表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/24

第5話 大神官の来訪

深夜ですが投稿です。

正門の方から響いてくる馬車の音は、いつもの荷車とはまるで違っていた。


重く軋む木車の音じゃない。

もっと整った、無駄のない音だった。

複数の馬が雪解け泥を踏みしめる音。金具の触れ合う硬い音。

護衛たちの足並みがぴたりと揃う、張り詰めた気配。


「顔を上げるなよ!」


監督長の怒声が広場に飛ぶ。

俺たち奴隷は整列させられたまま、薄く凍った地面の上に立たされていた。


朝の風は冷たい。

けれど今日は、それ以上に空気そのものが妙に重い。


「余計なことを喋ったやつから舌を抜く。いいな」


誰も返事はしない。できるわけがない。

ただでさえこの鉱山じゃ、目立つことは死に近い。

それが帝都からの視察ともなれば、なおさらだった。


俺は俯いたまま、足元の泥を見つめる。

胸の奥では、またあの微かな熱が灯っていた。

二年のあいだ、理由もわからず時々疼く、曖昧な熱だ。

首輪をつけられてからは、祈りの感覚なんてほとんど消えた。

それでも、完全にはなくならなかった何かが、今日はやけにはっきりしている。


「こういち」


隣でガドが小さく呼ぶ。


「お前、顔色悪いぞ」


「大丈夫です」


そう答えたけれど、自分でも声が弱いのがわかった。

昨夜も、熱を出した奴隷のそばにしばらくついていた。

眠れたのはほんの少しだ。


でも、ここで倒れれば、それまでだ。

やがて、馬車の音が止まる。


広場を囲んでいた監督役たちが、一斉に背筋を伸ばした。

さっきまで鞭を鳴らしていた連中とは思えないほど、媚びるみたいな気配が混じっている。


「大神官様をお迎えしろ!」


その声に、広場の空気がさらに張り詰めた。

大神官。

国の教会の頂点。王すら無視できない、聖職者の最高位。

そんな存在が、本当にこんな鉱山まで来たのか。


思わず顔を上げかけて、すぐに堪える。

見るなと言われた。

逆らえば、後でどんな目に遭うかわからない。


だが、気配だけでわかった。

護衛の兵たちとは違う、静かな圧がある。

怒鳴らなくても、人を黙らせる種類の空気だ。


雪解け水を踏む足音が、ゆっくりこちらへ近づいてくる。


「ここが例の坑区です」


監督長の声だった。

普段よりずっと低く、へりくだっている。


「最近、瘴気のようなものが見られまして……ですが作業への支障は軽微で――」


「軽微?」


女の声だった。


静かなのに、よく通る声。

その一言だけで、監督長が息を呑む気配がした。


「奴隷の顔色を見なさい。どこが軽微なのです」


冷えた声音だった。


でも、ただ冷たいだけじゃない。

そこには、現場を一目で見抜く鋭さがあった。


「も、申し訳ございません」


監督長の声が裏返る。

俺は少しだけ目を上げた。

視界の端に、白い法衣が見えた。

雪より白い布地に、金糸で聖印が縫い込まれている。

その周囲だけ、薄暗い鉱山の広場に似合わないほど清潔で、遠い世界のものみたいだった。


大神官は若い女だった。


二十代前半くらいだろうか。

長い銀色の髪を結い上げ、無駄な装飾のない法衣をまとっている。


美しい、と思った。


でも同時に、近寄りがたいとも思った。


整った顔立ちの奥にある眼差しは、監督長や護衛たちよりずっと厳しい。

それでいて、どこか人を見ている目でもあった。


その後ろには、神官や騎士たちが何人も従っている。

大神官は監督長の説明を聞き流すように、広場の奴隷たちを一人ずつ見ていった。


その視線が自分に向かうたび、皆の肩が強張る。

誰もが、見つからないように息を殺していた。


「坑道の奥も確認します」


大神官が言う。


「瘴気の発生源だけではありません。作業環境と、奴隷の状態も報告と照らし合わせます」


監督長の顔が引きつったのが見えた。当然だ。

この鉱山の実態を見られて困ることなんて、いくらでもある。

俺たちは視察団の後ろを、一定の距離を空けて歩かされた。


坑道の入口をくぐると、外の冷気よりも嫌な湿り気が肌にまとわりつく。

