、アザレアは一人で満足げに頷いた。備品の皿に手際よく焼き上がったバゲットやシチューを盛り付けていき、彼女はそれらが満載したトレイを僕に手渡した。
「さ、冷めないうちに食べちゃお」
言われるがまま食堂のテーブルに二人分の食事が載ったトレイを運ぶと、やがて厨房での片づけを終えたアザレアが正面の席にやってきた。夕食にしては遅い時間帯のため、寮に住まう男子生徒の人影は少ない。大半が上階の談話室でカード遊びや猥談に興じているのだろう。ごく簡単な食前の祈りを済ませると、アザレアは勇んでバゲットにかじりついた。
僕もそれに倣って、ちぎったバゲットを口に運んだ。美味かった。硬めの表面が裂ける歯ごたえは耳にも心地よく、入道雲を思わせるその中身は、蒸した豚肉のようにもちもちとした弾力があった。噛めば噛んだだけ甘みが味わいに蕩けだし、続けざまに口へ流し込んだシチューのとろみと絡み合い、えも言われない旨味がじんわりと膨れ上がる。シチューそのものも絶品だった。ぶつ切りになった牛肉の脂はまさしく雪融けのようで、ソースに含まれたかすかな苦みがその甘みを増幅しているように感じた。今朝がたに一度ピクルスとグレープコーラだけが通過したきりの食道にそれらが嚥下されていく感覚すら、僕にとっては快感だった。
シチューの注がれた器の底にスプーンの先が届くようになったころ、僕は何とはなしに、アザレアに切り出してみた。まるで何かに憑かれたかのように、自分の身の上や死生観におぞましい悪意を絡ませて饒舌に語ってみせた。先日の列車での出来事は、未だに僕の思考の隅に引っかかったままだったからだ。
「あのさ、アザレア」
「なーに?」
「何か、困ってる事とか……ない? 悩み、とかさ」
「いきなり何なの」
困りごと困りごと、ぼそぼそアザレアは呟きながら、ようやく返答が出た。
「ガリア語と倫理の期末テストがやばい……とか?」
「そうじゃなくて、もっとこう……」
「そうじゃないもこうじゃないもないでしょ。アルやメリッサさんとは違って、あたしにとっては死活問題なんだから」
さっき言動で釘を刺されたばかりだったので、僕は言葉のチョイスに迷っていた。こと彼女のプライベートに関わることだ、いたずらに他人の感情を掻きまわして、機嫌を損ねられてほしくもなかった。あれこれ頭の中で蝶のように飛び回る語彙をあたふた捕えようと四苦八苦する僕を見て、アザレアはやけに愉しそうな顔をしていた。
「怒んないから、そのまま言ってみなよ。アルの考えてることなんかすぐ分かるんだから」
僕の苦悩を見透かしているかのように、アザレアは言った。僕はあくまで夢で見た出来事だという断わりを入れたうえで、列車での会話の一部始終をアザレアに語った。彼女は、それを黙って聞いていた。
「エリナ先輩の言ってたこと、本当だったんだ」
アザレアは額を人差し指で掻きながら、気まずそうに言った。
「その……アルが、変な夢を見るようになったって」
「ぼ、僕のことはいいんだよ。ただ、アザレアが言っていたことが……その、心配なだけだ」
加えて、あの日の出来事のどこからどこまでが夢だったのかを確かめる目的もあった。僕の身の回りで起こった事柄の何が真実で、何が虚構なのか。記憶と事実の齟齬を少しでも解消したいというのが本音だった。とりわけアザレアは、今でこそ快活で明るい性格の人物だが、スイッチのオンオフで突如として豹変してしまったかのような変貌ぶりは、どうにも看過できるものではなかった。まるで、芝生の萌える草原にバックリとクレバスが口を開けたかのように。あんなにもどす黒い悪意を孕んだ哄笑をするものかと、僕の中におけるアザレアという人物像との乖離は、それほどにまで著しかった。
「あたし、一昨日は確かにアルとリミノクスに行ったよ。でもそれだけ。口喧嘩のひとつだってしなかった」
そう、アザレアは力強くキッパリと言い切った。
――――天国って、とっても素晴らしい所なんでしょ?
「アルはあたしのテストと、それと自分の心配だけしてればいいの。明日は放課後、お医者さんに診てもらうんでしょう」
――――あたしのことを気持ちよく出迎えてくれる場所じゃない天国なんて、そんなのもう地獄と変わんないもん!
「そ、そうは言ってもさ」
――――奴隷を拾って飼主ヅラする成金野郎の情婦はもうイヤだから。
何らかの致命的な、喫緊の出来事に急かされたかのような、厭な汗をかいていた。目の前のアザレアと寸分違わない声色が放つ、自分以外のすべてに向けられた血腥い呪詛。アザレア本人との会話が呼び水になって、蓋をしていたはずの記憶から、そんなぬらぬらした悲憤慷慨が再び頭蓋で反響し始める。余りに実感的で、あまりにグロテスクでありながら、しかし理性がそれを虚構だと断じているというあやふやな情景の一部分。
――――母さんはね。そう言って死んだよ。
もう一人のアザレアが、嘲るようにそう口にした。
そのアザレアが、眼前のアザレアとどういった関係があるのかわからなかった。どうか、この薄気味悪い虚像のアザレアが記憶の墓穴から抜け出してきませんように。幼馴染で小生意気なアザレアが、死者も同然の偽物に取って代わられませんように。縋る相手なんていないとわかっていながら、僕は無意識に祈るのをやめられずにいた。
――――アル助けて、もう生意気言ったりしないからあ!!
――――お願い戻ってきてアルフレート!!
