第6話 教会最強のSランク
「大神官様がお呼びだ」
兵士のその一言で、胸の奥が冷たく縮んだ。
俺は戸口の前で立ち尽くしたまま、すぐには返事ができなかった。
大神官。
国の教会の頂点。
昼の視察で、たった一度だけ見た白い法衣の女。
そんな人に、どうして俺みたいな罪人奴隷が呼ばれるんだ。
考えられることなんて、一つしかなかった。
昼間、勝手に口を出した罰だ。
罪人の分際で監督役を止めた。
視察の場を乱した。
もしかしたら、大神官の機嫌まで損ねたのかもしれない。
「早くしろ」
監督役が苛立ったように言う。
俺は喉の奥で詰まった息を無理やり飲み込んだ。
「……はい」
小屋を出ると、夜の空気は昼よりもずっと冷たかった。
北風が頬に当たるたび、傷だらけの肌がひりつく。
見上げた空には雲が低く垂れ込め、星の光さえほとんど見えない。
前を歩く兵士が持つランプの明かりだけが、泥の浮いた地面をぼんやり照らしていた。
背後で、留置小屋の戸が閉まる音がした。
ガドやマルタ婆さんたちの顔が、最後にちらりと頭をよぎる。
もう戻れないかもしれない。
そんな考えが、嫌でも浮かんだ。
「どこへ……」
思わず漏らした声に、兵士は振り返りもしない。
「黙ってついてこい」
それきりだった。
俺は俯いたまま、二人の後ろを歩く。
首輪は相変わらず冷たい。
歩くたびに鎖が擦れ、じゃり、と小さな音を立てる。
その音を聞くたび、自分がもう人間ではなく、罪人奴隷という道具にされたのだと思い知らされた。
鉱山の夜は、昼とは違う怖さがある。
昼は鞭と怒声と労役がある。
夜は静かすぎる。
遠くで風が唸り、どこかの坑道から水滴の落ちる音がして、時々、誰かの咳やうめきが闇の中から滲んでくる。
その全部が、死に損なった者たちの声みたいに聞こえた。
しばらく歩くと、昼に視察団が使っていた建物の前に出た。
鉱山の中では珍しく石造りのしっかりした建物で、入口には聖騎士らしき護衛が二人立っている。
奴隷小屋や監督の詰所とは違い、窓から漏れる灯りまで清潔で、別の世界みたいだった。
兵士が護衛に何かを告げる。
護衛の一人が俺を上から下まで見て、わずかに眉をひそめた。
汚い、と思ったのだろう。
当然だ。
奴隷服は煤と泥で黒ずみ、手は血と傷で荒れている。
髪も伸び放題で、頬はこけていた。
こんな姿で教会の頂点に会うなんて、本来なら許されるはずがない。
「入れ」
短く言われ、俺は背中を押されるように中へ入った。
中は外よりずっと暖かかった。
暖炉の火が静かに燃えている。
床は磨かれた石で、壁には聖印の彫られた燭台が並んでいた。
あまりにも久しぶりのまともな暖かさに、身体が一瞬だけ戸惑う。
けれど、それで心まで緩むことはなかった。
俺は部屋の中央で立ち止まった。
奥には長机があり、その向こうに白い法衣の女が立っていた。
昼に見た大神官だ。
銀の髪は今も乱れなく結われ、法衣には皺ひとつない。
ただ、昼より少しだけ顔色が悪く見えた。
部屋の中には、大神官のほかに年配の神官が二人、護衛の騎士が一人いた。
その全員の視線が一斉に俺へ向く。
居心地の悪さで、胃の奥がきりきりした。
「連れて参りました」
兵士が言う。
大神官は頷いた。
「ご苦労。下がってください」
護衛たちが一瞬だけ顔を見合わせる。
「しかし、大神官様――」
年配の神官が控えめに口を開いた。
「この者は犯罪奴隷です。万一のことがあっては」
「下がりなさい」
昼と同じ、静かな声だった。
でも今は、それ以上に揺るがないものがあった。
「この方と、少しだけ二人で話します」
この方。
俺は反射的に顔を上げた。
今の言い方は、明らかに罪人に向けるものではなかった。
