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慟哭

 エンリケが空を見上げると、みみずくを模した人形がこちらへと迫っていた。銀色に光る爪先が、エンリケの体を切り裂こうとする。


「リンダか!」


 エンリケは体ごと地面を転がってそれを避けると、岩の蔭へ飛び込んだ。


 ドゥバア――ン!


 自分の背丈を超える岩の半分が吹き飛ぶ。


 グオオオォオオ――!


 次の一撃を防ぐべく、キマイラがミネルバに向かって跳躍した。ミネルバは急旋回してキマイラの爪を躱すと、間合いの外に着地する。エンリケは岩陰から出ると、自分の胸元へ視線を向けた。厚い革を何枚も重ねたマントが、ざっくりと裂けている。


「昔の男に、ずいぶんと酷いことをする」


 指先に着いた血を眺めながら、エンリケはつぶやいた。


「本当に昔の話。今にして思えば、気の迷いとしか思えない」


 リンダが吹く強風に黒髪をなびかせながら、ミネルバから降り立つ。


「セラフィーヌを失って、人が変わったのだと思っていたけど違う。今のあなたが本当のあなた。私が大っ嫌いだった男にそっくり」


 エンリケがリンダへ肩をすくめて見せる。


「確かに憎しみも、愛情の一つではあるな」


「ふざけないで。どうしてフリーダを見捨てたの?」


「フリーダはクエルを守った。それが彼女の宿命だ」


「何が宿命よ。あなたは私とセラフィーヌの思いを踏みにじった!」


 リンダの叫びに、エンリケは首を横に振った。


「君は勘違いをしている。セラフィーヌはそれを心から悔いていた」


「嘘よ! セレンも二人が一緒に、そして平和に暮らすことを心から望んでいた!」


「やはり君も、自分が信じたいと思う物だけを見ているのだな……」


 そうつぶやいたエンリケを、リンダは殺気を込めた瞳で睨みつけた。


「おしゃべりはもう十分。フリーダの魂に、あなたの心臓を捧げる!」


 ミネルバの翼がはばたき、突風が巻き起こる。


「アアァァ――!」


 不意に苦し気な呻き声が響き渡った。飛び立とうとしたミネルバの背中から、リンダの体が崩れ落ちる。


「いつの間に!」


 その足には真っ黒な体をした、蛇を模した人形が巻き付いていた。リンダは手でそれを追い払おうとするが、食い込んだ牙に振り払う事が出来ない。リンダの体が地面に転がった。


「エキドナ。キマイラのしっぽだよ。小さくても、君の力ぐらいでどうにかなるものじゃない」


「ミネルバ!」


 リンダの呼びかけに、ミネルバはくちばしで蛇を捉えようとした。しかしリンダの体に巻き付いた相手に、くちばしを使うことが出来ない。


「卑怯者!」


 リンダがエンリケに怒りの声を上げる。


「リンダ、ギュスターブの元へ帰れ。母親として、()()()()フリーダのことを弔ってやるんだ」


「母親の何が分かるの!? フリーダを弔うのは、お前の心臓を捧げてからよ!」


 それを聞いたエンリケが、小さくため息をつく。


「君と私は似た者同士だ。決して己の信念を曲げたりはしない。分かり合えないのは本当に残念だよ」


 ビュン――!


 鋭い風切り音がエンリケの耳に響いた。林の方から飛んできた何かが目の前を横切る。気づけば、地面に横たわっていたはずのリンダの姿が消えていた。振り返ると、林の中から巨大な蛙の姿をした人形がこちらへと近づいてくる。


 バキン!


 短い破壊音が響き、蛙が口から何かを吐き出した。粉々に砕けたエキドナの部品だ。


「ギュスターブか!」


 エンリケの呼びかけに、宮廷人形師の証である、紫色のマントに身を包んだ人物が姿を現した。腕にはぐったりとしたリンダを抱きかかえている。


「友よ、こうして顔を合わせるのは久しぶりだな」


「どうしてここが分かった?」


「リンダの元お目付け役から連絡をもらった。ちゃんと見ていろと言う小言付きでね」


「ギュスターブ、お前なら分かるはずだ」


「友よ、そうはいかない。私とトラロックで君の相手をする」


「再び過ちを犯すことになってもか?」


「心から惚れた人を守る。問うまでもない」


 ブォオオオオオオ――ン!