――――助けてえ……助けてよお……
――――何でも、何でもします、何でもしますからあ!!
胃の上部が窄まるのを感じて、僕はトレイの端に置かれたガラスコップに手を伸ばした。冷水を飲み下して、僕は深呼吸をした。口元を歪める僕とは対照的に、アザレアは明朗に言った。
「そういうのを、杞憂っていうんだよ」
「ふ、ふざけてるつもりはないんだけど」
「でも、アルの心配はやっぱり杞憂だと思うな。あたしが母さんとの関係で何か気に病んでるかも、だっけ。今のあたし、そんなことでうじうじ悩んでるように見える?」
「他人の考えてることなんか、わかるはずないだろ」
あたしはアルが何考えてるのか全部わかるのに。アザレアは無邪気に茶化した。
「あたしにとっては、死んだらどうなるかだなんて二の次だもん。明日のご飯はどうしようとか、初めての納魂祭は楽しいかなあ、とか。そっちの方が気にかかってしょうがないよ。誰が憎いとか、そんなの考えてたら時間の無駄だよ。おいしいものもおいしくなくなっちゃう。でしょ?」
僕は言われるがままに、彼女の持論を肯定した。
「あたしは今、幸せだよ。誰かが憎たらしいとか、いま生きてるこの世界が嫌になるとか、そんなことは思ってないよ。アルがいて、メリッサさんがいて……エリナ先輩やアンナ先輩とも、仲良くしていけたらいいなって。そう思ってる」
夏休みはみんなで旅行でもしたいよね。そう展望を語るアザレアの様子に、僕は少しだけ気が楽になったような気がした。少なくとも、どつぼに嵌りかけていたさっきまでよりはずっとマシだ。
「あたしの目下の目標ってのは、天国がどんな場所かなんてことじゃない。今は……強いて言うなら」
少々の溜めを作ってから、挑発的な笑みを浮かべてアザレアは言った。
「奉納演舞でどうやったらアルをボコボコにできるか、かな」
「は……はあ?」
「なにその顔、初耳だった? 言ってなかったっけ。あたし、四月中には立候補してたんだよ」
「ど、どんな行事だか知らないわけじゃないだろ? あんな野蛮に殴り合うだけのイベントに自分から参加するなんて」
「殴り合うだけって……アルこそ演舞のこと何にも知らないわからんちんじゃない。神様に捧げる演舞なんだよ? 場末の路地裏で酔っ払いがケンカするわけじゃないんだから。舞手はきちんと演目に則った振付と型を覚えなきゃいけないんだよ。そりゃあ、試合の部分で勝ち負けはあるけどさ。アルが言うような殴り合いなんか、その後でようやく始まるんだから。だいたい、ただのケンカが大昔からずっとお行儀よく語り継がれたりなんかするわけないじゃん」
「で、でも、女の子がそんな……手加減もできないような連中相手とそういうことするのは、あ、危ないよ。魔術式に非殺傷タグを付けるって言ったって、相手をブン殴って気持ち良くなりたいがために生きてるような奴だって、い、いるだろ」
「立派に振付の稽古に付き合えるような人にそんな変態はいないでしょ。あたしはとりあえず、その減らず口を引っぱたいて黙らせてあげたいところなんだけど」
「アザレアだって、僕をボコボコにしたいがために舞手になったんじゃないか」
僕の反論を受け取ると、アザレアは言葉を切って意味深な含み笑いをこぼした。
「アルだって立候補したんでしょ? メリッサさん、すっごい嬉しそうにしてたもん」
僕はかぶりを振った。いちいち人の心配に気を揉んでいたら体がもたないということを、改めて僕は理解した。そもそも心配のソース元なんか、僕の見た夢に過ぎないじゃないか。
「舞手のレッスン、覚悟しといた方がいいんじゃない。結構スパルタだからね。メリッサさんのお願いをもっと早く聞いてればなぁ」
「皆の前で殴られるだけだと思ってた」
「それは下調べが甘すぎだよぉ。だいたい、そんな意味不明な行事だったら毎年こんなに盛り上がったりしないよ。世界樹の実を一目見たいって気持ちに、男の子も女の子もないでしょ」
「世界樹の……実?」
世界樹に実がなるのか? 考えたこともなかった。そうだ、いくらご神体みたいな存在だからって樹はあくまで樹なわけで、当然葉は落ちるし実だって成るはずだ――――いや、そもそも葉は落ちるのか? 落ちるとしたらあの世界樹の大きさだ、街ぐるみで清掃したって間に合うかどうか疑わしいし、そんな土地を開拓した先人は一体何を考えていたのか、という話になる。とすると、世界樹は常葉樹の一種と考えた方がよさそうだ。少なくとも、ツェレファイスが定期的に落ち葉にまみれるなんて話は聞いたことがない。
それじゃ、実とはいったいどんなしろものなんだ? 樹木の果実という以上は種子を含んでいるわけで、繁殖の役割を果たすのが目的なわけだから、葉っぱのようにずっと枝先に実っていていいものじゃないはずだ。だのに、やはりツェレファイスの路上が果汁でびちゃびちゃに濡れるなんてことも聞かない。
僕の疑問は、アザレアにとっては驚嘆に値するようなものだったらしい。知識と才能の偏りを散々なじってから、やれやれといった風情でアザレアは得意げに講義を始めた。メリッサ従姉さんからの受け売りだろう奉納演舞と納魂祭に関する知識をひけらかす彼女は、動機はどうあれ晴れやかに見えた。
その語り口から、誰かを妬んだり憎んだりする文言は、ただのひとつも吐き出されることはなかった。




