第16話 玄鳥去る ─支度─
玄鳥去
──ツバメが子育てを終え、南へ帰るころ。
交流会は気候の良い春に行われる。
現に、今年の春にはすでに行われていたようで、今回は変則的な行事になるらしい。
アオはセツと数人の宮女の助けもあって、納戸色の衣裳に袖を通していた。雪のような銀の刺繍はかなり重く、アオはゆっくりと腕を持ち上げた。そして上から象牙色の外衣を羽織ることになる。
「お綺麗ですわ!」
すっかり元気になったセツが手を叩いた。続くように女官らも口々に褒めてくれる。
アオは言われたことのない誉め言葉の数々に照れてしまって、髪を編み上げられてすっきりとした襟首に手をやった。
「そんな。素敵な衣装のおかげです……」
「いいえ、そんなことありません。ほら御鏡をお持ちになって下さい」
アオはずっしりと重量のある手鏡を渡されて、おそるおそる覗き込んだ。
耳には深い青色の石が嵌め込まれた金の飾りが揺れていて、少しだけどきりとする。首の白いまだらは透かしのある白い布で覆われていて適度に隠れているので、アオはそれも気に入った。
「着替えは終わった?」
部屋の外からユイの声が聞こえてくる。
アオが許可をしようとすると、セツに口を塞がれてしまった。顔を見上げると彼女は首を横に振って、大きな化粧箱を持ち出した。
「もう少しだけお待ちくださいませ! 仕上げの仙術がまだですわ」
「仙術……?」
部屋の外と中でユイとアオが声をそろえる。
アオは傾げた首を戻されて、セツの指先が顎に触れた。右手に持った小ぶりの筆を淡い色の紅につけると、アオは目を閉じるように言われる。
整えられた眉と、目尻、そして口許が撫でられる。くすぐったい感覚に耐えながら、セツが目を開けてもいいというのを待った。む、と少しだけ顔を突き出したような格好でアオはできるだけ動かないようにする。
しかしセツの手が離れてしばらくしても、目を開けてもいいと言ってくれない。
「あ、あの、もういいですか?」
背後では女官らが動いているので、むず痒くなってきた。
「セツさん?」
アオは躊躇いつつもうっすらと瞼を持ち上げることにした。
「へっ⁉」
眼前に迫る顔に、アオは妙な声を上げて仰け反った。
「アオさま、まだ目を開けないでくださいね。額に紋を描いていませんから」
別の化粧箱を漁っているセツの背中が遠くにある。代わりにアオの目の前には顎に手を添えたユイが立っていた。
部屋の外にいたはずだが、いつの間に入ってきたのだろう。少なくともアオの耳には障子が開いた音は聞こえなかった。
「……まじまじと見ないでください」
アオは肩をすくめて、目を閉じ横を向く。ユイはアオが見た中で一二を争う美形だ。そんな人物に顔を見物されると、居心地は良くない。
しかしユイは予想外にも誉め言葉を口にした。
「悪くない」
「本当、ですか?」
「本当です!」
セツはユイの代わりに答えながら、粘性のある何かを筆に取りアオの額に手を添えて細かく動かし始めた。紋と言っていたので何かの模様であることは間違いないだろう。そしてなにがしかを書き終えた額に箔のようなものを押し付けられる。
「これで完璧です」
アオがもう一度鏡に映すと、先ほどより少し華やかになった自分がいた。奉納祭の時とは違って強すぎない色の紅を使っていることが、アオのまだ幼い顔を引き立てている。玄人の手にかかればここまで化けるものなのだ。アオはらしくもなく、顔を左右に動かして鏡の中の自分をしばらく見つめあった。
支度を終えると沓を履くために回廊に出る。ユイが奉納祭の時、ミコトにしたように、アオの長く垂れた帯を抱えた。雲のような柄が刺繍されたそれは、アオの歳にしては大人しいがお気に入りだった。
ユイが帯をセツに受け渡し、代わりに沓と台を目の前に運ぶ。重い装飾で動くのに一苦労なアオは申し訳ないとも思いつつ、ありがたく足を伸ばした。ユイは慣れたように沓を履かせてくれる。
沓の調子を整えると、アオはユイが立ち上がるのを待った。しかしユイはアオを見上げたまま動かない。
「あの……ユイ?」
「……アオ」
「な、なんですか?」
「今日の食事には手を付けないように」
今言うか。
アオは少しだけ面食らった。
「わかりましたけど……どうして今?」
「銀の刺繍を見て思い出した。それはちょっとした牽制だから」
ユイは顔を見せないように立ち上がるとセツの帯持ちを変わる。安定感が上がって、アオは姿勢を正し直した。
確かに、意匠案にはすべて金色で模様が描かれていた気がする。いつ変更したのか気にしていなかったが、今は一部が銀の刺繍だった。とはいえ、目立つ耳飾りや襟は金だが。
「悪いようだけど、僕は今日の交流会を楽しんでとは言えない」
アオは視界の端でセツが眉を下げて俯くのを見た。
忘れかけていた。今日、あの日のセツのように倒れることになるのはアオかもしれない。
「本当は変なものに触れないように手袋もさせたかったけど」
「それは……おそらくできませんわ。用意しても交流会中は外すことになりましょうし……」
セツの言うことにユイが背後で頷くのが分かった。アオは背筋が自然と伸びていくのを感じた。
浮かれていてはいけない。それが普段は楽しいお茶会だったとしても、今日は一種の戦場に代わっている。アオを貶めようとする人がこんな好機に害をなさないはずがない。
「とにかくアオは、数日叩き込んだ礼儀作法に則って、周りに合わせていればいい」
「は、はい。わたし……頑張ります」
ユイは答えなかったが、代わりに帯を持ったまま一歩踏み出してきた。アオは突き動かされるように回廊を進んだ。




