第四話:聖女の後継 Ⅰ
ジャネット側の話です。
今後出てくるキャラを出すための話のなので、飛ばしても大丈夫です。(登場人物に書いてますし)
【大陸暦八七年三月二九日(逃亡から九十日・幽閉一日目)】
※・※・※
およそ一ヶ月をかけて、ルワ侯爵領ダルヴィギアについたジャネットは、侯爵家の私兵(魔導師)に囲まれて応接間に通された。
ちなみに、護送してきた兵達はさっさと帰って行った。
「…クラウジア、この状況はどうみたらいいのかしら…」
「ありのままに受け取るなら、歓迎してくださっているのかと思われますが…」
遠い目をするジャネットは、体面に座る女性の笑顔にどう反応していいのか分からなかった。隣に座るクラウジアも。
囲んでいた私兵達も、城に入ったとたんに穏やかな表情で友好的に声をかけて去っていった。三人だったが、六十を超えているように見えた。
にこやかで明るい侍女に色々と説明を受けつつたどり着いたのが、応接間。
さらに、そこで待っていた女性にジャネット達は入り口で固まった。
ルワ侯爵夫人クラーラ=アーデルハイト=リロイ。
出身は隣接する都市国家ホルグス。薬師の家系に生まれ、薬学と医学に精通する才女だ。
質素で実働的な服装でありながら、漂う気品と美貌から一目で二人はクラーラのことを見抜いた。
何よりの決め手は、エアルに良く似たその美貌だ。
固まった二人に、立ち上がって深々と一礼して自己紹介してきたことに度肝を抜かれたが。
(幽閉し監視する相手に頭を下げる上、応接間でお茶をするとは思わなかったわ…)
本当の意味で国内随一富裕な貴族であるルワ侯爵家の女主人なのだから、実質的に皇族として廃されたジャネットに頭を下げる必要はない。
「いかがです? 自家製の香草茶なんですよ」
「ぇっ、あ、とても美味しいです……自家製?」
「えぇ。裏の畑で夫が作っておりますの。そうそう、我が家の食卓で使われる材料は全て夫が作ったものですの。さすがに小麦など穀物は作っておりませんが」
頬に手を当ててはにかむ姿は、四十を超えているだろうに可憐に映る。
だが、ジャネットとクラウジアにはそれに気を止めていられるほど余裕はなかった。
((大貴族の当主が、家庭菜園…))
皇族もしくは貴族(正確には騎士)としては、自分達がずれた認識をしている自覚のあった二人だが、その上を行く、とクラーラを見て思った。
エアルが乗合馬車を愛用している時点で、通常の大貴族とは違うとは思っていたが。
「あの…侯爵夫人」
「クラーラで結構ですよ、皇女殿下」
「では、クラーラ様…。わたくしのことでご迷惑をおかけいたしまして…」
「あら、何かなさったんですか?」
「え…?」
不思議そうに問いかけるクラーラに、ジャネットとクラウジアは瞳を丸くする。
皇女の幽閉場所として選ばれ、監視を言い渡された。非常に迷惑であることは確かだ。
そうではないと言いたげなクラーラは、にっこりと笑う。
「殿下は、ご自身が、ご友人が、悪事を働いたと思いなのですか?」
反逆、大逆、と言われてもおかしくないほどの大罪だ。
世間的には。
ジャネット達はエルヴィアの行動が罪に当たるとは思わない。
当然の行為であり、権利だ。
「…一般的に、許されざる罪であると思われますが」
素直な返答を避けて、窺うように問い返せば、クラーラの微笑みが変化した。
聞き分けのない子供を、温かく見守る母のように。
「私の言葉はご理解いただけなかったかしら? 殿下は、どう思われておられるのですか?」
再度の問いかけに、ジャネットは背筋を駆ける悪寒を覚えた。クラウジアも、喉を引きつらせて固まった。
薬師の大家として名をはせるシャラス家は、帝国でも有名だ。
帝国でも無視できない都市国家ホルグスを拠点としているのも、理由だ。
モラリスが『銀山都市』と言われるように、ホルグスは『魔法都市』と呼ばれる。
八人の国家代表(正確には代表と大臣達)によって運営され、その八人が高位の魔導師として知られている。さらに、大戦期から生存しているという。真偽は定かではないが。
