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Log.9 ヴォルガ・ドイツの少女

 アデライーダ・イワーノヴナ・セレブリャコーワ、アーダの家系には、ドイツに残った分家があった。彼らから伝わってくるドイツ国内の様子は、プラウダなどで報道されるよりもずっと高い解像度でドイツの意図を浮かび上がらせてくる。


 すなわち、ドイツという国は生存のための当然の権利として東方へ広がらなければならず、そのためには戦争も厭わないであろうということだ。

 気が早いことで、旧ポーランドやウクライナの土地権利書を売り出している商人さえいるという。もちろん独ソ不可侵条約に基づいてドイツが獲得した側の領土ではなく、現時点ではソ連が領有している土地である。


 家族代々、姓を変えてロシアで生まれ育ち、アーダのアイデンティティは完全にロシア人である。こんな情勢でなかったとしても、今さらドイツに──ジルバーシュタイン家に戻って暮らしていけるとは思えなかった。

 それならば、ソビエトロシアの人民としての義務を果たし、共に志を同じくする仲間を見つけたい。


 若い少女らしく意識を張り詰めさせ、割り当てられた官舎に向かったアーダはそこで明らかに場違いな者の姿を見た。

 平均的なロシア人の体格から考えてもひときわ小柄な幼い少女。

 しかし彼女は、まぎれもない赤軍の軍服に身を包んでいた。


 アーダを案内してきた先任士官が敬礼を送るのを見て、慌てて自分も敬礼する。


「同志ゼリョーノワ教導官中尉、沿ヴォルガ軍管区からの訓練生をお連れしました」


「っ、ど、同志中尉! アデライーダ・セレブリャコーワ候補生であります! エンゲリス飛行学校より参りました!!」


 ミーリャにとってはその学校の名前はよく馴染みのあるものだった。

 他ならぬラスコーワ少佐が整備に尽力した飛行学校で、ミーリャも国境配備前の研修で訪れていたことがある。


「ご苦労、ドゥジンスキー先任。私が貴官の教導官を務めるミーリャ・ゼリョーノワ中尉だ。セレブリャコーワ候補生、貴官はとりあえず離陸と着陸はできるという扱いで良いのかな?」


 教える側としては、まずどれくらいのことができるのかという見極めは重要だ。

 外見からは想像もできないほど鋭い視線で見上げられ、アーダは思わず腰が引けそうになってしまうのをぐっと堪える。


 飛行学校の生徒たちの噂で聞いたことがある。

 赤色空軍には、天才的な幼い少女のパイロットがいる。


 少女といってもそれなりの年齢だろうと思っていたので、まさか自分よりはるかに年下だとは思ってもみなかった。


「はい、同志ゼリョーノワ教導官! 飛行学校では、基礎課程および計器飛行課程を修了しております」


「ならば早い。Yak-7UTIを使用する訓練から始めさせようと思うが、いいかな、先任」


「了解しました、同志教導官。機材の手配を申請しておきます」


「では早速行こうか。荷物を片付けたら飛行場へ集合、まずは長旅での鈍りをほぐす体力練成からだ」


「はい!」


 操縦技術だけではなく、空戦機動に耐える身体能力もミーリャは段違いだ。

 過酷なシベリアの天候の中での飛行で鍛えられている。


 工場に隣接した航空隊基地では多くの部隊が訓練任務を遂行している。

 各地の飛行学校から集められた候補生が、操縦操作だけでなく機の整備や武装の取り扱い、基本的な軍事教練、座学での航空理論や空戦教義、さらに士官たるための法学知識なども教え込まれる。

 平時であればどんなに短縮しても半年はかかるのが普通で、日本などの精鋭主義を採る国では一年以上の期間をかけることもある。


 ノルドトゥーレとの開戦に伴い、物資の割り当ては前線部隊が優先されている。

 教育部隊でのカリキュラムも短縮されているが、ここクルスカヤはまだ比較的余裕がある方だ。


 訓練任務の合間を縫って、ミーリャは機材や兵装のテストにも従事する。

 対地攻撃機であるIl-2だけでなく、制空戦闘機も新型のYak-1の大増産が指示され、順次置き換えが進んでいる。

 テストパイロット仲間の談義でも、ミーリャはひときわキレの鋭い空戦機動を披露すると評判だった。

 故郷でも長い間乗っていたU-2には特に習熟しており、複葉ゆえの極めて高い安定性を誇る同機を、往年の名機ポリカールポフI-16にも引けを取らないほどに素早く舞わせることができた。

 I-16は高速性能と格闘戦性能の両立を目指してラタ(ネズミ)というあだ名が付けられるほど胴体が短く設計されており、操縦の難易度という点では初心者兵にはやや難しい機種だ。

 Yak-1、およびその練習機型のYak-7UTIは性能のバランスもよく、なにより操縦しやすいという強みがある。


 体格の小さなミーリャは搭乗時には座面の設定を調整する必要があるため、他のパイロットが乗り込む際はこれを戻す手順が入っていた。

 対照的に比較的大柄なアーダは、うっかりそのまま乗ってしまうと風防に頭をぶつけることがあるほどだった。


「ところでゼリョーノワ中尉、エンゲリスから来たあの子はヴォルガ・ドイツ系ラシーイスカヤ・ネームカなのかい?」


「ええ、そう聞いています。親族はこんな情勢ですから、ドイツ(あちら)でもいろいろと大変なようですが」


「俺達は空の上なら民族も関係ないが、人民の感情は色々あるという。党への忠誠を示しておきたいんだろうかね」


「小官は諜報は専門外ですので」


「ははは、それを言ったら俺だってそうさ。パイロットの仕事は飛行機を飛ばすことだからな」


「加えて、火力を航空輸送を用いて投射することです」


「そうだそれもあったな。カデットの卒業論文は、党のお偉方にもずいぶん評判だと聞いているぞ」


 シベリアで暮らしていた頃から、ミーリャは人一倍知識欲が強かった。

 飛行機を飛ばすことにしても、ただ貨物を運ぶだけではなく、それはどういう目的のために運ばれ、輸送網はどのように構築されていくのかということを、広大なタイガの中に点在する村々を空から見下ろしながらずっと考えていた。