 大きな鳴き声を上げて、蛙の口が開く。長い舌がエンリケに向かって鋭く伸びた。キマイラがそれを撃ち落とすと、カエルは舌を戻して、さらに口を大きく広げる。


 キィ――――ン!


 激しい耳鳴りと共に、エンリケの周りで突風が吹いた。それが開いた蛙の口へと吸い込まれていく。


「キマイラ!」


 エンリケの前へ進み出たキマイラが、山羊を模した長い毛を逆立てた。


 ズオオオオオ――ン!


 轟音と共に青白い光が蛙の巨体へと向かう。しかしミネルバの翼とは比較にならないほどの強風が吹き、キマイラから伸びた光は蛙の前で行く手を阻まれた。夏だと言うのにカエルの周りを白い粉雪が舞う。


「大気の圧力差で雷撃を遮断したか……。親友のためとは言え、矛に対する盾を作るべきではなかったな」


 消える粉雪を眺めながらエンリケはつぶやいた。その足元に白い靄が流れてくる。それを見たリンダが、ギュスターブの腕の中で身をよじった。


「マーヤの……スカートの中に……隠れるつもり……」


「君たち二人を相手にするのは分が悪い。続きは今度にさせてもらう」


 流れ込む靄がエンリケの姿を隠す。ギュスターブはリンダを下ろすと、足の傷に口を当てて、そこから血を吸い出した。


「私は大丈夫……それよりも……あの男を追って!」


 口元を血に染めたギュスターブが、リンダに首を横に振る。


「致死性の毒は使っていないようだが、君の手当ての方が先だ」


「フリーダが……、私たちのフリーダが……」


 リンダがギュスターブの腕の中で激しく泣きじゃくる。やがて浅い呼吸を繰り返して眠りに落ちた。ギュスターブはリンダを抱きしめながら、霧の向こうをじっと見つめる。


「エンリケ、お前はあの子に、今度は何を背負わせようとしているんだ?」


 真っ白な霧が、リンダとギュスターブを飲み込んだ。


 * * *


 かつて演習場だった場所には、嵐のもたらす冷たい雨が降り注いでいた。スヴェンは一人で、焼けこげた森の中をさまようように歩いている。人形たちが戦う音はもう聞こえない。大粒の雨が大地を叩く音だけが響いている。


「クエル――! フリーダさ――ん! ムーグリィ!」


 スヴェンは幾度となく声を張り上げたが、何も答えは返ってこない。歩き疲れたスヴェンは、泥の中に膝をついて呆然と空を見上げた。


「どうしてこんなことになったんだ?」


 空に向かってつぶやくが、誰も答えるものはいない。降り続く雨が、スヴェンの頬を伝わる涙を流し去るだけだ。


『親友が、自分の大切な人たちがどこかにいる……』


 その思いに、スヴェンは鉛のように重い体を引きずって立ち上がった。その時だ。焼け落ちた大木の根元に、誰かがうずくまっているのに気付く。


「大丈夫か!」


 そう声を掛けてから、スヴェンはその姿に驚いた。麻色の髪は縮れて頬に張り付き、白い北領の民族衣装は泥にまみれて真っ黒だ。


「ム、ムーグリィ……?」


 スヴェンの呼びかけに、ムーグリィは瞼をわずかに開けると、生気を全く感じさせない水色の瞳で、スヴェンを見上げた。


「放っておいて――」


 ムーグリィはそう告げると、無言で自分を見つめるスヴェンに、口の端をわずかに持ち上げる。


「口調も態度も全て嘘。世間を欺き、復讐だけを目的に生きてきた女よ。私なんか――」


 スヴェンはムーグリィの言葉を最後まで聞くことなく、その体を強く抱きしめた。


「良かった。生きていて本当に良かった」


 スヴェンの口から嗚咽が漏れる。それを聞いたムーグリィの眼からも涙が零れ落ちた。


「お父様がいなくても……私は……生きている……」


 ムーグリィは両手を上げると、スヴェンの震える背中にそっと腕を回した。

これにて第6章「深化」の終了になります。感想などお聞かせいただけると、これ以上ない執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。

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