第六話:チェスラス子爵家 Ⅴ
【大陸暦八七年三月十三日(逃亡から七四日)・依頼九日目】
※・※・※
日が昇りきってしばらくたった頃、ランド家当主オリビオと長女フニアは堂々と子爵家の門をくぐった。子爵家の使用人達は、冷やかに客人を出迎えた。
昨日、一部が殺伐としながら、フローラとヴァルテルは非常にほのぼのとしていた。それを見ていた使用人達、給仕でそばにいた侍女は特に、お似合いだなぁ、とのんびり思いながら見ていた。
いい加減いらついたラウルに荒療治で二人きりにされたフローラは、一日でようやく慣れてきたらしい。多少ぎくしゃくしているが、それが初々しさを出していて女性陣は微笑ましい気持ちになった。
自分のことは自分でする、今できることは今やる、という方針が浸透した子爵家でフローラは好意的に思われていた。
男勝りなフローラだが、手先は器用で使用人の仕事もよく手伝っていた。皿洗いや洗濯、薪割りまで色々と。アレンやラウルと違って比較的暇なのも理由だった。
その姿に、使用人達が好意を抱くのは当然。
エルヴィア達がどういう立場なのか知らない、というのも大きいだろうが。
知らないことはともかく、使用人達にとってフローラと見苦しいほど着飾った美人とはお世辞にも言えない女を、比べるのはあまりにも馬鹿らしかった。当のフローラとヴァルテルは、今日は目立たないようにアレンと一緒に勉強中である。エルヴィアは護玉生産のためラウルを指導中。
アレン曰く、居心地悪い、とのことだが誰もが無視した。
現在に戻り、お茶を入れてきた侍女は完全なる無表情で、一度も視線をオリビオ達に向けようとしなかった。
「お目にかかれて光栄です、チェスラス子爵様」
にこにこと愛想よくしている肥え太ったオリビオの隣には、控えている侍女達が一様に思った無駄に着飾った見苦しい女がいた。
対しているのは、サムエル一人。こちらの表情は非常に険しい。
それに威圧され、冷汗をかきながらもそれを表に出さず、オリビオは必死に弁明とお世辞を混ぜた言葉を連ねて行く。
ご機嫌伺いから始まって、噂が流布したことの謝罪と理由を述べ始めた。
いわく、話を持っていこうと思って相談をしていたところ、それを従業員が漏らしてしまったと。
いわく、従業員は断られることがないと思い込んで、既に了承されたかのように話してしまったのだと。
少々苦しい言い訳だが、商売が大きくなれば商人は傲慢になりがちだ。理由としては何とか納得できる。
だが、サムエルの表情は変わらない。
それに表には出さず焦って、オリビオは品物を積み上げる。
表向きは、ご機嫌伺いと新商品の試供品。実際は、賄賂だろう。
サムエルの機嫌が良くなるわけがなく、ふっと鼻で笑う。
「ずい分と見苦しいな、オリビオ=ランド。貴様が何を思い、誰と手を組んでいるのか、わしが知らんと思うのか?」
「そ、それは、どういう…」
「貴様は、わしがこの縁談を受け入れると思っていたのか」
「い、いえ、滅相もございません。私のような一介の商人の娘を、子爵様の御子息になど…。ただ、親しくさせていただければ、と。それに、いずれは不自由しないそれなりの家に嫁がせてやりたいと思いまして、その時の為に子爵様と御縁を結んでおきたいと…」
親心だ、と言わんばかりの言い分だが、ちらちらと向けられる探るような視線がそれを裏切っている。さらに、フニアが媚びるような視線と笑顔を向けるので、サムエルの機嫌は下降の一途をたどっている。
「では、息子は関係ないな。話が終わったらとっとと帰れ。それも持って帰れ」
「お、お待ちを。お体が弱い若君に、ぜひともお勧めしたいものがございまして」
「体が弱い…?」
外には出ていないし、体が小さいため力はそれほど強くないが、幼い頃からサムエルが鍛えているから、一介の騎士並には腕が立つ。
けして体が弱いということは一切ない。逆に、風邪もひかないほど健康体である。
頑丈なのは完全に遺伝かもしれない。
疑問符を浮かべるサムエルと首を傾げる侍女に気付かず、オリビオは話し続ける。