神官たちは困惑を隠せないまま、それでも逆らえずに頭を下げる。
護衛の騎士も一礼し、兵士たちと一緒に部屋を出ていった。
最後に扉が閉まる音が、妙に大きく響いた。
広い部屋に、俺と大神官だけが残る。
逃げ場がなくなった気がして、かえって息が詰まる。
「あの……」
何を言うべきかわからないまま、声だけが出た。
「昼のことなら、すみませんでした」
大神官は黙って俺を見ている。
「勝手に口を出しました。罪人の分際で、視察の邪魔をして……」
言葉を探しながら続ける。
「あの、処罰なら……俺一人で受けます。だから、他の奴隷たちには――」
そこで、言葉が止まった。
大神官が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきたからだ。
怒っているようには見えない。
でも、だからこそ余計に怖かった。
俺は反射的に一歩下がりかける。
だが、背中はすぐ冷たい壁に当たった。
逃げ場がない。
「……顔を、上げてください」
その声音は、昼のような厳しさではなく、ひどくかすれていた。
俺は戸惑いながら、少しだけ顔を上げる。
次の瞬間、信じられないことが起きた。
大神官が、俺の目の前で膝をついた。
白い法衣が床に広がる。
さらに、そのまま深く頭を下げた。
「……え」
理解が追いつかなかった。
何をされたのか、すぐにはわからない。
でも、目の前の光景だけははっきり見えている。
国の教会の頂点が。
王すら頭を下げさせると言われる大神官が。
罪人奴隷の俺に、跪いていた。
「だ、大神官様……!?」
思わず声が裏返る。
「や、やめてください、そんな……!」
俺は慌てて身を引こうとした。
けれど壁際まで追い詰められていて、ろくに動けない。
「どうか、お許しください」
大神官の声が震えていた。
「気づくのが遅れました。こんな場所に、こんな姿で……」
何を言っているのか、まるでわからない。
許す?
俺が?
頭の中が真っ白になる。
「待ってください、何かの間違いです」
ようやくそれだけ言えた。
「俺はただの罪人奴隷です。大神官様が、そんなふうにする相手じゃ――」
大神官はそこで、ようやく顔を上げた。
整ったその顔は、昼以上に青ざめている。
それなのに瞳だけは、真っ直ぐ俺を見つめていた。
「間違いではありません」
断言だった。
「あなた様は、ただの僧侶ではありません」
部屋の空気が、一瞬止まった気がした。
俺は瞬きをした。
「……何を、言ってるんですか」
声が情けないほど掠れる。
大神官はゆっくり立ち上がると、それでも俺に対してどこか一歩引いた姿勢を崩さなかった。
「私は大神官として、多くの聖職者を見てきました。神官も、司祭も、聖女も、騎士も。ですが、あなた様の魂に刻まれた聖痕を見間違えることはありません」
聖痕。
知らない言葉ではない。
神に選ばれた者に現れる、特別な印。
でも、それは昔話や教会の伝承の中に出てくるようなもので、俺には関係のない話のはずだった。
「俺に、そんなもの……」
「あります」
大神官は言い切る。
「教会番付一位」
心臓が大きく跳ねた。
「正体不明のSランク」
俺は言葉を失う。
教会番付。
それは王国中の聖職者が知る、実力と功績による序列だ。
その一位ともなれば、名実ともに教会最強。
ただの神官や僧侶とは、最初から生きる世界が違う。
「あなた様は――」
大神官の唇が、わずかに震えた。
「教会最強の武闘派僧侶です」
頭の中が、真っ白になった。
そんなはずがない。
俺は回復魔法が弱くて。
勇者パーティーを追放されて。
冤罪で奴隷に落とされた、ただの僧侶だ。
それなのに、教会最強?