七大国が一目置き、帝国も慎重になるホルグスで、シャラス家は五大貴族に次ぐ高位貴族だ。
並の帝国貴族など目じゃない高等教育が行われる。
シャラス家の長女として生まれたクラーラも、幼少から厳しく育てられた。
それは、大国の姫にも劣らない教養と知識。
皇族としてまっとうな教育を受けられなかったジャネットとは、格が違う。
間違いまくっている教育など受けなくて良かったとしても。
世間的な考えではなく、ジャネット自身の考えを求める問いかけに、二人は悟る。
この返答が、これからを決めることになる、と。
(すごい威圧感…)
どこかでエアルを中心に考えていたのか、油断があったのかもしれない。
自分の甘い考えを自覚して、ごくり、と息を飲み込む。
穏やかな笑みながら、鋭く厳しい眼差しを見据えて、すぅと息を吸い込む。
(大丈夫よ。エルヴィアに比べれば…)
威圧されたわけではないが、キレた時(模擬戦後)の恐ろしさを知っている。
クラウジアもそう思ったのか、小さく肩を震わせる。
「…悪事と思っていたなら、わたくしはここにいません」
「それは友情ですか?」
「友情で罪を見逃す気はございません」
「では、ご友人が本当に反逆者であったなら、殿下はどうなさいました?」
「戦ったでしょうね」
「…捕らえる、とはおっしゃらないのですね」
「はい。彼女に敵うとはかけらも思えませんから」
「随分と弱気でいらっしゃいますね」
「事実です。彼女が本気を出せば、わたくしなど一瞬で消されるでしょうから」
ジャネットにとって嘘偽りのない事実を述べれば、クラーラが楽しそうに微笑む。
穏やかな微笑みが、子供のような笑みに変わる。
「素直な方ですね、殿下」
「は…?」
「それに、実力と格をしっかりと理解しておられるようで、安心いたしました」
ころころと軽やかに笑うクラーラに、数秒固まったジャネットはぐったりと背もたれに体を預けた。
これからを左右する問いかけだったのは事実だろうが、さっきまでの威圧感と今の空気が違いすぎてどっと疲労が襲ってきた。
「殿下。私は帝国国民ではありません。ホルグスで生まれ育ち、そこの教えがしみついています。そして、それはルワ侯爵家ととても似ているのですよ」
「似て、いる?」
「えぇ。…『聖女帝』の伝説を、信じておりません」
大陸中の民が信じている。
その伝説をあっさりと否定するクラーラもそれを当然とする都市国家も、帝国ではありえない。
「ある意味、当然かもしれません。『イヴ』様と同じ時代に生きた方々が、いまだ君臨しておられるのですから」
真実を知る人達が、帝国のような偽りの教義を許すわけがない。
ふいに、ジャネットには一つの疑問が浮かんだ。
「ならば…」
「何でしょう?」
「どうして、帝国に従っておられるのでしょう?」
ホルグスは、帝国派ではない。だが、反帝国派でもない。
いわば中立だ。
表向きは帝国に異を唱えず、従っているように見せている。一目置かれ、警戒されているのも自覚しているからこそ、目立った行動は取らない。
「…関係ないから、でしょう」
「関係ない、ですか」
「だって、帝国はホルグスではないでしょう? 帝国は帝国のやり方がございます。同じように、ホルグスはホルグスのやり方がございます。ただ、それだけ。だから、ホルグスは帝国に何もしないのです」
そして、何も言わない。
腐敗も圧政も知りながら、全てを素通りする。
自分達には関係ないから。
その通りだからこそ反論できないが、何とも言えない気持ちがジャネット達の心の奥に凝った。
「…ですが、私は違います」
「クラーラ様は、ホルグスにご実家が…」
「そうですね。ですが、今はルワ侯爵家の者です。実家に帰ることはたやすいでしょう。それをよしとする家族であれば、ですが」
そうではないのだろう、と思ったジャネット達は視線だけを交わして頷き合う。
