第七十話 エピローグ
数ヶ月後。
辺境の秋が来ていた。夏より空の高さが違った。木の葉が色づき始めていた。財務棟の窓から見える庭の木が、少しずつ変わっていた。
アイリーンは帳簿を開いた。今日の仕事が始まった。
シュヴァルツ公爵領の税収は、今年の集計で安定していた。三年計画の二年目が順調に進んでいた。農村部の不満は昨年より少なくなっていた。王都への書状の返答は、先月また一通来た。「改革の進捗に注目している」という内容だった。
辺境のシュヴァルツ公爵領、という言い方が、少し変わってきた。「辺境だが」という但し書きが、少し外れてきた。それは王都への書状だけでなく、近隣の商人や旅人の口にも出るようになっていた。
アイリーンはそれを数字として見ていた。数字は静かに動いていた。数字が動くとき、そこに理由がある。理由は自分が設計した仕組みにあった。仕組みが機能している——それが今日の数字の意味だった。
*
「少しよろしいですか」
リンデが財務棟に来た。いつもの観察者の顔で来た。
「はい」
「クロウリー侯爵家が、財務担当を三人新たに雇ったそうです」
「……そうですか」
「三人がかりでも、以前のアイリーン様の作業量には及ばないとか」
「……そうですか」
アイリーンはペンを止めなかった。帳簿の数字を確認しながら答えた。怒りは来なかった。喜びも来なかった。「そうなったのか」という静かな確認が来た。自業自得だ、とも思わなかった。追い討ちをかけようという気持ちも来なかった。起きたことが起きた、という事実として来た。それだけだった。
(……あそこのことは、もう遠い。)
侯爵家のことが「遠い話」として来た。以前は「あそこで何があったか」が少し頭の端にあった。しかし今日は遠かった。同じ距離にない話として来た。三人の財務官でも自分一人に及ばないという話が、ただの情報として処理された。感情が動かなかった。動かないことが今は自然だった。
「辺境の税収が安定したことも、少しずつ話が広がっているようです」
「……はい。数字がそうなっています」
リンデが「そうですね」と言って、少し立った。
「——それとは別のことも、耳に入ってきました」
少し声の調子が変わった。
「……はい」
「公爵様の、婚約のお話が出ているようです」
アイリーンは帳簿から目を上げた。
「……そうですか」
声は出た。顔が少し伏せた。顔の温度が変わった気がした。
リンデが何も言わなかった。少し待った。
「……以前とは違う「そうですか」ですね、アイリーン様」
静かに言った。
アイリーンは少し顔を上げた。リンデが目で笑っていた。目だけで。
「……失礼しました」
リンデが小さく頭を下げて、廊下に消えた。
*
アイリーンはしばらく帳簿の前に座っていた。リンデが去った廊下が静かだった。
「婚約のお話が出ているようです」という言葉が頭の中に残った。誰との婚約か、という問いは来なかった。来る前に「そういうことだろう」という確信があった。リンデが「以前とは違う」と言った。それが正しかった。
怖いかというと、違った。怖いという感触より先に、温かさが来た。来ることへの温かさが、今日は先に来た。
帳簿を閉じようとして、止めた。数字を最後まで確認してから閉じた。
*
「……今日はどうだ」
夕刻、アルドリックが来た。いつもと同じ声だった。いつもと同じ来訪だった。
「……はい。今日の集計が出ました」
「見せてもらえるか」
「はい」
書類を渡した。アルドリックが受け取った。読んだ。少し止まった。
「……数字通りだ」
「はい」
アルドリックが書類をこちらに返した。アイリーンは受け取った。
いつもと同じやりとりだった。しかし今日はその「いつもと同じ」の中に、今日だけの意味が少し入っていた気がした。「今日はどうだ」「数字通りだ」——この短い言葉のやりとりが、今の自分たちの間にあるものを含んでいた。
(……そういうことになりました。)
頭の中で言葉が来た。誰かに向けた言葉ではなかった。誰にでもなく、独り言に近い言葉だった。
「そういうことになりました」——婚約の話のことかもしれなかった。任命状のことかもしれなかった。この場所に来てから今日までの全部のことかもしれなかった。どれについてという区切りなく、「そういうことになりました」という言葉が来た。
アルドリックがまだそこにいた。書類を返した後も、すぐに立たなかった。
「……今日はこれで終わりか」
「はい。終わりです」
アルドリックが「そうか」と言った。それ以上の言葉は来なかった。来なくていいとアイリーンは思った。
二人の間に秋の夕刻の静かな時間があった。窓から差し込む光が金色になっていた。辺境の秋の夕刻は、夏より少し早かった。
アイリーンはその光を少し見た。
(……そういうことになりました。)
もう一度、頭の中で言葉が来た。声にはならなかった。しかし確かに来た。静かな喜びが、その言葉の中にあった。
ここが自分の場所だった。仕事がここにあって、この人がここにいて、この秋の光がここにあった。それが今日の全部だった。それで十分だった。