「ホルグスから取り寄せた希少な薬草や薬でして。お料理に混ぜて薬膳としてお召し上がりいただけます。娘が料理が得意でして、ぜひとも…」
「…良いだろう。厨房を好きに使え。使用人は仕事があるから、手伝えんからな」
「え゛…」
何かを思いついたように口元を歪め、サムエルは言うだけ言ってそのまま部屋を出て行く。
侍女が、固まっているオリビオとフニアを促して、厨房に連れて行く。
当然、嘘なので、フニアがまともな料理を作れるはずもなく、醜態をさらして侍女達に笑われる羽目になった。
フニアが厨房に入ってから二時間後。
執務室で、その報告を受けたサムエルは、追い出せ、と一言命じて仕事を再開する。
その言葉を執事や従僕が忠実に実行し、オリビオ達は何一つ目的を果たせないままに追い出された。
窓からその光景を見届けた領宰が、サムエルを振り返る。
「サムエル様」
「何だ」
「彼らが持って来た薬ですが…」
「何か分かったか?」
「東の出身者に問いましたところ、麻薬のようです」
「やはりな…」
「媚薬もありました。調合された薬を薬師に成分鑑定をさせましたところ、中毒性が高い成分が含まれております」
「あいつらが考えそうなことだ」
サムエルが厨房を使うのを許したのは、時間稼ぎのためだ。
それは二つの意味合いがあった。
贈り物として持ち込まれた薬の成分を鑑定するため。
そして、もう一つは…。
サムエルは領宰とともに意地悪げな笑みを浮かべる。
もう一つは、この後、オリビオ達が身を持って知るだろう。
※※※
時間はオリビオ達が子爵家を訪れるため、ランド家を出発した頃までさかのぼる。
「さて、とやるか」
開店準備のため、長男が従業員(当代派)に指示を出そうとした時、店の奥から出てきたゼイルの声に、全員が動きを止める。
「…お前」
「あ、兄貴、邪魔だからどいてくんね?」
にっこり笑いながら指を鳴らすゼイルに、何か言おうとしてすぐに口をつぐむ。
がたいの良い男達に羽交い絞めにされたためだ。おそらく下町の男達だろう。ゼイルと軽口をたたく。
「お、お前らっ何を…」
「若、お持ちしました」
イサクが数枚の書類をゼイルに渡す。
「おい、クソジジィ! 何してる?! そ、それは…」
本来、若と呼ばれるのは跡取りである長男の方だ。だが、イサク達先代派にとって、後継者と呼べるのはゼイルだけ。
イサクが持ち出した書類が何か、一目で分かったのか青ざめている。
「店の権利書と支店の経営権利書だよな? あと、穀物の商取引に関する書類」
ぱらぱらと流し見たゼイルは、嘲笑を浮かべる。
「よくもまぁ、ここまであくどいことを…」
「何事…って、お兄様?! ゼイル、何やってるのよ! 勝手に書類を持ち出したりして!!」
表だけでなく裏にいた当代派の従業員も同じように拘束していたため、店や屋敷全体で騒ぎが起こっていた。
それに慌てた次女が、屋敷から店の方に出てきたのだ。
いつもはとっとと下町に出かけているゼイルとその手に持っている書類を見咎めて、金切り声で叫んでいる。
それを心底嫌そうに見やって、ゼイルはため息をつく。
「ちょっと黙ってろ、話がすすまねぇから」
「何ですって…って、何よこいつら! 放しなさいよ!」
下町の男達に取り押さえられて、キャンキャンと耳触りに騒ぐので、年かさの女が布の端切れを口に突っ込む。もちろん先代派で、ゼイルを育てた母親代わりだ。
かなり間抜けな様子になった双子の片割れに、笑いそうになるのをこらえて、ゼイルは兄に向き直る。
「さて、話をしようぜ、兄貴」
「ゼイル、こんなことをして…」
「どうにもならねぇよ。親父も兄貴も、みんなここを出て行くことになるんだから」
「な、なんだってっ?!」
「その前に、こっちの話をしようぜ?」
差し出したのは、商取引に関する書類だ。
「この時期、北方の方は大変だもんな? ある程度高値でも買うよな? で、西部の方は豊作だったから安値になってんだよな? だから、仕入れる時は安く済む。まぁ、商売の上で売値が高くなるのは当然としても、物が問題だよな? ちゃんとした保存をしたのじゃなくて本来なら廃棄処分すべき物を売ってんだろ? 通常の三倍以上の高値で、な」
