人間性の敗北
その他のアーカイブも閲覧してみたが、大部分は既知の情報だった。まあ過去の情報なのだから、どれも古くて当然だ。
夕方、姫子が帰って来た。
「ただいまー。はぁー、ホント疲れた。今日の客ヤバかったわマジで」
玄関で靴を脱ぎながら、そんなことをぼやいた。
「あ、あんちゃんいたの。みつ豆買って来たけど食べる?」
「いや、俺はいい」
本当は食べたい。
なのだが、なぜか女子の前でスイーツを食べる勇気がなかった。牛丼屋にはひとりで入れるのに、ファストフード店には入れない。ファミレスでパフェを頼めない。これは俺が乗り越えることのできなかった課題のひとつだ。
人の命を奪う軽率さはあるのに。
ふたりがみつ豆を食い始めたので、俺は世間話のようにこう切り出した。
「外、暑かったろ?」
「そうだけど、クーラーのないここよりマシだね。外って言ったって、あたし基本的に室内にいるし」
「どんな仕事なんだ?」
おっと。つい焦って本題に入ってしまった。
俺は一方的に上からカマしているときは好調なのだが、会話のキャッチボールとなると途端にダメになる。
姫子はうんざり顔でスプーンを置いた。
「あのさ。あたしがどんな仕事してようが、あんちゃんに関係なくない?」
「いや、まあそうなんだけど……。心配だからさ」
「保護者ヅラすんのやめて。あたしがあんたの心配してたとき、あんたなんも説明してくんなかったよね? なのに自分はあれこれ聞くんだ? ま、どうしても知りたいなら教えてあげる。あたしはあんたに恩があるから。でも教えたら、もう貸し借りはナシね。そしたらこの家出てって」
「……」
かくして世界に氷河期が訪れた。
世界というか、俺の心の中にだけ。
姫子の言う通りだ。俺は彼女になにも説明しなかった。なのに俺だけが聞くことはできない。
情報屋も泣きそうな顔をしているので、俺はもう掘り下げないことにした。
「あたしさ、売ってんの、自分を」
急に回答が来た。
聞きたくなかったが、どこかで予想していた答えだった。
俺が返事をできずにいると、姫子はこう続けた。
「毎日毎日冴えないおじさんの相手してさ。でも金払いはいいよ。あたし、かわいいから。ちょっと大袈裟に演技してやるとさ、もうムキになっちゃって。なんか別の女の名前呼ぶヤツとかもいるし。みんなぶっ壊れてんだよね。溜まってるっていうかさ」
「分かった。もういい」
「なんだよ、もういいって。あんたが聞いたんだろ。あ、そうか。今日の餌代が欲しいの? あたしがアンアン言って稼いだお金でビールが飲みたいんでしょ?」
「いや、昨日のがまだある……」
「そう。ま、大事に使ってよね」
「……」
姫子にこんな仕事をさせてはいけない。
一刻も早く金を調達しなくては。
ついでにビールも飲みたい。キンキンに冷えたビールを、すきっ腹に流し込むのだ。そしてなにも考えずに寝たい。
*
夕飯はソーメンだった。
消化のいいもので助かった。あんまりキツいものは食えなかっただろう。自分で言うのもなんだが、俺はわりと繊細なようだ。
コンビニに行くと告げてアパートを出て、途中で電話をかけた。思想家からもらった携帯電話をまだ使わせてもらっている。
『どうしました?』
出たのは秘書だ。
「金が欲しい」
『なら仕事をしてください。守護者、偏愛者、突破者、珍走屋。どれでも構いません。ひとりあたり百万お支払いします』
「額は悪くない。だが、なんか増えてないか?」
『五年前の事件を受けて、シュラウド部隊も増員されましたので』
「五年前?」
『あなたの処刑ですよ。予想外の抵抗にあい、解体屋は右腕を負傷。偏愛者の片割れも引退してしまいましたから』
自分がそんな大活躍をしていたとは驚きだ。
おかげで余計に苦しめられたような気もするが。
「全員はムリだ。また殺されちまう。ひとりずつおびき出せるか?」
『もちろん。誰をご希望です?』
「まずは守護者から行こうか。あいつはチョロそうだ」
*
俺はすでに百万稼いだ気分で帰宅した。
「またビール?」
スマホをいじっていた姫子が不快そうに目を向けてきた。
が、気にしない。
「そう。またビールだ。今日もビール、明日もビール、明後日もビール」
「稼いだ金をホストに貢いじゃう風俗嬢いるけどさ、あたし、ああいうのバカみたいだなってずっと思ってた。けど、あたしも同じことしてる気がする」