クラーラとホルグスの内情を知った今、嫁ぎ先を捨てて逃げ出す者を迎え入れるような優しい家ではないと簡単にわかる。
「私どもが皇帝達に警戒されているのは存じております。殿下のことも、その一端でしょう。分かった上で、受け入れました。浅知恵とも言うべき皇帝の策を」
「…はっきりおっしゃいますね」
「濁したところで意味はありませんから」
ふふ、と小さく笑ったクラーラは笑みを引っ込めて、背筋をのばす。
それにつられるようにして、ジャネットとクラウジアも姿勢を正す。
「息子から話は聞いております。夫の祖母君に授かった口伝に相応しき方を見つけた、と。その一人が、貴方です。殿下」
今、ようやくジャネットは気付いた。
ここまでで、クラーラは一度もジャネットの名前を呼んでいない。クラウジアの名前も。
「その話の中には、もう一人、登場しました。貴方が、彼女と呼んだ人です。そして、ご友人方のことも」
ちらっと視線を向けられて、クラウジアは肩を強張らせる。
それにクラーラは小さく笑いをこぼし、再度ジャネットを見る。
「私は息子を信頼しております。ですが、託すに足る方かどうか、この目で確かめたかったのです」
「託す、とは…」
「この国、民、魔法、未来、繁栄、東大陸の全てを」
あまりにも壮大な言葉に、ジャネットは瞬間的に呼吸を忘れた。
獣人の住む樹海を西大陸、人間が住む側を東大陸と呼ぶ。
結界が築かれて以降の呼び名だが、使う者はあまりいない。わざわざ西大陸のことを話題にする者がいないからだ。
「帝国はいずれ崩壊します。皇帝達皇族とそれにおもねる貴族によって。今回の事件がなくとも、東大陸全てを巻き込んだ争いに発展したでしょう。帝国はそれほどに大きく、腐敗も深い。途中からの立て直しが意味を成さないほどに」
それてしまった道を、正道に戻すのはすでに無理な状態にある。
一度壊し作り直さなければならない。それは、言葉ほど簡単ではなく、最も困難な道だけれども。
おそらくルワ侯爵家全体の意思は、エルヴィアと同じ物。全くではないけれど、同じと言ってもいいほどに近い。
「もう一度、一から立て直すのはとても難しいでしょう。その時、代表となって引っ張る存在が必要なのです。殿下」
「それを、わたくしにとおっしゃるのですか?」
「私は皇族の方全てを見知っているわけではありませんが、まともな方はいないように見受けられます」
「…お恥ずかしながら、クラーラ様の見識は全うでいらっしゃいます」
「判断が間違っていなくて、良かったです。その中で、殿下はまだましでいらっしゃいます」
「まだまし、ですか…」
「自身の身の程と力量を理解するのはとても難しいのですよ? それが出来ている殿下は、十分にまともな人間でいらっしゃいます」
褒めているのかけなしているのか、微妙な言い回しにジャネットの眉が寄る。
「託すに足る、とまだ判断はできません。殿下は未熟でいらっしゃいますから。ですが、その片鱗はあると思います」
「…それは、どのように受け取れば」
「成長の余地がある、ということです。ですから、殿下が今後どうなさるかによって、私達は従うか否かを決めましょう」
「…幽閉される身で、何をどうしろとおっしゃるのですか?」
「素直に幽閉される気がおありだったのですか?」
からかうような言いように、クラウジアはジャネットを見て苦笑する。
素直に従っている気などなかった。
甘い考えがあったのは事実だが、武術だけでも私兵ぐらいはどうとでもなると思っていた。
脱走してエルヴィア達と合流しようかとも思っていた。
どうするかは、幽閉場所が決まってから考えることになっていた。つまり、何の策もまだないのだが。
「殿下は、ご友人が悪ではないとおっしゃいました。ならば、大人しく罰を受ける気はないのでしょう? どうにかして、ご友人の力になろうとお考えだったのでは?」
全てを読まれていることを知って、ジャネットは肺を空にするように深く息を吐いた。