ギルドなどに提出した書類は平均市場価格を記しており、偽造されている。ゼイルが持っているのは、その偽造された書類と本来の取引書類だ。
それらを提示されては、何も言えない。
書類には、しっかりとオリビオの名前が記されているのだから。
「あと、帝都とかの支店で、闇取引の仲介をしてるよな? 貴族からの依頼も含んで、色々とあくどいことやってるよなぁ? あ・に・き」
長男はガタガタ震え始め、話を聞いていた次女は信じられないと言いたげにゼイルを見つめている。
「それに、ドレヴィク公爵からの話、上手くいかねぇよ。子爵を甘く見すぎ。若君には想い人もいるんだしな」
さすがにそれは知らなかっただろう。
これに関しては、完全に偶然。事を起こす時期が悪すぎた。
「クソ姉貴と比べることが申し訳ないぐらいだし、子爵と若君がどっちを選ぶかなんてわかりきってんだよ。しかも、不正ばっかの商家と手を組む奴なんていねぇって。特に、子爵家は清廉潔白で知られてんだから、さ」
「お、お前…」
「子爵は約束してくれた。親父達を追放し、これからはちゃんとした取引をするんなら、公表はしないってな」
「お、オレらを追放して、どうする気だ! 店を誰がっ」
「俺が継ぐ。今日から、ランド家の当主は俺だ」
「今まで、武芸しかしてこなかったお前に出来るものか! 取引も交渉も仕入れも計算も、何もっ」
「別に、俺がやる必要はねぇさ」
「な、なん…」
約束したのはエルヴィアだが、必ず説得すると言ってくれたのを信じて、ゼイルは今回のことを実行した。
素直すぎる、と言われた時、エルヴィアに返した言葉をそのまま兄にぶつける。
「取引や交渉はイサク爺が得意だ。教え込んだ奴もいる。仕入れや管理は長い間倉庫番をしてた奴がいる。計算が得意な奴がいる。接客が得意な奴がいる。出来る奴が出来ることをすればいい。何も、俺が全部やる必要はねぇよ」
ゼイルの言葉に、イサクをはじめとした先代派の従業員が笑顔で頷く。
「親父派も出て行ってもらうことになるけど、人手は十分だ」
下町で見つけ、親しくなった男達に視線を向ければ、快活な笑みが返る。
「アンタらと一緒に落ちるのはごめんだね。それに、恩ある人達にこれ以上不遇な思いをさせたくない。だから、動いただけだ」
「そ、そんなのただの飾り…」
「良いじゃねぇか、別に。俺は俺に出来ることをするさ。飾りが必要なら出れば良い。荒事が起きれば、得意分野だ。それでいいんじゃね?」
ゼイルの言い分が理解できないのか、呆然としたままの兄と姉に呆れたような溜息をつく。
一体、この短時間でどれだけため息をつけばいいのか。
「アンタらとは縁を切らせてもらう。帝都支店の権利書はやるから、そっちに移れ。他の支店は閉める。あと、これから俺はランドの名を名乗らない。子爵家の後見の下、この本店一つから再度始める。オリビオ=ランドが帰ってきたら、即出て行ってもらう。…さようなら」
普段のゼイルとはかけ離れた静かすぎる声に、瞳を見開いた兄に背を向けて、ゼイルは指示を出す。
「屋敷と店を整理しろ。コイツらの私物は適当に箱に放り込んで馬車に乗せろ。コイツらもついでにのっけとけ。拘束した従業員を広間に集めろ」
『はい』
いくつもの声が唱和して、即座に動き出す。
荷物を乗せるのは下町の男達で、荷物の隙間に長男と次女は放り込まれる。さるぐつわをされた上で。
ドレクセル一の大店であるランド家の騒動に、野次馬が出来ている。
それらの対応をするのは、イサクに鍛えられた男達だ。
話術に優れた彼らに事の顛末を聞いて、野次馬達は散っていったがその表情は嘲笑を浮かべていた。馬車に放り込まれた長男達を、わざわざ覗き込んで笑って去っていく者もいたり。
威圧的で傲慢なオリビオ達に対する悪感情があっただけに、納得するのが早かった。そして、下町に親しんだゼイルに対する好意的視線も、多かった。
だが、商人達にとっては好機だ。
ドレクセルの穀物関連を握っていたランド家が、事実上倒れ、当主になるのは商業を知らない末っ子。付け入るすきは多いと思っていた。