岩壁には煤がこびりつき、ところどころに張られたランプの明かりが、暗い通路を頼りなく照らしていた。


水滴の落ちる音。

鎖の擦れる音。

誰かの咳。


その全部が混ざり合って、坑道の奥で鈍く反響している。


「……っ、げほっ」


前を歩いていた痩せた老人が、突然大きく咳き込んだ。

足がもつれ、その場に崩れ落ちる。


「おい、立て!」


監督役が苛立った声を上げ、鞭を振り上げた。


老人は立てない。

顔色は土みたいに悪く、呼吸は引きつっていた。


その瞬間、俺の身体は勝手に動いていた。


「待ってください!」


自分でも驚くほど大きな声が出た。

監督役の腕が止まる。

しまった、と思った時には遅かった。


周囲の視線が、一斉にこちらへ向く。


「何だ、罪人」


監督役が睨む。

首輪がじわりと熱を持った。

でも、もう引けなかった。


「その人、瘴気にあてられてます。今打ったら……死にます」


監督役の顔が歪む。


「だからどうした」


「少しだけ、休ませてください」


「お前に指図される筋合いはない!」


鞭の柄で殴られそうになった、そのときだった。


「下がりなさい」


大神官の声が通る。坑道の空気が、一瞬で静まった。

監督役は慌てて身を引く。

大神官は倒れた老人の前に膝をついた。

白い法衣の裾が泥に触れるのも構わない。

老人の額に手を当てると、淡い光がひと瞬きした。

荒かった呼吸が、わずかに落ち着く。


「瘴気と過労、それに栄養失調です」


大神官は立ち上がり、監督長を振り返った。


「これを軽微と言ったのですか」


監督長は顔を真っ青にした。


「も、申し訳……」


「謝罪は後です」


その言い方に、言い逃れは許さないという意志があった。

俺はそのやり取りを見ながら、ゆっくり息を吐いた。助かった。

少なくとも、今この場では。

それで十分なはずだった。


だが、大神官の視線はそこで終わらなかった。

彼女は、倒れた老人から顔を上げると、今度はまっすぐ俺を見た。


心臓がどくりと鳴る。

何かまずいことをしただろうか。

罪人が勝手に口を出したから、あとで処罰されるのかもしれない。

そう思って、反射的に視線を伏せようとした。


けれど、できなかった。

大神官の目が、俺を捉えたまま動かない。

その眼差しは、ただ俺を見ているというより、もっと奥の何かを見透かしているようだった。


「あなた……」


小さな声だった。

でも、その声には、さっきまでの冷静さとは違う揺れが混じっていた。


俺は息を呑む。

大神官が、一歩、また一歩と近づいてくる。


護衛の騎士たちが怪訝そうに顔を見合わせるのが見えた。

監督長も、何が起きているのかわからない顔をしている。

俺自身が、一番わからなかった。


首輪はついている。

身体は痩せて、煤だらけで、奴隷服はぼろぼろだ。

どう見ても、ただの罪人奴隷だ。


なのに、大神官の顔色が変わっていく。


血の気が引いたみたいに白くなり、瞳だけが信じられないものを見たように揺れていた。

その視線が、俺の顔から、首元へ、胸元へ、そしてまた目へと戻る。


まるで、何かを確かめるように。


「なぜ……」


その声は、震えていた。


大神官は俺の目の前で立ち止まる。

そして、呆然としたまま、ほとんど囁くように言った。


「なぜ……あなた様が、このような場所に……?」


意味がわからなかった。

誰に向かって言っているんだ。

少なくとも、俺ではないはずだった。

俺はただの罪人奴隷だ。

回復魔法もろくに使えない、追放された僧侶でしかない。


「大神官様?」


後ろにいた神官のひとりが、戸惑った声を漏らす。


「どうかなさいましたか」


大神官は答えない。

ただ、信じられないものを見るみたいに、俺から目を離せずにいた。


その白い指先が、わずかに震えているのが見えた。

監督長も護衛の騎士たちも、完全に動きを止めていた。

坑道の中が、気味が悪いほど静まり返る。


俺は何か言わなければと思った。


でも、喉が塞がって声が出ない。

大神官が、もう一歩だけ近づこうとする。

そのときだった。


「ここは瘴気が強すぎます。大神官様、ひとまず下がってください」