「…おっしゃる通りです。わたくしにとって、彼女は絶対的な目標であり壁であり、認めてもらいたい至高の存在ですから」
エルヴィアの力になれるように、必死で考えていたし、護送馬車から逃げることも考えた。
だが、情報が一切ない現状で、無茶はできないからと大人しくしていた。
「ご子息と知り合い、けして敵ではないと思っておりました。甘い考えがなかったと言えば嘘になりますが、味方であると思っていたわけではございません。ですが、反皇族派であることは存じておりましたので、お話をさせていただけるのではと思っておりました」
「それは現実になりました。それで、殿下はどうなさるおつもりですか?」
「学びたいと思います」
「…学ぶ、ですか」
「はい。彼女は、必ず戻って来ます。確証はありません。ですが、きっと戻ってきます。その時が、帝国崩壊の始まりです。その時までに、わたくしは学べるだけ学び、成せるだけのことを成して、彼女が悩まされることなく行動できるように整えたいのです」
「それを、たったお二人で出来ると?」
「思っておりません。ですが、侯爵家のお力を貸していただければ、可能と思っております」
「自分が弱いと言えるのは素晴らしいことです。ですが、他力本願はいけません」
「きっかけだけで結構です。わたくしとクラウジアに、領内に出歩くご許可をいただきたいのです」
「幽閉される御身に、簡単に許可を出すとお思いですか?」
「思っておりません。ですが、成長の余地がある、と判断してくださったのならば、学ぶ機会を与えてくださると思っております」
「…領内を歩いて、何を学ばれるのですか?」
「民の生活。物流、価格、商業、経済、流通経路、実際の現場でなければ知りえない生きた情報を」
「何故、学ぶべきと思われたのです?」
「本の中の知識では偏っています。何より、知識は実体験に劣ります。体験することが重要です。そして、民が国そのものであるからこそ、何よりも知らなくてはならないと思っております」
知識は実体験に劣る、というのはルワ侯爵家で代々教えてきたこと。
エアルもそれにならっている。
民とは国。
ただ土地だけが広がり、玉座に一人でいるだけでは、国とはいえない。そこで生活する民が存在してこそ、国となる。
考えてみれば当たり前のことなのに、それを知っている支配者(皇帝とか)は非常に少ない。
当たり前に、はっきりと告げるジャネットに、クラーラは瞳を細めた。
「…真実を知り受け継ぐルワ侯爵家にお願い申し上げます。わたくし達に、学ぶための機会と許可をお与えください」
深々と頭を下げるジャネットにならい、クラウジアも頭を下げる。
「監視者を一名つけ、一日の行動をすべて報告していただきます。それをお約束いただけるのであれば、許可を与えましょう」
「…よろしいのですか?」
「私は夫の名代としてここにおります。私の許可は侯爵の許可です。ご安心なさいませ」
侯爵領における最高権力者は当然侯爵だ。
クラーラが判断し決定して良い内容ではない。それに願ってから気付いて、不安そうに見上げれば、クラーラは小さく笑う。
「殿下、最後にお聞きいたします」
「はい」
「殿下は…殿下達は、ご友人がお戻りになられたら、どうなさるおつもりですか?」
「…彼女が、玉座にあれば、と思います。ですが、彼女はきっとそれを望まないでしょう。ですから、彼女が認め、望んでくれれば、もう一度、この国を立て直すための代表になりたいと思います」
だからこそ、学びたい。識りたい。
いつか訪れる変革の時の為に。
そして、託すに足る、と言ってくれたエアルと完全ではないにしろ認めてくれたクラーラの為に。
ジャネットの目標。
愚かな父親を引きずり降ろし、その玉座に座ること。
帝国という偽りをたたき壊した、その後で。
それは、望まなくとも皇族として生まれた、その責任ゆえに。
クラウジアはそれに生涯従うと決めた。
「彼女とともに、この国を壊し、造ります」
国造りに尽力してくれるか分からない。