「そういうなよ。デカい金が入ったら、お前にも楽させてやるからよ」
俺はあえて下っ端みたいなことを言った。
これは明日にでも死ぬようなヤツが吐くセリフだ。実際、死ぬかもしれない。しかし俺の場合は生き返るのだ。いくらでもフラグを立てられる。
姫子はすると、ずるずると這って情報屋にすがりついた。
「ねえちゃん。あたしのあんちゃんって、本当に死んじゃったんだね……」
「姫子ちゃん……」
「だってあたしのあんちゃん、あんなにダサくなかったもん。もっと堂々としててさ……」
聞き捨てならないことを言うもんだ。
俺は缶ビールを開け、一口やってからこう反論した。
「おい待てよ。堂々としてたんじゃねぇ。単に偉そうだっただけだ。なのに謙虚になった途端、ダサくなったとか言うワケだ。ダメだぜ、そういうの。いかにも凡百のクソどもが言いそうなセリフだ」
すると姫子も頭に来たらしい。
がばりとこちらへ向き直った。
「なによ凡百って! あんた、自分のこと特別だとか思ってるワケ?」
「いや、思いたくないんだよ、俺もさ。ただな、世界がどうしようもなくクソなリアクションをするとさ、否が応でも思い知らされるワケよ。やっぱ俺って凡百じゃないんだなぁって」
「なんだこいつ。頭湧いちゃってるぞ。ねえちゃん、救急車呼んでやってよ」
俺を勘違いさせたくなければ、世界が相応の振る舞いをすればいいだけの話だ。もし本当にご立派な世界なら、俺だって素直に負けを認める。「俺がクソでした」と頭をさげる。しかし残念ながらそうなっていない。
まあ俺は実際クソかもしれないが、世界はもっとクソなのだ。見下してしまうのは仕方がない。
救急車は呼ばれなかったが、姫子の機嫌は直らなかった。
こっちは缶ビールをふたつ開けて上機嫌だというのに。
そして俺が寝そべってテレビを観ていると、姫子が正面に立ちふさがった。
「あたしと勝負しろ」
「はぁ?」
さっきまで風呂に入っていたはずだが、その間もずっとイライラしていたのだろう。顔が真っ赤になっている。
俺は上体を起こした。
「なんだ? お兄ちゃんと相撲でもとろうってのか?」
「黙れ。ぶっ殺すぞ。なんか勝負しろ! あたしが勝てそうなやつ!」
クソ卑怯な条件を堂々と提示して来やがる。こいつにはウィン・ウィンだとかフィフティ・フィフティだとか、そういう小細工をする知能さえないのだろう。
「お前が? 俺に? 勝つ? へぇ。そいつを探すだけで一苦労だな」
「人間性だ! 人間性で勝負しろ!」
「言うじゃねぇか。別にいいが、そいつは客観的に判定できるのか? まあ数値化しろとまでは言わねぇが」
「ねえちゃんが審判する!」
「始まる前から不正試合の気配がするな」
「なんでもいいからあたしに勝たせろ! そして勝ったら命令する! いいな!」
「分かった分かった」
これはもう、聞き分けのないガキの相手をするお父さんの気持ちで挑むしかない。わざと負けてやって、クソみたいな命令を聞いてやるのだ。命までは取られまい。いっぺん黙らせさえすれば、明日もご機嫌でビールが飲める。
すると巻き込まれた情報屋は、怪訝そうな顔で会話の輪に入った。
「本当に勝負するの? 人間性で?」
「ねえちゃん、分かってるよね?」
「う、うん……」
小芝居は結構。
どうせ俺の負けなのだ。早くジャッジしていただきたい。
「じゃ、じゃあ姫子ちゃんの勝ち、かな。あ、違うの。黒木さんのこと嫌いってわけじゃないんだけど。姫子ちゃん、とってもいい子だから……」
俺もうなずいて応じた。
情報屋を責めるつもりはない。もし俺が審判でも同様のジャッジをする。だいたい、妹の稼いだ金でビールを飲んでいる無職の兄、という時点で勝てる要素がないのだ。七十億の人類がこの勝利を言祝いでいることだろう。
姫子は渾身のガッツポーズだ。
「っしゃあ!」
薄着でチラチラさせまくっている。
俺はなんとも思わないからいいが、これを外でもやっているのかと思うと少し哀しくなる。
いや、こんなのを哀しんでいる場合じゃないな。このあとクソみたいな命令が待っているのだ。
「おめでとう、姫子。お前の勝ちだ。それで? 俺になにを望むんだ? なにも持たない可哀相なお兄ちゃんに、お前はなにを命令するつもりなんだ? ん?」