 両親が従事していたシベリア鉄道も、それが完成すればどのような経済的、軍事的効果が生じるのかということを、空から見渡して実感できる。


 ここに士官学校での専門的な学問が加わることで、ミーリャの中でひとつの理論ができあがり、固まっていた。

 航空戦力の本質とは単に人間の手の届かない高さから攻撃を撃ち下ろすということではなく、大きな火力を迅速に運搬できることである。地上を走る戦車や自走砲などは同じ馬力のエンジンでもどうしても速度では航空機に劣ってしまうが、航空機ならば揚力という地上では利用できない物理現象を用いることで圧倒的な展開速度を発揮できるのだ。

 自分たちが乗っている戦闘機や攻撃機だけではなく、国境で乗っていた偵察機や観測機、輸送機など様々な種類の航空戦力は、適切に組み合わせれば単なる搭載武器の威力だけでは比較できない絶大な戦略的価値が生まれる。


 ただ、これほどの理解であっても戦略レベルより更に上、国家どうしの力関係までいってしまうと、さすがにイメージの範囲を超えてしまう。


 しいていえば、町に荷物を届けに行ったとき、配達先の商人などから噂を聞くといった形で断片的な情報を得ることはできてはいた。

 だが情報とはそれ単体では意味をなさない。どのような意味を持ち、何の役に立つのかということまでは、ただ聞くだけでは推測が組み立てられない。


 アーダにしても、ドイツとの手紙のやり取りはここ数年ほどで当局の取り締まりが厳しくなってきている。

 政府の公式発表としては依然としてドイツとは協調しているというものだが、逆にこれを疑うための根拠が、国内で得られる情報からは絶対的に不足している。同様に基地司令官レベルの軍人であってもだ。


 既に軍の参謀本部は対独開戦は秒読み段階であると睨んでいる。

 ただそれでも、他国の議会に相当する党中央委員会では未だドイツの膨張の危険を正確に認識できるところまでいっていない。


 現時点でできることは有事の際の運用計画、動員計画をできるだけ多く構築し、演習を積み重ねることだ。




     † † †




 表向き、そして水面下でもソ連とドイツは平和裏に旧ポーランドを分割し、国境に非武装地域を定めてそれぞれを領有していることになっていた。

 しかし水面下よりさらに深い場所では、ポーランド全土を獲るべしという勢力が無視できないほど存在していた。両国ともその前身である帝政ロシアやプロイセン王国時代にはもっと領土を広げていたことがあったからである。

 もちろん独ソ不可侵条約は国際的に承認を得ているので、両国ともそれに従って行動するようには見せている。


 国家社会主義ドイツ労働者党、NSDAPの主張も対外的には外交交渉に基づいて統治を進めるとしてはいる。

 だが、第三帝国成立時に編入された部分に対するソ連の領土欲を警戒し、また党内ではソ連側に渡った部分への野心も存在していると、内務人民委員部、NKVDではドイツに潜入させているスパイからの情報を得ていた。


 現場レベルではそうだったが、これが党中央委員会に参加しているエジョフ長官のところまで上がる頃には、いくつもの管理者を挟むことによって次第に重要度が薄れてしまっていっていた。


 またノルドトゥーレ同君連合との不気味なつながりも見逃せない。


 元々トゥーレというのは古代ヨーロッパの神話に語られる伝説の地で、一般的には島とされているが学説によってはスカンジナビア半島であるともされている。

 またスウェーデン海軍の海防戦艦の艦名に採用されたこともあり、同艦はツングースカ惨禍による津波から生き延びていたが、ロシア革命に触発された北欧内戦の際に反乱が発生し喪失してしまっていた。


 そしてドイツ国内においては、ツングースカ惨禍こそが神話や聖書に予言される終末論の具体化であり、これを乗り越えた人類は選ばれしものであるという一種のオカルト的な神秘思想が支持を集めていた。

 科学文明が進歩し、伝承で語られるような逸話などはあくまで物語であるという割り切りがされつつあった近代において、人類文明を根底から破壊しかねない規模の天災が突如として降り掛かったという出来事は、人類の発展は未だ途上であるという認識を強制させるに足るものだった。


 ワイマール共和政におけるドイツ国民の復古革命運動が盛んになったのはこれが大きな背景として人々に力を与えていたと考えられる。

 そのものまさしく、トゥーレ協会なる結社がドイツ国内には古くから存在し、NSDAPの前身であるドイツ労働者党の幹部や、再軍備において重要な役割を果たしたルーデンドルフ将軍もそのメンバーに名を連ねていたとされている。


 かかる情勢下において、〝北の約束の地〟ノルドトゥーレがドイツ第三帝国の威光を背にソ連への強硬姿勢をとってくるのは必然的であるともいえた。


 そしてついに、運命の日が訪れる。





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