けれど、情が深いエルヴィアなら、手伝ってくれるだろうと思っている。
クラーラは、満足げな笑みを浮かべて、頷いた。
第十一皇女ジャネット=レウディ=サーディエランはルワ侯爵家の離れに幽閉。
結界が敷かれ、常に魔導師が一人見張っている。
ということになっている。表向きは。
その実、ルワ侯爵夫妻によって別の戸籍と身分を与えられ、領内で実地体験の勉強中である。
ジャネット達が表舞台に立つのは、誰にも予測できない未来だった。
【大陸暦八七年三月三十日(幽閉二日目)】
※・※・※
「大丈夫ですか? ジャネット様」
心配そうなクラウジアが、テーブルに突っ伏すジャネットに恐る恐る声をかける。
ジャネットの頭上(テーブルの上)に積み上がっている書籍を一瞥し、クラウジアは少し青ざめた。
三十冊を超える書籍は、全てルワ侯爵家の歴史とダルヴィギアの文化や歴史が記されているものばかり。
昨日、クラーラから提示されたのは、これら書籍の読破と大まかな暗記だった。
これはジャネットへの課題。
クラウジアには別の課題が出され、それをこなしてへとへとになって帰って来た所に暗雲背負うジャネットを発見したのだ。
ちなみに、クラウジアの課題は剣術と魔法の鍛錬だ。多対一の。
「…領地開発から法令から商業から、いっしょくたに学ぶのは大変ね」
じめじめとした声で呟くジャネットに、クラウジアは苦笑するしかない。
書籍のタイトルを見れば、わざとなのか乱雑に積み上げられているため、分野がごちゃまぜになっている。
明日の昼(つまり今日の昼=現在)までに読め、と言われていたために分類する時間が惜しかった。
結果、かなり苦労することになった。
「クラウジアはどうだったの?」
「…年配の魔導師の方お二人と領軍司令官補佐のお二人が相手になってくださいました」
「勝った?」
「ありえません」
「…そうよね」
本来の魔法を継承するルワ侯爵家に仕える魔導師が、帝国の基準通りの魔法を使うわけがない。
ジャネット達より実力が上なのは当然だ。しかも、何十年という経験を積んだ玄人だから、格が違う。
目立つ怪我はないが、精神的に体力的に疲労が蓄積されて参った。
ちょっと遠い目をするクラウジアを横目で見上げたジャネットは、深い溜息を吐いた。
手ごわく手厳しいと昨日で理解したが、鬼畜を加えるべきかもしれない。
ジャネットは半ば本気でそう思った。
疲れ切ったため息が再びこぼれた時、扉をたたく音にジャネットはのろのろと体を起こした。
「お疲れ…」
気まずそうな弱弱しい笑みを浮かべたエアルが顔を出し、二人はほっと肩から力を抜いた。
「大変だったな」
「お久しぶりです、先輩」
「もう先輩じゃねぇって」
丁寧に頭を下げるクラウジアに苦笑して、エアルは睨むように見てくるジャネットに視線を移す。
「申し訳ない」
深々と頭を下げて謝罪を述べるエアルに、ジャネットは瞳を細める。
幼い容貌のために怖くはないが、空気が尋常ではなく刺々しい。
「…昔からこうなの…?」
「おれもやられた。気まぐれにやられるから、たまったもんじゃない…」
ふっと遠い目をするエアルに、ジャネットの視線が和らぐ。
あからさまな変化にクラウジアは苦笑する。
「エアルは、労いにきたの?」
「それもあるが、ちょっと来てくれないか?」
「何かあるのですか? エアルル様」
「…エアルで良い」
苦い表情を浮かべるエアルに、クラウジアはジャネットを見る。肩をすくめるジャネットに、分からないながらにクラウジアは頷いた。
部屋を出て廊下を歩きながら、ジャネット達は窓から見える光景を何ともなしに見つめていた。
ルワ侯爵家は広大な敷地を有していながら、九割五分は侯爵が趣味とする家庭菜園(農園の域)になっている。一部は綿畑だ。
のどかな田園風景が楽しめる貴族(しかも最高位の一つ)邸宅などないだろう。まず、敷地に農園を作る貴族がいない。チェスラス子爵家は数少ない例外。
これから変革と戦乱が巻き起こる国の一部だとは思えないほどにのどかだ。