すると姫子は不審そうに眉をひそめた。
「なにその言い方。なんかあたしが悪いみたいじゃん」
「いや、そんなことはないぞ。人間性の高いお前が勝ったんだ。さぞかし人間性に満ちあふれた命令が来るんだろうと思ってな。俺は楽しみにしてるんだよ」
「ぐっ……」
なまじ人間性で挑むからこうなる。
しかも事前になにも考えていなかったらしく、やたらキョロキョロし始めた。これはしばらく時間がかかりそうだ。
俺が仰向けになると、足の裏を蹴り飛ばされた。
「寝るな! あたしにマッサージしろ!」
「なんだと……。いや待て。セクハラじゃねーか。お前、男が自分にマッサージを命じてきたらどう思う? その辺ちゃんと考えたか?」
「違う! そういう変なのじゃなくて!」
「変なのじゃないマッサージってどういうのだよ?」
俺の質問もおかしいと言えばおかしいのだが。
姫子は一人で汗だくになっている。
「か、肩たたきだよ!」
「なるほど。まあまあ人道的だな。俺はてっきり、むかしみたいに馬にさせられるのかと思ったぜ」
姫子を背に乗せて、パッパカ言いながら四畳半を這い回ったのを思い出した。
当時の姫子は、容赦なく髪の毛をつかんできたものだ。あれはちょっとした拷問だった。
「馬? ガキじゃあるまいし」
「けど俺、肩たたきなんかしたことないぜ。適当でいいか?」
「ダメ。ちゃんとやれ。むかしあたしがやってやったみたいに」
「なんだそれ。記憶にないぞ」
すると返事の代わりに舌打ちが来た。
本当に記憶にない。
まさかとは思うが、俺がパソコンを操作しているときに、後ろからパンチしてきたのが肩たたきだったのだろうか。サンドバッグ代わりだとばかり思っていたが。ついでに蹴りも来た気がするのだが。
姫子が髪をまとめて片側に流したので、俺はとりあえず要求に応じてやることにした。妹の肩を叩くだけの単調な作業。
「強かったら言ってくれ」
「もっと強くていい」
「こうか?」
「それくらい」
右手をあげる、おろす。左手をあげる、おろす。
まるで機械にでもなった気分だ。
そういえばドストエフスキーは、穴を掘って埋めるだけの虚しい拷問について記述していたっけ。俺がいましているこれも、まるで意味の感じられない拷問のようだ。
「あんちゃん。こないだのアレやってよ。電気のやつ」
「どうせまたひっぱたく気だろ」
「違う。ちゃんと調整すればマッサージに使えると思うし」
先日、麻痺の能力を披露しようとして、誤って電気を流してしまったことがあった。応用できないことはないと思うが……。
「俺の能力が安定してないの知ってるだろ?」
「へーきへーき。あんちゃんは同じミスしないって信じてるから」
いや、何度でも同じミスをするのだが。
「じゃあ少しずつな。よさげなところで言ってくれ。そこで止めるから」
「痛くしないでね」
能力の使用には不安があるが、慎重にやれば大丈夫だろう。
俺は自分の内面の能力へアクセスを試みた。
姫子の肩がふるっと震えた。
「あ、いいかも。ん、でも待って。これホントに電気? な、なんかちがくない? ん、待って待って。ダメだってこれぇ……」
俺もなにかが違う気がした。
前は麻痺を出そうとして電気が出た。そして今回は電気を出そうとして別のが出た。これはおそらく、相手に快楽を与える能力……。
姫子は身をちぢこめ、涙目でこちらを睨んでいる。
俺は秒で土下座した。
「すまん! いくら能力が安定していないとはいえ、もっと慎重にやるべきだった!」
いや、冗談ではなく。姫子には、絶対にこういうことはするまいと誓って今日まで来た。なのにこんなミスで……。
こんなのはラッキースケベではない。ただの性暴力だ。
「姫子、いっぺん俺を殺してくれ。ちゃんと生まれ変わるから」
「べ、べつにいいよそこまで……。わざとじゃないの分かってるから。でも、ホントに能力安定してないんだね」
「うん」
先日の戦いでも、もし解体屋が俺の心臓を貫きに来たら、カウンターでフルパワーの電気をカマしてやろうと思っていた。
もしその計画を実行していたら、俺は心臓を貫かれ、解体屋は別の意味で昇天していたはず。
やらなくてよかった。
信じられるのは月だけだ。
あの閃光はすべてを平等に焼き尽くす。
(続く)




