第12話 鶺鴒鳴く ─騒動再び─
セツが敵である可能性はあると、ユイが言った側からだ。
午前、アオはユイに睨まれながら筆を動かしていた。
今日は復習も兼ねて、『安』から二十個ほどを頭に入れた。脳の容量がいっぱいになる前に昼の鐘が鳴ったのは幸いだったが。
問題はその後だった。
昼食を終えてセツの訪問を待つが一向に来ない。
アオはまだ少しずつしか読めない本を手に、ユイの横顔を伺った。ユイもまた本に集中しきれない様子で気もそぞろに、怪訝な表情で胡座を組み直す。
「⋯⋯こ、来ないですね」
「来ないね」
「行ってみませんか?」
ユイはアオの提案に顔を上げた。
「栽房に?」
「そんな名前でしたっけ⋯⋯? ともかく、セツさんの働いているところに行きませんか。まだ重要な作業が終わってないのかもしれないですし」
「⋯⋯動き回るのはあまり得策じゃないと思うけど」
アオはじっとユイを見上げる。
自分に関わったことで何かあったなら、知らないわけにはいかない。
ユイはアオの真剣な眼差しに、徐々に眉間へ皺を刻んで、ついに脱力した。
「⋯⋯はあ。僕のことを万能だと思ってるなら間違いだよ」
そう文句を言いつつも、ユイは重い腰を上げてくれた。
尚服局はどの部署よりも静かだ。
金槌を叩く音も聞こえない。包丁で具材を刻む音も、それから筆が紙を滑る音さえも。
しかし今日は違った。
ユイは宮を前に立ち止まる。アオは動かないユイの腕を引いた。
「行かないんですか?」
往生している二人の脇を、多くの女官が行き来する。その中には半ば金切り声のようなものもあって、悲惨な状況だった。
「一体何が?」
ユイの震える口から声が漏れる。アオはそれだけでこれがいかに異常事態なのかを知った。
アオは横を通りすぎようとした女官に手を伸ばした。
「あっ、あの⋯⋯!」
「なに?!」
「ごめんなさい。この騒ぎ、何かあったんですか?」
「そんなこと言ってる暇はないのよ、早く医師を⋯⋯」
女官は取り乱した様子でアオを振り払う。医師が必要な状態とは何があったのか。
アオは今度こそユイの腕を強く引っ張った。
「見に行きましょう」
「駄目だ!」
ユイは鋭い口調で叫ぶとアオを脇に担ぎ込んだ。ムラで見たどの男子よりも華奢だというのに、さすがアオ一人くらい軽々と持ち上げられてしまう。
そしてアオは土足のまま天子宮の中へ連れ戻された。
「あれは毒の騒ぎだよ」
ユイは冷静に、けれど怖い顔をして言う。
「毒、ってどういうことですか?」
「女官たちの会話を盗み聞きして大体状況は把握した。倒れたのはセツだ。全身に赤い発疹が現れていて、呼吸困難だって」
少なくともアオは騒ぎの中から聞き取ることができなかった。アオはユイの話すことを一つ一つ咀嚼する。
「どうしてセツさんが⋯⋯」
「君を貶めるためだよ!」
ユイに肩を強く掴まれる。アオは思わず足元がふらついた。
「僕が甘かった。やっぱりアオは、当分外に出ない方がいい。それから他の人にも──」
「天子さま! いらっしゃいますか?!」
ユイの言葉を遮るように女性の怒号が天子宮に響く。アオは無実の罪に疑われているという恐怖から、ユイに身体を寄せた。
「何の用だ」
ユイはアオの肩に腕を回しながら声を張る。
「ユイ、君でもいい。出てきてくれないか」
次に聞こえたのは落ち着いた男性の声。ユイは肩の力を抜いて、アオに向き直った。
「信用できる人の声だ。これなら一緒に行った方がいいと思う」
「わ、わかりました」
アオはぎこちなく頷くと、玄関の方まで辺りを見回しながら向かった。
そこにはご立腹らしい女性と、落ち着いているが穏やかでない表情の壮年の男性が並んで立っている。女性は衣服の色からおそらく尚服局の人間で、男性は服の上から白い羽織りを着ていた。
女性はアオを認めるなり赤かった顔をさらに紅潮させた。
「あなた、天子さまが知らないけれど、うちの優秀な働き手をよくも殺そうとしてくれたわね!」
「落ち着いてください」
男性は興奮する女性を宥め、羽織りの襟を整えた。そして手袋の調子を確認してからアオへと手を差し出す。
「はじめまして、天子さま。私は医務官のダンと言うものです」
「⋯⋯」
「握手はお嫌いですか」
アオは首を横に振った。しかし今は握手する気になれない。ユイもアオを庇うように一歩前に出る。
「ダン師、イト尚服。何の用ですか?」
ユイが率直に尋ね聞くと、ダンという医師は顔つきを濃くした。
「天子さま。恐れ入りますが、貴方には毒を持っている容疑がかかっています」
「⋯⋯」
「馬鹿なこと言わないでください。少なくとも、ずっと一緒にいる僕はどうにもなってない」
「……。だよねえ」
ユイの訴えに先程の真剣さとは売って変わって、ダンはヘラリと締まりのない顔で笑った。
アオは拍子抜けして呆気に取られる。
「だから言ったでしょう、イトさん。あまり噂は鵜呑みにしてはいけないと」
ダンは女性に優しく微笑むと、彼女は下唇を噛んだ。
「でも火のない所に煙は立たないと言うでしょう?!」
「根も葉もない噂もありますよ」
女性は今度は上手く言い返されたことに腹を立てて、髪に差していた装飾を抜き取り地面に叩きつけた。そして地団駄を踏みながら宮をあとにする。
なんとか一時的に容疑は免れたようだ。
ダンは一区切りついたと深く息をついて、アオの前に膝をついた。アオは予想だにしない行動に後ずさる。
「や、やめてください」
「申し訳ありません、天子さま。彼女の無知をお許しください」
「無知だなんてそんな……。それに毒はあるかもしれませんし」
アオが謙遜すると、ダンは立ち上がりユイを厳しい目つきで見た。ユイは身を仰け反らせつつも、飄々とした表情でダンの目を見返している。
「こういった不安が抱える人がいるならすぐに医務室に連れてきなさいと、何度言ったらわかるんだい」
「アオは……とっくに自分が毒娘なんかじゃないって理解してると思ってた」
「どうして素人の言うことを他人が信じる思う」
ユイは小さい子供のように唇を尖らせるとそっぽを向いた。ダンはあえて呆れて見せるとユイを押しのけアオの手を取って握手をする。今度は不思議と抵抗感がなかったのは、ユイが彼と親しくしていることがわかったからだろうか。
「心細かったでしょう。ユイは昔から言わない子なので」
「え、ええと……でも庇ってくれたので」
「文句の一つくらい言ってもいいんですよ。ユイはいつも報連相のどれかが欠けていますから」
ユイを振り返るが、相変わらず拗ねたような様子のままだ。
「セツと言う女官についてお話ししましょう、天子さま」
「天子さまと呼ぶのは控えていただけると……」
「失礼しました」
「でも、セツさんについては教えて欲しいです」
アオは手袋に包まれた彼の手を見た。