現実の厳しさを忘れさせるような風景に、ジャネット達は視線を前に戻す。
二人を先導するエアルは、すれ違う侍女や従僕に軽く声をかける。にこやかな短い対話を聞き流して、その平穏さに小さな笑いがこぼれる。
主と使用人の距離が近く、温かさを感じられるここを、二人は楽園のように思った。
二人にとって、使用人(女官達)は敵だったから。
何も会話がなくとも穏やかで緩やかな空気に満ちた屋敷から、廊下でつながった離れに向かう。
「ここは?」
「修練場だ。倉庫や休憩室などが囲うように建っている。中央が稽古場になってるんだ」
扉を開ければ整地された地面があり、一人の少年が剣を振っていた。
廊下と建物に囲まれ、中庭のようにして作られた稽古場は十メートル四方であまり広いとは言えない。
試合や個人鍛錬には良いかもしれない。
「フレーゼ」
エアルが声をかければ、少年は動きを止めて振り返る。
ジャネット達よりも一つか二つ年下だろう。小柄だが鍛えられており、弱弱しさは欠片もない。
「何か御用ですか、若様」
「昨日、話しただろう?」
無表情に淡々と声をかけるフレーゼは、瞳を細めてジャネット達を見る。無表情だけに、睨んでいるようにも感じる。
思わずびくっと反応してしまうほど、フレーゼの空気と視線は冷ややかだった。本気で睨んでいるかもしれないと思うほど。
その様子に困ったように笑うエアルは、ジャネット達を示す。
「ジャネット=レウディ=サーディエラン殿下、クラウジア=ジルファーレン殿だ」
「存じております。昨日、旦那様と奥様に伺いましたので」
「そうか」
一ミリも変わらないフレーゼの表情と空気に、エアルはちょっと遠い目をする。
「で、昨日話したと思うが、このフレーゼが監視役だ」
「…フレーゼと申します」
軽く一礼するフレーゼに、ジャネット達はどうしていいのか分からず助けを求めるようにエアルを見る。フレーゼの立場は分かったが。
が、エアルもどうしようもないのか遠くを見つめたまま視線を合わせようとしない。
「さっさと飽きて大人しくしていただきたい。お姫様の好奇心に長々と付き合わされるのはごめんですので」
空気を読まない、もしくは読もうとしないフレーゼの発言に、ジャネットの口元がひきつった。
一気に剣呑な空気になったのを察して、クラウジアがそっと離れた。それを見たエアルが眉を寄せる。
「初対面の方に、そんなことを言われる筋合いはないのですけれど…」
「なら、大人しく引っ込んでおけばよろしいのでは? どうせ飾りにしかならないのでしょうし」
必死に感情を抑え込んだジャネットの反論を、感情などないようなフレーゼの言葉が一刀両断にする。
動きが止まったジャネットに、エアルもヤバいと思ったのか、距離を取ろうと足を引く。
が、少々それは遅かった。
ルワ侯爵家の一角から天を衝くような竜巻が発生したのを見た領民は、動きを止めた。
数秒後、彼らは普通にいつもの生活に戻っていった。
日常的ではないけれど、まれにありえる現象だっただけに領民はあっさりと受け入れた。
ルワ侯爵クリストバル=アール=リロイの属性は風で、きまぐれに大規模魔法を使うことがあった。もちろん実害がないのだが。
この日、ルワ侯爵家の稽古場が壊滅し、その修繕費はジャネットが担うことになった。当然の結果である。
隠し財産で持って来たものからあっさり払えたが、何となく理不尽な気がしてならなかった。
フレーゼの態度が悪いのも事実なので、ジャネットが責められることはなかった。
逆に、使用人から同情の眼差しを向けられた。それほどにフレーゼの性格に難があるのは周知の事実だった。
ちなみに、法具なしで魔法を使った(感情に押されて暴発した感じ)ため、翌日、ジャネットは一日寝込むことになった。
貴重な時間を無駄にしたことを、ジャネットは一日ベッドの中で後悔にくれた。
その傍で、クラウジアは看病と勉学(ジャネットがしたのと同じ)に励んでいた。




