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第37話 鴻雁来たる ─真相─

鴻雁来(こうがんきたる)

 ──雁《かり》などの冬鳥が渡って来るころ。






 医務室は以前よりも少し雑然としていた。

 ダンはアオとサキが二人でやってきたことに目を丸くしていた。彼はいつも少し離れた医務室に籠《こも》っているので、異動についてはあまり詳しくないのだろう。

 しかし彼は驚きつつも二人を診療室の奥にある部屋へと通してくれた。変な草が並べられていないおかげか、鼻をつまみたくなるような強い匂いはない。寝台が二つと小さな机、机に合わせた椅子が四脚だけの簡素な部屋だ。


「前回は失念していました。長年此処(ここ)にいると鼻も鈍《にぶ》ります」


 ダンは苦笑してアオに椅子を進めた。


「お気遣いありがとうございます」


 椅子に腰かけると、アオは鼻腔《びこう》をつんとつくような香りのある黄色い不透明な液体の入った茶器を受け取って、その中を覗《のぞ》いた。何か黄色く細長いものが沈んでいる気がする。


「これは?」

「生姜《しょうが》湯よ」


 アオの質問に、同じように茶器を受け取るサキが代わりに答える。


「生姜湯」

「生姜と白湯《さゆ》と橙子《とうし》で作ります。沈んでいるのは橙子《とうし》皮《ひ》ですよ」


 鸚鵡《おうむ》返しするアオにダンは丁寧に教えてくれた。


「橙子は柚子《ゆず》っていう柑橘《かんきつ》仲間ね」


 アオは茶器に口をつけた。液体が触れた場所からじんわりと熱を持ち始める。半分ほど口に入れると、体の中心辺りから温かくなる気がした。


「これ……飲んだことあります」


 この感覚を知っている。

 アオは昔を思い出しながらぽつりと呟いた。


「おや、珍しいですね。アオさまは蜂須賀《はちすか》村の出自でしたか」

「はい」

「都以外のムラ人は基本全く漢方《かんぽう》に興味がないものですから」


 ダンはそう言いながら、おかわりはこちらを、と瓶を目の前のテーブルに置いてくれた。原料となる生姜と柚子のすりおろしが混ぜられたものだ。白湯は布巾の上に置かれた薬缶《やかん》に入っている。

 飲み干してしまったアオは匙《さじ》を片手に瓶《びん》を手に取った。

 サキはあまり得意じゃないのか、口を湿らせる程度に味わうと茶器を机に置く。そして本題を始めた。


「ダン師《せんせい》は紫《むらさき》姫を知ってる?」


 ダンはアオの正面の席に腰を下ろそうとする動きを止める。何かまずいことを聞いただろうか、サキは少し重くなる空気に戸惑《とまど》いを見せた。


「どこで聞いたんだい」


 半ば問い詰めるようにダンはサキに尋ねるが、サキはアオの方を見る。言い出したのはアオだ。アオは話題を受け取って、自分で話を進めることにした。


「昨日の秋祭りで隣のお席が宰相《さいしょう》さまだったんです」

「辰廻《シンカイ》宰相殿ですか」


 アオは頷く。


「わたしは催《もよお》しの一環として古琴で鴉鷺《あろ》正伝《せいでん》を弾いたのですが、それをご覧になったようで……その時の様子が容姿相まって紫姫に似ていると」

「辰廻はそう言ったのですね?」

「はい」


 ダンは宰相を辰廻と呼んだ。実は何かしらの関係があるのだろうか。


 正直に申し上げますと、とダンは慎重に話を始めた。アオもサキも背筋を伸ばして耳を傾ける。


「紫姫は今代巫さまの再従姉妹《はとこ》に当たる方です。そして今の巫さまとその座を争っていらっしゃいました。……いえ、訂正しましょう。ミコト様が紫姫を目の敵《かたき》にしていた」


 ダンはそこまで言い切って首を横に振った。


「目の敵」

「ええ、でもそれは杞憂《きゆう》だったのですよ。紫姫は斑《まだら》を持っていましたが、血筋として強いのはミコト様ですから彼女が巫になることは明白でした。十七年前の話です」


 十七年前。つまりアオが生まれる前の話だ。その時はミコトも巫の座にいなかった。おそらく母親か、血族の女性が座していたのだ。


「しかし紫姫は優しくも強かで、手首を返せば官吏《かんり》を味方につけられる頭脳を持っていたのも確かです。ですのでミコト様は紫姫を辺境のムラ……蜂須賀村に送り、監督者を任せました」

「ちょ……ちょっと待ってください。監督者、ってなんですか?」


 アオはダンの語りを無理やり遮《さえぎ》って尋ねた。

 生まれて十五年、アオは蜂須賀村で過ごしてきたが、ムラの長以外に監督者というものがあったのは初耳だ。


「今はいらっしゃいません。いたのは八年前、蜂須賀村と鶏内《かいち》村の抗争の時までです。臨時で置かれた監督者とはいわゆる責任の押し付け役で、抗争を収めるのにはちょうどいい立場でした」


 サキも鶏内村の名を聞いて他人事ではないと思い始めたようだ。アオの隣で手に汗を握って聞いている。


「抗争はミコト様による監督者の斬首で収められました。それは今思い返せど過ぎた刑罰で、私怨《しえん》もあったと思います」


 しかしアオは昨日はじめて紫姫という人を知ったのだ。八年前に死んだのなら、名前くらい聞いていてもおかしくない。

 アオはその齟齬《そご》を尋ねようとして、ダンが苦しそうな表情を浮かべているのに気づいた。


「……どうしたんですか?」

「お許しください、アオさま。私は……ミコトの従弟でありながら彼女の斬首を止められなかった」

「な、何を言って」


 隣のサキを伺うが、彼女は何も言うまいと口を噤《つぐ》んでいる。


「ダン師はミコト様の従弟《いとこ》? それでどうして私に許せなど」

「紫姫は本名を……ユカリと言います」


 アオは座っていた椅子から滑り落ちた。椅子の脚が板間を叩く。静かな空間にダンの言葉が反響して聞こえた。


「……ユカリ、ですか? 本当に」

「本当なのです」


 それは八年前に亡くした母親の名と同じだった。

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