すきなど欠片もないと彼らが知るには、少しばかり時間がかかる。
街の人達の感情を知らないゼイルは、広間に集められた当代派の従業員達を見下ろしてにっこりと笑う。ちなみに、全員縛りあげられているため、床に座り込んでいる。
「つーわけで、全員解雇。家に戻って良し。あ、事の次第を書いた手紙を家に送っておいたから、明日辺りには届くと思うぞ? ちゃんと退職金は渡すから安心していいぞ。馬車も手配しておいたから、さっさと荷物まとめて出てけ」
言うだけ言って背を向けるゼイルに、抗議の声がかかるが無視する。
縄を解いても素直に動かなさそうだと判断したため、従業員の部屋を勝手に開けて荷物を整理(箱に詰め込んだだけ)してとっとと運び込む。
部屋を全て空にされ、渋々従業員達は退職金を受け取って馬車に乗り込んでいく。
従業員達が乗り込んだ馬車が全て出て、見送った後、身勝手な怒りに顔を真っ赤にしたオリビオ達が帰って来た。
開店していない上雑然とした店にぽかんとしたオリビオを見て、ゼイルは無言で男達に示す。
指示を受けて、暴れる(太っているためかなり鈍いが)オリビオを縛り上げてさるぐつわを噛ませる。
この行動、ゼイルに正当性がなければただの強盗である。
「詳しいことはソイツらに聞いてくれ。じゃ、さいなら」
バイバーイ、と手を振るゼイルは、馬車の御者に出発するよう促す。
同じように縛りあげられた長男と次女に驚いているオリビオとフニアが、何か叫んでいる。だが、どんどん遠ざかる上にさるぐつわをかまされているので何を言っているのか分からない。
清々しいと言わんばかりに伸びをして、ゼイルは肩を鳴らす。
「これから、忙しいなぁ」
「頑張っていただかなくてはなりませんぞ、若『当主』」
「へいへい。…そういや、名前どうしようかな」
「子爵家が後見になってくださるのですから、ちなんだ名にしてはいかがです?」
「お、そうだな。まぁ、これからおいおい考えるか」
家の乗っ取りをした直後とは思えないほど、ほのぼのとしている。
商業ギルドでランド家の登録を抹消してきた従業員をねぎらって、ゼイルはイサクに笑う。
何も知らない者が見れば、祖父と孫が日向ぼっこしながら語らっているとしか思わないだろう。
※※※
帝都の屋敷に転がり込んだオリビオ達は、従業員(先代派)が全ての事を終えて店を去っていたことを知り、途方に暮れた。
支店を切り盛りしていたのは、彼らであって、本店を仕切っていたオリビオ達にも分からないことは数多い。場所が帝都だからこそ、勝手が違った。
さらに、追い打ちをかけるようにドレヴィク公爵から手紙が届いた。
宰相ともなれば密偵を放っていてもおかしくない。
反皇族派、もしくはそうと疑われる中立貴族に目を光らせているのだろう。その中に、チェスラス子爵家もあった。だからこそ、乗っ取らせようとたくらんだのだろう。土地的に手中に収めておきたいと思ったのかもしれない。
位置と距離的に、エルヴィア達が立ち寄る可能性も考えていたからこそ、ドレヴィク公爵はランド家を使った。
大貴族であるドレヴィク公爵家の名前を盾にして、従わせるという考えも、公爵自身にはあった。実際に従ったかどうかはともかくとして。だが、オリビオはそれを出す暇もなく、すきもなく叩きだされてしまった。あまりにもつれない態度に、名を出すことを忘れていたというのが、事実だが。
ともあれ、下手を打ってドレクセルからたたきだされたオリビオに、ドレヴィク公爵は当然ながら絶縁状を叩きつけた。
商業ギルドからいつの間にかランド家の名前は抹消されていたことに、再び呆然とした。悪行は以外にも知れ渡っており、今回の騒動も踏まえて、オリビオに手を貸す商人も貴族もいなかった。
ちなみに、取引先や関係があった商家には、ゼイルが直筆で丁寧な詫び状を送っていた。
最後の頼みだったドレヴィク公爵に見捨てられ、オリビオ達はどうすることもできずに立ち尽くすしかなかった。
強欲な愚者の末路としては、よくあること。
ランド商店が潰れるのに、一年もかからなかった。
【大陸暦八七年三月十五日(逃亡から七六日)・ドレクセル出発日】