Sランク?
武闘派?
何ひとつ、俺の知っている自分と繋がらない。
「やめてください」
気づけば、そう言っていた。
「そんな、からかわないでください」
大神官の眉がわずかに寄る。
でも、怒ったわけではない。
痛ましそうな顔だった。
「俺は、回復魔法も弱いし……勇者パーティーからも追放されました」
言いながら、自分の声が震えていく。
「今は奴隷です。罪人です。そんな俺が、教会最強なんて……あるわけないじゃないですか」
大神官は静かに首を振った。
「あなた様の回復魔法が弱いのではありません」
俺は息を止めた。
大神官の声は、今度はひどく優しかった。
「あなた様の魔法は、瞬間回復ではなく、持続回復です」
知らない言葉みたいに聞こえた。
持続回復。
「傷を一瞬で治すのではなく」
大神官は、一語ずつ確かめるように言う。
「傷ついても倒れない身体を作る魔法なのです」
俺は言葉を失ったまま、大神官を見つめることしかできなかった。
傷ついても倒れない身体を作る魔法。
そんなもの、聞いたことがない。
少なくとも、俺は知らない。
俺が毎朝かけていたのは、小さな祈りだ。
疲れが少しでも残らないように。
怪我が悪化しないように。
毒や呪いに飲まれないように。
それだけだったはずだ。
「俺は、そんな大層なこと――」
言いかけた、そのときだった。
ゴン、と腹の底に響くような音がした。
次の瞬間、建物全体が大きく揺れる。
壁の燭台がかちゃりと鳴り、机の上の器が床に落ちた。
「……っ!」
思わず壁に手をつく。
外から、怒号が聞こえた。
「坑道が……!」
「下がれ! 下がれ!」
悲鳴が重なる。
それは昼間の監督の怒鳴り声とは違う、本気で怯えた人間の声だった。
大神官がはっと顔を上げる。
直後、扉が勢いよく開いた。
昼間そばにいた護衛の騎士が、息を切らして飛び込んでくる。
「大神官様! 第三坑道で瘴気が噴き出しました!」
騎士の顔は青ざめていた。
「作業小屋の奥から、瘴獣が……! 監督役と奴隷が何人もやられています!」
瘴獣。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
瘴気に侵された魔物。
普通の山野にいる獣より狂暴で、痛みも恐怖もなく襲いかかってくる。
こんな狭い鉱山で出れば、逃げ場はない。
「ガド……」
気づけば、その名前が口から漏れていた。
今夜の作業順なら、第三坑道寄りの小屋にいたはずだ。
マルタ婆さんも、あの辺りの寝台だった。
胸の奥が強く痛んだ。
「第三坑道の作業小屋……そこに、まだ奴隷が」
俺が呟くと、騎士が怪訝そうにこちらを見る。
当然だ。
罪人奴隷が、こんな場で口を挟むこと自体おかしい。
だが、大神官は違った。
「被害の規模は」
「坑道内の確認が追いついておりません! 瘴気が濃く、神官たちの浄化も押し返されつつあります!」
騎士の報告に、大神官の目が鋭くなる。
「負傷者の救護を最優先に。入口周辺の封鎖は」
「始めていますが、内部にまだ取り残された者が――」
そこで、大神官の視線がもう一度俺へ向いた。
昼のような驚きではない。
今度は、何かを決めた目だった。
「あなた様」
呼ばれて、肩が震える。
「……む、無理です」
反射的にそう言っていた。
「俺は、戦えません」
声が掠れる。
「回復魔法だって大したことないし、首輪もついてる。魔物相手になんて……」
言いながら、喉の奥が苦くなる。
まただ。
また、自分には無理だと決めつけている。
でも、それ以外にどうしろというのか。
今の俺は、剣も持てない。
魔法もろくに使えない。
罪人奴隷の身体ひとつで、瘴獣のいる坑道に入るなんて、自殺と変わらない。
けれど、大神官は首を振った。
「戦えるかどうかを、今のあなた様の理屈で決めないでください」
その言い方は厳しかった。
