獅子
瞬き一つする間もなく、二体の人形が急速に近づいた。箒の先端が獅子の額を捉えるかと思った時だ。ゴライオンの体が跳躍する。クエルはセレンに急制動を掛けると、紙一重でゴライオンの爪を交わして背後へ飛びのいた。再び間合いを取り直す。
ここまでの動きは想定内だ。ゴライオンの動きは速いが、相手の動きが読めさえすればついていける。逆にクエルが何も考えられなければ、型ではなく、意識でつながっているセレンは全く動けない。それが前回アイラと戦った結果だった。
『この程度では、間合いは掴ませてもらえないか……』
ならば、こちらから仕掛ける他ない。クエルはセレンの箒を地面を払いながら、ゴライオンの周りを高速で移動させた。夏の日差しに照らされた地面から、盛大に砂埃が立ち上る。
「ゲホゲホゲホ――」
砂埃をまともに被ったトマスたちがせき込む中、クエルは相手の出方を探った。向こうの視界を奪ってはいるが、逆にこちらの視界も制限されている。むしろ砂埃の位置からこちらの動きが分かってしまうはず。
ブン!
砂埃の中から鈍い風切り音が聞こえた。その向こうからゴライオンが牙をむいてこちらへ向かってくる。クエルはセレンの箒を横向きに払った。次の瞬間、ゴライオンの体が消える。
いや、消えたのではない。攻撃すると見せかけて、利き腕とは反対側に着地していた。今度は先ほどとは比較にならない速さで、セレンの側面に向けて跳躍してくる。
『ここだ!』
クエルはそれを避けずに、セレンを肩からゴライオンに向けて突進させた。爪先ではなく、腕の部分で前肢の一撃を受けると、受け流すようにしてゴライオンの下へ滑り込む。この位置ならゴライオンの牙は届かない。それにセレンの箒の方が、ゴライオンの前肢よりもリーチがある。
『もらった!』
クエルは勝利を確信しつつ、セレンの箒を上へ突き上げた時だ。
『えっ!』
あまりに予想外の出来事に、クエルは慌てふためいた。ゴライオンがセレンの突き出した箒の先を足場に、セレンの上で華麗に一回転している。銀色に輝く爪がセレンに迫るが、地面を滑り続けるセレンの体はそれを避けられない。
キーン!
それを払おうとしたセレンの手から、金属でできた箒が弾き飛ばされた。その無防備な体が、ゴライオンの前肢によって地面に叩きつけられる。次の瞬間、心臓を握りつぶされたみたいな痛みがクエルの体を突き抜けた。
『避けないと……』
それでもクエルはセレンに同期することで引き伸ばされた意識の中、ゴライオンの一撃を避ける手がないか必死に考えた。だが何かを思いつく前に、ゴライオンの牙がセレンの核の位置へ向けられる。
「クエル君、チェックメイトだ!」
ルドラの静かな声がクエルの耳に響いた。
「すげ――」
誰かの感嘆のつぶやきも聞こえてくる。
「審判員諸君、この試合は私の勝ちでいいかな?」
トマスたちは水飲み人形みたいに頭を上下させた。
「クエル君、立てるかね?」
「あんな動きがあるとは思いませんでした」
クエルはルドラの差しだした手を取ると、ルドラに対し、率直な感想を告げた。同時に、人形師としての経験の足りなさを痛感する。相手の予想外の動きに対応できていない。
「想像力の欠如ですね。しかしクエル君のカウンターも中々でした。久しぶりにゴライオンを本気で繰れましたよ」
そう告げると、ルドラは土手に座るトマスたちの方へ視線を向けた。
「あの、決闘の件は……」
「君たち、クエル君と演習の続きをするかね?」
「い、いや、お、俺たちは――」
「国学総演習の打ち合わせがあるので、これで失礼します!」
しどろもどろのトマスに代わって、別の小柄な生徒が答えた。そのままトマスを引きずり、全員で走り去って行く。ルドラはその後ろ姿を眺めながら、小さく肩をすくめた。
「客観的事実は伝わったようだし、私も第一演習場に戻ることにしよう。今度の国学総演習では、君たち二人の相手をするのを楽しみにしているよ」
ルドラは砂埃の消えた演習場を、ゴライオンを引き連れ歩き始めた。だがすぐに足を止めると、クエルの方を振り返る。
「気をつけてください。女難の相はまだ消えていないようです」
そうクエルに告げると、ルドラは蜃気楼の向こうへと去っていく。その後ろ姿に、クエルがほっと息を吐いた時だ。
「クエルさん!」
演習場に続く林の中から、車いすにのったフローラが飛び出してきた。
「フリーダさんが!」
その名前を聞くや否や、クエルはセレンを引き連れ、フローラの元へ向かって走り出した。
* * *
「うまく背中を押したじゃない」
第一演習場へ続く林の小道に、凛とした女性の声が響いた。木立の間から、金色の髪に青い目をした、女神を思い起こさせる女性が姿を現す。
「ヒルダ、そっちはもう終わりかい?」
「こちらは赤毛のお嬢さんと、北領公がやりたい放題よ。最後は赤毛のお嬢さんがぶっ倒れて大騒ぎ。私一人消えても誰も気づかないわ」
それを聞いたルドラが口の端を持ち上げた。
「そっちはそっちで楽しそうだな」
「そんなことより、彼に肩入れし過ぎじゃないの?」
「この程度の手助けなど、何の問題もないだろう?」
「違うわ。あなたの個人的な感情の話よ」
「俺たちの仕事に、個人的な感情など許されないことぐらい、十分に分かっているさ」
ルドラの答えに、ヒルダは端正な顔をわずかに曇らせた。
「彼について言えば、あなたが気に入るのも分かるわ。でもあの人にとっては駒の一つに過ぎないと知ったら、あの子はどんな顔をするのかしら?」
「俺たち同様、誰もが歴史に名を残せるわけじゃない」
「だけど、王家が不老不死を企んでいるだなんて、本当なの?」
「あの寝たきりだったアイリス王女が普通に動けている。荒唐無稽な話とは言い切れないな」
「ルドラ、仮にその話が本当だったとして、あなたは不老不死を手に入れたい?」
ヒルダの問いかけに、ルドラはしばし考え込んだ。
「覚めることのない悪夢に落とされるだけだな。しかし全てを手にしている者たちにとっては違う。彼らは失うことを常に恐れている」
「そうね。むしろ呪いよね。私だってこの顔と体のせいで、どれだけ男たちの相手をさせられてきたことか……」
それを聞いたルドラが、付き従うゴライオンの鬣をそっとなでた。
「どうせ中身を見る気のない者たちだ。いつかお前が首をとってやればいい。そもそも、俺たち裏の人間にとって、本当かどうかや相手が誰かなんて、どうでもいい話だろう」
「その通りよ。でも気を付けて。彼を見張っているのは私たちだけじゃない」
ヒルダはそうつぶやくと、何かを探るように、森の奥へと続く道を、そのサファイヤより青い瞳でじっと見つめた。