※・※・※
準備を整えて、行商用の馬車を確かめ、業者からアレンとラウルが説明を受けている頃、エルヴィアはサムエルとゼイルと話し込んでいた。フローラはヴァルテルと庭にいる。
「ここにいていいの?」
「俺がいても邪魔だからな」
「当主が何言ってんだか…」
肩をすくめるゼイルに、エルヴィアとサムエルは苦笑する。
昨日、ゼイルはサムエルの後見で商業ギルドに登録を済ませた。
『ラストル』の名前で。
戸籍も改変し、新しい商店の店主として多忙だった。ただ、商業や経営に関しては勉強中の身なので、現在は戦力外通告を受けている。
一日で終わる手続きではないが、そこはサムエルが直結で認可を出して終わらせた。
「経路としては、どこに向かうのだ?」
「ルワ侯爵領に行きたいと思うんだけど…」
「やめといた方が良いぜ。警戒されてるから、監視の目はきつい。まぁ、簡単にはばれねぇだろうけど」
サムエルの問いに答えれば、ゼイルから即効で苦言がよこされる。
「一度、国外に出てはどうだ?」
「関所は…」
「わしの後見なら、大抵のところは通れる」
「そうね。でも、どこに行けば…。行かせたいところがあるの?」
「銀山都市モラリス」
「周囲が山に囲まれた最小都市国家な。確か、全部が銀山で、特殊な採掘法があるって…」
エルヴィアとサムエルの会話に、眉を寄せたゼイルが呟くように口を挟む。
商家に生まれただけあって、最低限の情報は得ているようだ。
頷いたサムエルは、テーブルの上に地図を広げる。
オークラインとコーラルの国境付近を指さす。
「現在、長は女性だが、盲目で高齢ゆえ、そろそろ代替わりするのではといわれている」
「なんでそこ…もしかして…」
盲目、女性、高齢、モラリス、と心で繰り返して、エルヴィアは瞳を見開く。
一人の存在を思い出して、そんな、と呟く。
「確か、九六歳になるんですよね? かなりの力を持つ魔導師だと…」
「ああ。巫女長と呼ばれ、崇められている女性だ。かつて、『イヴ』様のそばで守りを担った巫女、ロイス=レウネットとという…」
「やっぱり!」
ゼイルとサムエルの会話に確信を得たエルヴィアが、思わず叫ぶ。
当時、モラリスの領主の一人娘であり守りの要を担っていた魔導師であり神職者、ロイス。戦いの中で目に傷を負って視力を失った、十歳にもならない少女の戦場に立つ姿を思い出す。
一心に『イヴ』を慕っていた彼女は、父の跡と思いを継いでモラリスに戻り、豊富な銀を盾にして独立を勝ち取った。銀山の地盤が不安定で、その土地の者しか採掘できなかったのが功を奏した。
一都市だったとしても、独立国家を背負うにはあまりにも幼かったロイスを、『イヴ』は案じていた。父の世代から残った部下が支えてくれている、という報告に安堵したが。
エルヴィアの表情と反応を見て、サムエルが頷く。
「やはり、知っていたか」
「えぇ。まさか、生きていたなんて…」
「確かに、驚くほどの高齢だ。ロイス殿は、帝国とはあまり親しくしていない。微妙な距離を保っている。おそらく、『聖女帝』に何かしらの思いがあるのだろう」
「そうね…」
元々が神職者だったから、信じ敬った者への思いは根強い。
帝国と距離を置いているのなら、なおさら。
心配していたから、一度は行きたいと思っていたから、エルヴィアは頷こうとして一つ、思い出す。
「…この近く、カイクレス伯爵家の領地があったりする?」
「良く知ってるな。国境には接していないが、確かにある」
「…そういえば、フローラの実家ってセヴォル家だろ? カイクレス伯爵領を拠点にしてる」
頭を抱えるエルヴィアは、ゼイルの言葉に頷く。
唐突に頭を抱え始めたエルヴィアに戸惑っていたサムエルは、それで得心がいく。
確かに、故郷に近づくのは得策ではない。
ちなみに、ソギラ公爵領は西側、ロナ侯爵領は北側にあるので、近づくことすらない。
「なら、避けた方が良いだろうが…」
「出来るなら、行きたいんだけどね」
飛翔魔法で行けないことはないが、エルヴィアは複数人に対して使用したことがない。風属性だが、フローラにはまだまだ無理だ。高度すぎる。