でも、突き放す厳しさではない。
「あなた様は、先ほどもそうでした」
「え……」
「ご自身の危険より先に、倒れた者を助けようとなさった」
俺は言葉を失う。
「首輪をつけられ、力を封じられ、二年間も削られ続けてなお、そうして身体が動くのなら」
大神官は、まっすぐ俺を見る。
「あなた様の魂は、まだ死んでいません」
胸の奥が、どくりと脈打つ。
外ではまだ悲鳴が続いていた。
誰かの怒鳴り声、何かが砕ける音、遠くで響く獣の咆哮。
ガドとマルタ婆さんの顔が脳裏に浮かぶ。
若い奴隷たちの、傷だらけの背中も。
もし第三坑道が襲われているなら。
あそこにいる誰かは、今も逃げ遅れているかもしれない。
「でも、俺は……」
唇が震える。
大神官は一歩、こちらへ近づいた。
今度は跪かない。
代わりに、静かに右手を差し出してくる。
「怖いのなら、それで構いません」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「ご自身を最強だと信じる必要もありません」
俺はその手を見る。
白くて、迷いのない手だった。
「ただ、目の前で傷つく者を見捨てたくないと思うのなら」
大神官の声が、胸の奥へ落ちてくる。
「どうか、私と来てください」
その瞬間、建物の外でひときわ大きな咆哮が響いた。
床がびり、と震える。
俺の身体は強張った。
逃げたいと思った。
足がすくんだ。
でも、それと同時に、別の感情もあった。
あそこには、まだ人がいる。
昼間に倒れた老人。
夜ごと咳き込んでいた奴隷。
ガド。
マルタ婆さん。
誰かが死ぬかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥の曖昧な熱が、今までにないほど強く燃えた。
熱は首輪の痛みとぶつかり合い、ずきずきと身体の奥を叩いた。
「……っ」
思わず胸を押さえる。
大神官が目を細めた。
「その感覚です」
「え……」
「大丈夫です。あなた様の身体は、覚えています」
覚えている。
何を。
聞き返す余裕はなかった。
騎士が苛立ちを隠しきれない声で言う。
「大神官様、危険です! すぐに避難を――」
「私は行きます」
大神官はきっぱりと言った。
そして、まだ震えている俺に向き直る。
「あなた様は、どうなさいますか」
その問いに、すぐ答えは出なかった。
怖い。
どうしようもなく怖い。
自分が何者なのかもわからない。
Sランクだと言われても信じられない。
武闘派僧侶だと言われても、何ひとつ思い出せない。
それでも。
「……行きます」
気づけば、そう答えていた。
声は震えていた。
でも、嘘ではなかった。
「放っておけません」
大神官の表情が、ほんのわずかだけ和らぐ。
「ありがとうございます」
その言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。
ありがとうなんて、もう長いこと言われていなかったからだ。
「ただし、無理はなさらないでください。まずは私の後ろに」
大神官はそう言うと、差し出していた手を下ろし、扉の方へ向き直った。
「扉を開けなさい」
騎士が慌てて道を空ける。
扉の向こうから、瘴気混じりの冷たい空気が流れ込んできた。
鉄と血と獣の臭いが混ざった、嫌な匂いだった。
俺は息を呑む。
足はまだ震えている。
首輪も重い。
身体は痩せて、傷だらけだ。
それでも、俺は一歩を踏み出した。
夜の鉱山の闇の中へ。
大神官に背中を押されるように、戦いの場へ向かって。
次は、第三坑道での瘴獣戦です。
こういちの身体に残っているものと、忘れてしまったもの。
その両方が少しずつ表に出てきます。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。




