第36話 水始めて涸るる ─吹聴─
結局、アオは一人で退屈な秋祭りを終えた。
宰相は途中で席を立つし、ユイは面倒な役を押し付けられてから帰ってこない。サキは妹と折り合いをつけられたのだろうか。
アオは炎や縁日の灯りの消えた壇上で、ぽつねんと人が来るのを待っていた。
「……紫姫」
宰相が自分に似ていると言った女性の名前だ。斑がなくなったので辺境に追いやられるとは酷い話。いや見方を変えれば異なった解釈ができるのかもしれない。
ミコトとは年も近かったのだろう。ミコトは座を追われる可能性を危惧して、彼女に何らかの理由をつけて遠くへ追いやったなんてことはないだろうか。
しかしどうしてそんなにも気になってしまうのだろう。
古琴の少ない奏者ということで親近感を抱いているのだろうか──。
「アオ、お待たせ」
額に汗を浮かべたユイが息を整えながらやってきた。この帯では地面に擦れて汚してしまうので、人が来るまで歩けないのは不便だ。アオは少しだけ申し訳ない思いをしながら、待っていないということを伝えた。
「考え事をしていました」
「そう。サキは?」
「ルリに見つかってしまって、話をしてくるように言いました」
ユイは渋い顔をする。
「英断だと信じよう。……それで今日はどうだった? 周りの人と話はした?」
しかしすぐに表情を取り戻して、一日の様子を聞いてきた。帯を持ち上げてくれたのでアオは静かに立ち上がった。人がいないとはいえどこから見られているかわからないので、所作は丁寧なものにしておく。
「はい、宰相さまと。でも途中で席をお立ちになりました」
アオは詳しいことを言わなければ良かったと後悔する。席を立った理由はなぜか、と聞かれるのは分かり切っていたのに。
そしてもちろんユイは宰相がどこかへ行ってしまった理由を聞いてきた。
「……わたしに悪いことを言った少女がいたんです」
ユイは少し知っていたような反応を見せる。
「あまり驚きませんね」
「火の番をしている時も、アオを悪く言う人は割といたから。ありもしない噂を流されてるみたいだね」
「そう、だったんですね。……なら、なおさらあの子は悪くないです」
後宮へ戻る途中、サキが駆けてくるのを見つける。ユイはどんな理由があろうと職務放棄だと怒りかけたが、アオが制した。
「ルリは?」
「ちゃんと話をつけてきたわ」
「……」
アオはじっとサキの目を見つめる。サキは軽くたじろいだが、目を逸らすことはなかった。嘘は吐いていないようだ。
「でも、都に嫌な噂が回ってるみたいなのよ」
「アオのこと?」
ユイの問いかけにサキは、アオをちらりと窺った。アオは、自分は悪くないと思っているので毅然としていた。サキはその態度に安堵したのだろう、控えめだが頷いた。
「都は盲点だったな」
ユイは悩ましそうに顎に手を添える。
その横でアオはサキを手招いた。耳打ちをしたいが、サキは背が高いので耳の位置が高い。少しだけ屈んでもらって、アオは小声で囁いた。
「あとで亥二つに寝所へ来てください」
「ど……どうしてよ」
サキはあからさまに動揺を見せる。夜に来るように約束を取り付けるなんてと言うが、アオは彼女の言うことが分からない。
それにもう一つ言うべきことがある。
「ユイには黙って来てください」
人差し指を立てて口元にかざす。
アオの真剣なまなざしにサキは気づいたようだった。サキはこくりと頷くだけをした。
「紫姫、って知っていますか?」
アオの質問にサキは首を振る。
時刻は亥二つ時。いつもはアオが一日の復習をする頃合いだ。今日は秋祭りに疲れたから、と言ってユイには自室に戻ってもらった。
そうして暗い寝所ではアオとサキの二人が行灯を囲んでいた。
「宰相さまが言っていたんです。紫姫という古琴が上手な後宮にいたと」
「紫姫……。多分あたしがここに来る前の話よね。だったらわからないわ」
サキは申し訳なさそうに眉を下げて言った。
ユイにはどうしてだか聞きづらい。だからサキに尋ねてみたのだが彼女も知らないとは困った。
「でもどうしてそんなことを?」
「……宰相さまがわたしに向かって『紫姫と似ている』なんて言うので、どんな方だったのか気になっただけです」
「そうなのね」
サキはしばらく斜め上を見上げて唸っていた。彼女なりに何か思い出そうとしてくれているのだろうが、無理強いはしない。
もういい、と言いかけた時サキはあっと声を上げた。
「ダン師なら知ってるかも」
硬い黒髪の医務官を思い出す。ユイと仲の良いサキからダンの名前が出てもおかしくはない。
「明日の朝、聞きに行くのはどう?」
「迷惑じゃありませんか?」
「きっと暇してるわ」
サキはにっこり笑う。彼女が言うならそうなのだろうか。
アオはちょうど医務室のある方角を見つめた。