危険は避けたいので、使用は避けたい。
「…少し迂回して、オークラインかコーラル経由で行くしかないだろ。コーラルは、帝国派のやり手が大公だから、避けた方が良いけど」
ゼイルの言葉に頷くが、現在地からはコーラルが近い。
出来れば、あまり時間をかけたくなかった。
「…みんなと相談するわ」
「それが良いだろう」
エルヴィアの結論にサムエルが頷く。
「ところで」
「?」
「最終的に、エルはどうしたいのだ? この国を」
サムエルの問いに、興味があるのかゼイルが身を乗り出し、エルヴィアが少し驚いたように瞬く。
ふっと小さな苦笑を刻んで、地図を見下ろしながらエルヴィアは呟く。
「最初は、逃げちゃえばいいやと思ってたのよ。どうせ、何もしなくても瓦解するだろうな、て。でも、そうなったら、内乱になって、他の国が出て来て、都市国家が余波をくらって、下手すれば大戦が再び勃発するかも、とか色々と考えて…」
エルヴィアの当初の目的は、イザベラの龍玉を龍族の下に返すことだった。その後は、適当に逃げて姿を隠して、ばれそうだったら移動して、を繰り返そうと思っていた。
フローラ達がそれに嫌気がさしたら出来る限りの援助をして、自由にしてあげようとも思っていた。
だが、ドレクセルでドレヴィク公爵がランド家を巻き込んだことで、考えが少し変化した。
ヴァルテルがフローラを好きになって、両想いになったのはただの偶然で、フローラに対しては身の程知らずと罵られてもいい状況だった。逃亡者なのだから、当然。
ゼイルのように考えるのがおかしい。エルヴィアは、その考えが嬉しかったけれど。
友人の幸せを願った。その未来の平穏を願った。なら、このままここで別れれば良い。
貴族の家に嫁げば外に出る機会はなくなるし、表に出てこない理由はいくらでも作れる。
けれど、フローラ自身がそれをよしとしないこと、ヴァルテルが好きになったのがそれを受け入れるフローラではないことを知っていたから、その決断ができなかった。
実際は、自分がさびしいだけ、と心で自嘲して、エルヴィアはかつてに思いをはせる。
かつて、間違っていく一部の戦友達を見捨てられず、自身の正義と信念を貫き通した友人を泣かせた。自分が甘かったために、利用されてしまったために、ここまで歪んだ国を作らせてしまった。
その責任を取る必要がある。
かつて、この国を作り上げた者として。思った形とは違って、最初は『帝国』なんかじゃなかったとしても。
「私は、今、成したいことがある。それが終わったら、私は私の責任を果たすために、もう一度この国に戻ってくるわ。そのことで、内乱も戦争も起こるでしょう。それでも、時に任せて帝国崩壊を待つよりも、犠牲者は少なくなるはずだから。……かつて、夢半ばで終わり、成し遂げられなかったことを、成すために」
言葉を切って深く息を吸い込んだエルヴィアは、これからの決意を言葉として続ける。
「この国を、正しい心と眼差しを持った後継者に、ゆだねます」
浮かぶのは、幽閉されたという友の小さな姿。
「もう二度と、友が泣くことがないようにするため、私は非道になりましょう」
身の程知らずにも幸せを手に入れた友人の未来を、守るために。
「私を信じてくれた者を、もう二度と裏切らずに済むように、私は躊躇うことをやめましょう」
恐れもなくついてきた友人達が、未来を作れるように。
それらの願いを、その決意を形にするために。
「私はこの国を壊します」
かつて作った者だからこそ、その権利がある。
力強い眼差しに、果てしないその決意に、サムエルとゼイルは頭を下げた。
「「御意のままに」」
それは、従うことを意味していた。
来る、彼女が戻ってくる日、自分達は彼女の剣になる、と。
※※※
重い決意が遠くない場所で成されている頃、ヴァルテルはフローラに一本の剣を差し出した。
柄頭に水晶がはめられ、法具と一体になった剣だ。
「約束していた法具です」
「ありがとう」
想いを通わせて、慣れてきたのかぎくしゃくすることもなく、普通に笑いかけられるようになったらしい。