背後の神官が慌てて声をかけた。

別の騎士も一歩前に出る。


「安全のため、先に外へ」


大神官はなおも俺を見ていた。今にも何かを口にしそうな顔をしていた。

けれど、結局その言葉は続かなかった。


その時は聞こえなかったが、他の神官に引っ張られるように大神官はその場を後にした。

白い法衣の裾が、暗い坑道の奥へ消えていく。

俺はその背中を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。


「……何だ、今の」


誰かが小さく呟いた。


次の瞬間、止まっていた空気が一気に動き出す。


監督役たちは顔を見合わせ、苛立ったように怒鳴った。


「見るな! さっさと持ち場へ戻れ!」


鞭の音が坑道に響く。

俺たちは慌てて視線を落とし、また鉱石を運ぶ列へ戻された。

けれど、もう誰もさっきまでと同じ顔はしていなかった。

奴隷たちの間には、押し殺したざわめきが残っている。


「おい、今の……お前に言ったのか?」


休憩に入った短い時間、ガドが低い声で聞いてきた。


「わ、わからないです」


本当に、それしか言えなかった。


「でも、“あなた様”って……」


向かいに座っていたマルタ婆さんまで、珍しく真顔だった。


「罪人相手に使う言葉じゃないよ」


俺は首を振る。


「何かの見間違いです。俺なんかに、そんな……」


言いながら、自分の声が震えているのがわかった。

見間違い。

聞き違い。

そうとでも思わないと、頭がおかしくなりそうだった。


ガドは納得していない顔で俺を見る。


「だが、あの顔は普通じゃなかったぞ」


「やめな」


マルタ婆さんが低く言った。


「こんな場所で、余計なことを口にするもんじゃない」


その一言で、ガドも黙った。たしかに、その通りだ。

監督役に聞かれれば、それだけで何をされるかわからない。

でも、黙ったところで、俺の胸のざわつきは消えなかった。


あの大神官の目。

震える声。

“あなた様”という呼び方。


どれも、俺の知っているこの世界のどこにも噛み合わない。

作業に戻ってからも、何度もその言葉が頭の中で反響した。


なぜ、あなた様が。

そのたびに、胸の奥の曖昧な熱が、いつもより強く脈打った。



その日の仕事は、ひどく長く感じた。


鞭の音も、鉱石の重さも、坑道の寒さも、全部どこか遠い。

頭の中だけがずっと、さっきの一瞬に引き戻されていた。

夜になって留置小屋へ戻ってからも、同じだった。

薄いスープを口に入れても味がしない。

寝台に腰を下ろしても、身体が落ち着かない。


「こういち」


ガドがまた小さく呼んだ。


「今夜は気をつけろよ」


「え……?」


「あんなふうに見られたんだ。良く転ぶか、悪く転ぶかはわからんが、何かある」


マルタ婆さんも黙って頷いた。


「呼ばれたら、余計なことは言うんじゃないよ」


呼ばれる。その言葉に、背筋が冷えた。

まさか、と思った。

でも、まさかで済まない場所だということは、この二年で嫌というほど知っている。


俺は毛布を握りしめた。眠ろうとしても眠れない。

外では北風が唸り、板壁の隙間から細い音を立てて入り込んでくる。

周囲の奴隷たちの寝息や咳が、暗い小屋の中で不規則に重なっていた。


どれくらいそうしていたのか、わからない。

やがて、小屋の戸が乱暴に叩かれた。

全員の身体がびくりと跳ねる。


「こういち!」


監督役の声だった。

心臓が、嫌な音を立てる。


「出てこい」


俺はゆっくり立ち上がった。

手足の先が冷える。


ガドが何か言いかけたが、結局口をつぐんだ。

マルタ婆さんは、ただじっと俺を見ている。

戸を開けると、外にはランプを持った監督役と兵士が立っていた。


「……俺、ですか」


掠れた声で聞くと、兵士が無表情のまま答える。


「大神官様がお呼びだ」


次話からは、その違和感の正体が少しずつ明かされていきます。


引き続き読んでいただけると嬉しいです。

よければ感想やブックマーク、評価なども励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