笑顔で受け取るフローラに、ヴァルテルは自身の右手の中指にはまった指輪をこする。
目立たない程度に品良く細工が施された細身の剣に見入っていたフローラは、ヴァルテルの行動に気付かない。
「フローラ…」
ふいに響いた声に、フローラは瞳を見開いて顔を上げる。
チュ。
可愛らしいリップ音が響き、左手の指に冷たい感触。
思わず固まっていたフローラは、視界を埋める美青年の笑顔に徐々に顔を赤くし、状況を理解すると右頬に手を当てて剣を落としてしまう。
「なっん、ぅぇっ!?」
何を言っているのか全く分からないフローラの声に、美青年はくすくすと笑いだす。
「すごいですね、エルは。あっさりと、精霊術に適した法具を作ってくれました」
白銀の瞳を細める姿はヴァルテルを十年ほど成長させたもので、言葉遣いや低くなった声に残る面影から、美青年がヴァルテルだと理解する。
ついで、疑問に思ったのは、何故突然成長したのか、精霊術に適した法具とは何だ、ということ。
人の体と獣人の魔力がかみ合わないため、成長に異常が出たヴァルテル。
エルヴィアは、使っていくうちに馴染んでいくんじゃないか、と安易に考えていた。その上で、精霊術の訓練をさせていた。
結果、その安易な考えは的を射ていたらしい。ゼイルの『水晶眼』が視たもう一つの姿は、なじみ始めて、成長しようとしていたからだったのだ。
実際、精霊術に法具はないようで、獣人はそれらしきものを持っていなかった。
人と違って必要ないのだろうが、肉体と精神は人であるヴァルテルに、いつかひずみが現れるのではないかと危ぶんだ。
試行錯誤して、エルヴィアは護玉を元にした精霊術用の法具を作った。どう作ったのかは秘密らしい。
魔力が円滑に体を巡るようにするための、体外機関となる法具だ。
獣人の回路しかないのを、法具が人としての回路となる。
それが魔力と体が安定した状態を作り出す。
結果、本来の年齢まで体を成長させることができる。
当然、不自然な成長は体に負担をかける。この後、ヴァルテルには時間差で反動が来るだろう。
魔力が馴染んでいけば、自然と成長するだろう。だから、あくまで法具は補助でしかない。
馴染んでしまえば、精霊術には法具が必要ないから、それはただの飾りになる。
それらを説明されたフローラは、理解するのにしばしの時間を要したが、理解するとうずくまった。
内容がとっぴすぎる。超越者の考えは分からない。
うずくまって動かないフローラに、ヴァルテルもしゃがむ。
ふっと笑って再び右手中指の指輪に触れる。
「混乱させてしまってすみません。ですが、次に会う時は、本来の姿になっていますから」
聞こえた声に、フローラは恐る恐る顔を上げる。すると、今度は見慣れた姿のヴァルテルがいた。
それに思わずホッとして、長い息を吐き出す。
ヴァルテルはそっとフローラの左手を取って、にっこりと一部の隙もない完璧な笑みを浮かべる。
「そのこと、離れている間に忘れないで下さいね?」
どこか威圧感すら漂う笑顔に、少しフローラは頬を引きつらせ、気付く。
さっき指先に感じた冷たい感触が、今も続いている。ふと視線を落とせば、左手の薬指に銀色の輝き。
ヴァルテルはフローラの耳元で囁いた。
「誓いと約束、です」
「―――――――ッッ!?」
言葉にならないフローラの叫びが、城中に響き渡った。
真っ赤になったフローラに、疑問を浮かべながらもエルヴィア達は馬車に乗り込む。
原因が良い笑顔のヴァルテルだろうことは誰もが察していたが、何も言わなかった。
話にならないフローラは置いて、三人で決めた進路は南。一度、コーラルに行くことで一致した。
危険だが、傀儡政権と言われるオークラインは未知数だから、避けることになった。どうあっても一度は行くことになるのだが。
見送ってくれたサムエルとヴァルテル、ゼイルに笑顔で手を振って(フローラ以外)、翌日にはドレクセルを後にした。
国境までは、休まずに行って四日。
行商と休憩を含めれば、最短で十日はかかるだろう。
その間の無事をサムエル達は祈り、いつか来る日の為に、動き出した。




